第141期 #7

天国の耳

 どこまでも戦おうと二人で言い交わしたのに、妻は諦めたのだ。だから、まるでそれが楽しみなことであるかのように、微笑んでいた。これから始まる休暇のために、トランクに入れる服のことを言うかのように。
「ウエディングドレスを、まだ取ってあるの。それを最後に着たいから、着せてね」
 答えようとして、返事ができないでいる私を、妻は心配そうに見た。
「泣かないでね。もしもあなたの泣き声が聞こえたら、安らかに眠ってはいられないよ」
 だから、思いきり声をあげて泣こう。地獄耳は何でも聞こえる耳と言うから、ドレスを着た妻が地獄に行ったなら、蘇っただろう。しかし天国の耳はずいぶんと遠い。私がどんなに悲しんでも、いつまでも安らかに眠り続けている。
 夜の真ん中で、太い縄を手に、森の奥から仰ぐ夜空。その空は暗くはなかった。明るい紫色で、銀や赤の星が木の葉の間にちりばめられて、木がイヤリングをつけたようだった。草が揺れ、何か小さな獣が茂みの影を走っていった。夜の鳥が狩りをする鳴声もした。夜は気配と命に満ちている。それなのに、おまえ、どこにもいないのか。来ないのなら、こちらから行くよ。枝に縄をかけ回し、そこに私の体重がかかれば、星は揺れてシャナシャナ響いた。喉。絞られる。苦しむ間もない衝撃。枝が折れて、地面に転がっていた私。じんとした痛み。土に片耳をつけたまま。ごめん。つぶやいた自分の声。耳が冷たい。生きろ、生きろ。勢いよく森中の木が伸びる音が聞こえている。耳の形をしたキノコが青白く光って生えている。こんな小さな、もろそうなものでさえ、しゃんと立っている。自分が恥ずかしかった。空から妻は見て嘆いているだろうか。おまえ、どこにもいなくなってしまったら、もう、どこにでもいるのか。
 起き上がる時にキノコをうっかり潰してしまったから、次の朝から、食卓にはいつも、耳の形をしたキノコビトたちが現れることになった。何匹も、どこからか生えてきたキノコみたいに現れて、満足するだけ食べ終えれば消えてしまう。小さなコビトでも食パン一枚を食い尽くす。白いところから食べ始めて、耳を最後にぐるりと食べて消えるものもいるし、耳の先端から食べ始めて常に三角形に進んでいくものもいる。シャワシャワした咀嚼音の合唱が妻の席から起きる。私はパンを多めに準備していなければならない。生きること。



Copyright © 2014 赤井都 / 編集: 短編