第140期 #8

やさしい丘

 その犬の飼い主はちいさい男の子だったが、川におちて死んだ。
 土手の土がえぐれていたので足を踏み外したことになっているが、友人が突きおとしたことを犬は知っている。連れ去られていくのを見た!
 夕暮れがあざやかに燃えたつ夏の日、両親はいたずら犬に愛想がつきて捨ててしまうことにした。アザミで賑わう小高い丘のふもとにつくと、母親はオレンジ味のシフォンケーキを草むらに投げた。鼻が草いきれをまともに浴びて、見つけるのに時間がかかった。スポンジの穴を黒蟻が出入りしている。ふた口でたいらげた。
 父親の自動車は消えていた。代わりに道幅いっぱいのトラックがアザミを踏みつぶしながら近づいてきた。運転手の女がかじりかけのホットドッグをちらつかせておりてくる。背が高く、ブロンドの髪もことさら長い。
 二本足で動くものなら何でもよかった。泥だらけのブーツにすり寄ると、ソーセージをひとかけもらった。ブーツの先で、脇腹をしたたかに蹴りあげられた。「ばかいぬ」と吐き捨てトラックは去った。

 すぐに飛び起きたが、思うようには歩けなかった。腰が変に曲がってしまって、無理に戻そうとすると、腿のつけ根にはげしい痛みが走るのだった。
 丘の上のカエデの木から小鳥が飛び去った。草の表面をすべったテントウムシが、風に流された。投棄された缶詰が転がった。缶には、少年と犬のイラストが描かれていた。
 犬は男の子に関するたいがいのことを知っていたが、彼らのタブローがスーパーのドッグフード売り場に並んでいることは知らない。友人が突きおとしたことは知っているが、天才子役と謳われた男の子を羨んだからだとは分からなかった。まして息子をアイドルに仕立てあげた両親が、犬を置き去りにしたあと丘の反対側に自動車を停め、猟銃で喉奥を撃ちぬいていることは感づくまい。しかし、丘は知っていた。人の手も借りずにできあがったアザミと芝生の絨緞が、物事のすべてを包みこんでいるからだ。丘の上を犬が走る。少年と追いかけっこ!
「ばーか」と笑う少年と犬。丘は大きな手のひらで、カエデの木の一本を引っこぬく。

 一マイル離れた農場の脇道、トラックの暗い車内。
 ほてった股間に指をうずめていたブロンドの女は、おびただしい黒鳥の群れのような車窓のまん中に、それを見つけた。絶頂手前で目をつむった一瞬の間、フロントガラスを轟音とともに突き抜けてくる大木に、女の頭は叩きつぶされた。



Copyright © 2014 吉川楡井 / 編集: 短編