第140期 #15

 俺のことをすこしは好きだった女の子が、俺のことを好きな部分だけでやってきた。たぶん、今日、彼女が結婚式だったからなんだろう。
「ほ」
 と彼女が言った。たぶん、俺の名前の始めの一文字だけ言ったのだろう。彼女は一部だけだったから、全部言うことができないのだった。
 たぶん、一部だったからうっすら彼女は透けていた。彼女はペールブルーのサロペットを着ていた。俺が彼女に似合うよと言ったことがある服装だった。
「似合うよ」
 俺があの時と同じように言うと、彼女は顎先からわずか上で斜目に切りそろえられた髪をゆらした。彼女は小さな声でありがとうと返した。

 翌朝、彼女を部屋に残して出勤したら彼女は居なくなってしまうのではないかと不安になった。思いつきがあって、試しに彼女からのプレゼントだった黒い革のブックカバーで装った文庫本に彼女を栞代わりに挟んだ。文庫本は読みかけのミステリ小説。彼女はその文面の上で縮こまった。彼女はたちまち文庫サイズ。彼女は彼女の魂の一部だけだったのだから、こんなことも可能なのだろう。カバーを開けばいつでも彼女に会えると思うと安心した。
 それから数日の間、彼女は「嫉妬に狂った」や「情けない感情」といった文章の傍らを歩いたり、寝そべったりした。
 俺は彼女が好きだったし、結婚したのは残念だと思っていた。でも彼女も俺とデートしたりなんだり、あった。俺以外の男との結婚を厭う彼女の部分だけが抜けでて、今、彼女がここにいるんだろうか。それとも俺の白昼夢だろうか。

 ある休日の午後の地下鉄車内で、急に彼女がうろたえだす。おろおろ。そして俺に訴えかけた。電車・降りて。
 何を突然と思っていると扉ひとつ向こうに彼女の実体がいた。隣に結婚相手らしき男性。二人とも笑っていた。眼窩にカチワリ氷でもねじこまれた気分。
 停車するまで一分以上あった。びっしょりというほどでもないが、汗をかく。電車が停まる。文庫本を閉じて扉をかきわけるように出た。
 カバーを開くと彼女が消えていた。実体の彼女の方が幸福そうだとか、彼女の魂の一部に対して誠意の欠けたことを俺が思ってしまったからかもしれない。俺は脳みそに手を突っこんでひきちぎり、ひだの一枚一枚をかきわけて、その不埒な記憶をぶち抜きたくなった。
 すると次第に、カバーを持つ俺の手が透けた。
 そういえば彼女より先に結婚したのは俺の方だった。俺も彼女を好きな一部だった。



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