第140期 #16
――今まで暖かな陽気の中で生きてきた。
手に持った本のページは静かな風でめくられた。幾つも層を重ねた雲はうろこの様に伸びていた。それもまた音もたてない風の仕業だった。西方はもう残照に赤く染まっていた。
以前、引っ越したお姉さんにもらった本を読もうと縁側に出て腰掛けるが、柱にもたれ掛かればまどろんでしまって白い光に包まれていく。靄の掛かった視界が鮮明になるとそこは二人掛けの座席の向き合う汽車の中だった。
遠くには波打つ山の尾根が見えた。線路沿いを流れる黄色い野花が目に入った。前方はレールと枕木の砕石を敷いた一本の道がどこまでも続いていた。緑したたる山々はブロッコリーの様で陽差しが強く眩しい。
――カーテンを、閉めて頂けませんか。
向かいの席の斜め前に白いワンピースを着た女性が腰掛けていた。膝の上で開いた本を読んでいた。
カーテンを通して流れる外を見た。ピンクの花弁、あれはサザンクロスだろうか。白く十字を付けた花が風に揺れている。目を閉じた。茶葉の匂いのする風が頬の上をなでていった。
ほんのりと淡い香りが鼻を触る。いつしか汽車は白い花弁の舞う中を走っていた。花弁が一枚窓から入ってきた。桜だった。ひらりと僕の隣に舞い降りた。向かいの彼女はそれを手に取ると本に挟んだ。その所作を見て僕の内に心惹かれる想いとどこか懐かしいものが込み上げてきた。
木造の小さな駅で汽車は止まった。外は暗く窓は露が垂れて白く曇っていた。袖で窓をぬぐうと電灯の放つ光の中を小さな雪が舞っていた。冷気が入り込んできた。向かいの席の女性は車両から姿を消していた。
汽車はいつ動き出すのだろう。ガードレールの下、光の中に小さな花をつけた植木鉢が見えた。
――シクラメン。
自然と口から言葉が漏れた。白い雪の中に咲いた花弁。やさしい光を放っている。光はほんのり暖かく冷気を越えて届いてくる。確かに心に暖かさを感じた。
……気が付くと縁側から見える空はすべて青藍に染まっていた。手元の風にめくられた本を見ると押し花の様に桜の花の模様が付いていて僕を見つめていた。
陽が沈むと空気が冷え込んできた。肌寒さを感じた。そしてこれからはよりしたたかに冬の寒さが沁み入って感じられるようになるのも又事実だろう。
夕飯の支度が出来たという母の声が聞こえた。僕の立ち上がった縁側には今朝送られて来たまだ蕾のつかない小さな鉢が置いてあった。