第14期 #5
三十年近くも人間をやっていると流石に飽きて来る。私は地面にしがみ付く体を漸く引き離し、精を込めて立ち上がった。血がなかなか上がって来ず、頭がぼやりとする。
視界が晴れるのを待って部屋の中を見回すと、棚の上に座る人形が目に付いた。両手で人形の頭を掴みそっと持ち上げて、その青い瞳をじっと見詰める。感情の抜けたその瞳を見詰めていると、両手に感じる幽かな重みはやがて消え行き、私の手はだらりと垂れる。頭を包む手の温もりを感じる私の視界には、かつて私であった人間の薄気味悪い顔が映る。薄っすらと開いた口から銀歯が覗いている。男は私をぞんざいに棚へと戻し、ちらりと時計を確認した後で、便所へと入って行った。
私の体は奇妙に折れ曲がり、頭は棚板に張り付いている。起き上がろうとしたがどうすることも出来ず、私は動けないのだという事に気が付いた。私は男の力を借りなければ、体勢を変えることすら出来ないのだ。詰まらない。
私はただひとつ動かす事の出来る瞳を回し、部屋の中を探った。緑色のものが、私の視界を跳ねた。蛙だ。この部屋にはよく蛙が出たが、私は殺すことも捕まえることもせず、ただ放って置いた。蛙の動きを追っていると、蛙は私の方を向き、動きを止めた。蛙はじっと私を見ている。私もその瞳を見詰め返す。そのうち肉体の実感が湧いてきた。両手両足を地面に突き、青い瞳の人形を見上げる。私は人形からすぐに目を逸らした。
手足で歩こうとしてみるがどうも上手く行かない。ならばと跳んでみると思いの他よく跳び、しかしその急激な視界の移動は私には気持ちの悪いものだった。何度か跳んでいると慣れてはきたが、快適というには程遠い。
水を流す音が聞こえ、男が便所から出て来た。顔を左右に揺らし、気だるそうに腹を掻く。私は窓の隙間から外に出た。
窓の外はすぐ道路になっている。アスファルトの熱が体を溶かすようだ。
叩くような音が地面を通して伝わってきた。見ると女が歩いてくる。私は声を出してみた。オゴ、オゴという奇怪な鳴き声が出た。女は立ち止まり、座り込んで私を見た。鋭く冷えた目だ。アスファルトの熱は、ゆっくりと私から離れて行った。私は座ったまま、蛙に手を差し伸べた。蛙はマニキュアの薄く塗られた手を避けて、道端に跳んだ。
私は膝に手を当てて立ち上がり、大きく息を吸った。ただそれだけの事が心地よい。
矢張り私は人間に向いているようだ。