第139期 #10
齢八十、漁師の又郎は寝床についたまま、目を覚ますことはなかった。その報せは半日のうちに漁師仲間やその家族に伝わり、葬式の日時も確認された。
漁港の中では、きょうも朝早くから沖へ出て、沖から戻った三十隻の漁船が、荒太いロープで繋がれ小さく揺れていた。陽が昇ってからはずっと、晴れた空ではウミネコが白い羽を伸ばして漂い、南風に乗ってないている。
又郎と同じ鮪漁師の源三は、家族の誰とも話さなかった。蠅が留りそうな目は、部屋のどこか隅の一点を見据えていた。一人の漁師のいなくなった夜は、漁師達の心に静けさを感じさせた。
まだ星の見えるうちに漁師達は沖へと出て行く。ただ一艘、又郎の船だけは、誰も乗り込む者がなく、出掛けた飼い主を待つ玄関先の犬のように、繋がれたまま海へ出ることはなかった。漁師達も、何も口に発しないが、沖へ出ない船を意識していた。又郎の隣に船を繋いでいる源三も、みなと同じ、いつものように口をつぐんだまま、又郎の船の方を一瞥もせずに、沖へと出て行った。
陽が昇り、小学生、中学生、高校生達はうちを出て、学校へと白いヘルメットを並べて歩いている。未明のうちに沖へ出ていた船は、漁港に戻ってきた。しかし、源三の船だけは、いつまでも戻って来なかった。漁師達は、帰って来ない源三の船に無線を入れてみたが、源三からの応答も返ってくることはなかった。この日、又郎のうちで御通夜が行われ、親戚達が手伝って、明日の葬式の準備をしていた。
翌日も源三が帰って来ないまま、又郎の葬式が始まった。海から戻ってきた漁師達は、みな潮を落として喪服に着替え、又郎の家に集まった。
漁師達の車を連れて、霊柩車に乗せられた又郎の棺は火葬場へと運ばれていった。荼毘にふされ、骨壺に入れられた又郎は、娘夫婦と共にうちへ帰ってきた。火葬場へ行った者達は、車の窓から又郎の船の隣に、源三の船が結ばれているのに気がついた。骨壺は写真と共に仏壇の前に置かれた。
その夜、漁師達は又郎の家で共に食事をすることになり、準備を始めた。海の料理がふすまをはらった居間に並べられていった。二日沖へ出たままだった源三が、大皿を五つ持って現れた。源三は今朝獲った鮪だと、皿の一枚を源三の写真の前に置くと、しばらく手を合わせていた。その夜、漁師達は、又郎の家の料理と源三の獲ってきた鮪を食べながら、尽きない又郎の思い出を、夜遅くまで語りあっていた。