# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 究極の愛 | まんぼう | 982 |
2 | やるせない男の許せない午後 | ...カラコロモ | 318 |
3 | キャベツ・タイム | 池田 瑛 | 998 |
4 | dizzy | 長月夕子 | 1000 |
5 | それでも木本君は鳩を出す | なゆら | 998 |
6 | 夢 | RIZU | 991 |
7 | あそこのラーメン屋 | かんざしトイレ | 1000 |
8 | 引用 | 岩西 健治 | 965 |
9 | ヒーローの原点 | あお | 877 |
10 | 巡礼 | 吉川楡井 | 1000 |
11 | 育つ毛 | しろくま | 1000 |
12 | 女とコーヒー | qbc | 1000 |
13 | 三日月の夜の帰り道 | 西直 | 1000 |
14 | 面積の求めかた | 豆一目 | 997 |
15 | 主要幹線 | キリハラ | 999 |
16 | 午後二時、グリーン車 | (あ) | 1000 |
17 | 老人と海 | こるく | 1000 |
18 | 俳修行 | ロロ=キタカ | 677 |
私の夢は「究極の愛」を手に入れる事。その為なら手段を選びません……
ある時、素敵な方と親しくなり、私は直ぐに恋に落ちました。彼の事を想うと胸が焦がれ、これが「究極の愛」と知りました。
何時しか「彼を自分のものにしたい」そう考える様になり、色々な事を調べると、「向こうの世界は、霊同士が融合して一つになって、究極の一心同体になる世界。愛する人と本当に身も心も一つになる本当の愛の世界」そう判りました。
あの世に行けば究極の愛が手に入る……何と素敵な事なのでしょうか、絶対に手に入れたいと強く思いました――迷い無く、私の心は決まりました。
そして私はある薬を手に入れました――そう究極の愛を手にいれられる薬です。私は早く次のデートの日が来ないかと心待ちするようになりました。きっと彼もそれを望んでいるはずです。優しい彼も私と同じ考えだと想うのです。
次の休日、彼がやって来ました。こんなに心が弾む事はありません。私は嬉しさに彼に抱きつきます。そして挨拶代わりの熱い口づけを交わします。
ひとしきり愛し合った後私は彼に何か呑むか尋ねます。
「そうだな、コーラがいいな」
「今持って来ますね」
グラスに氷とコーラを入れ、そして「愛の薬」を入れます。無味無臭なのでコーラの味が変わる事はありません。
続いて私の分も同じ様にします。後は実行あるのみです。いよいよ私の人生の夢が叶う瞬間が来るのです。
「お待ちどう様」
そう言って、彼にグラスを差し出すと彼はそれを受け取って喉を慣らしながら飲干します。苦しむ間もありませんでした。それを見て、私も飲み干します。程なく私の視界も暗くなって来ました。いよいよ私も永遠の愛の世界に旅立てるのです……
…………朝の光に目が覚めると、隣では彼が寝ていた……夢だったのか、向こうの世界は永遠の愛の世界なのかと想う。
昨夜は、彼の浮気の詫びを長々と聴いていた。もう何回目だろうか、もう沢山だ……夢の事を考えた……
昨日、公園で掴まえて来た雀蜂を使おう……彼の腕を、手を虫カゴの中に入れる。虫カゴの雀蜂は早速侵入して来た彼の手を刺した。雀蜂を逃して窓をしめる。
後は彼がアナフィラキシー ショックを起こすのを見ていれば良い。 死ななくても良い、他の女を愛せなくなれば……
苦しみ出した彼を置いて、携帯の番号を消去する……私の夢はいつ叶うのだろう……
「シャワー浴びて来い、抱いてやる!」
「あたし犬ですけど」
(しかもオス)
「ちょっとずつウンコしてくる」
「なぜ、ちょっとずつ?」
新橋うんこ堂は今日も混んでいた。
「君は時代劇の俳優か?」
「いいえ、散歩中の犬です」
「それでウンチを拾っていたのね」
「拾ってるのは飼い主です。因みにウンチは黒色です」
「悲しい色やね」
「人は皆、捨て石です」
「悲しい事やね」
(完)
トントントンという、母が包丁とまな板で、規則正しいリズムを奏でる。
私は明日、夫の家に入り、この家から出る。
台所から母が呼びかけてきた。
「これを食べてみて」
母はそう言って、キャベツの千切りを箸で一掴みした。
「キャベツの千切りを?味見?」
「まぁ、いいから、食べてみなさい」
そう言われて私は、千切りキャベツを口に頬張った。
「味はする?ほんの少しだけど、甘みがあるのは分かるかしら?」
「甘み?野菜の味しかしないけど」
「じゃあもう一回食べて見て。今度は目を閉じて、ゆっくり何度も噛んでみて」
そういって母は、また箸でキャベツの千切りを箸でつまんだ。私は、またキャベツを口に入れると、言われた通りに目を閉じて、何度も噛んだ。目を閉じて、キャベツの味に集中すると、確かにほんの少しだけれど甘みを感じた。
「ほんのり甘みがあるかな」
「そう、よかったわ。その甘みを覚えておいてね」
「この甘みを?どいうこと?」
「私のお母さんがね、同じことを私に教えてくれたの。幸せを感じることというのは、このキャベツの甘さを感じることに似ているって。羊羹のような甘さではなくて、本当に意識を集中して感じないと分からないくらいの甘さなんだって」
「今は、これ以上にないってくらい幸せいっぱいなんだけれどね。もちろん、お母さん、お父さんと離れるのは寂しいけどね」
「いろいろなことが振りかかってきて、幸福が感じられなくなってしまうということもあるわ。もし自分が幸せか分からなくなってしまったら、この話を思い出してみて。幸せは本当に些細で、すこしの調味料をかけただけで、分からなくなってしまうものなの。幸せを感じることができなくなっても、それは幸せがなくなってしまっているということではないのよ。別の何かの味で、自分自身がその幸せの味を感じられないだけなの」
母は、それだけを言うと、また包丁を握り、キャベツの千切りを続けた。
20年の月日が流れた。
18歳の息子は、明日から独り立ちをする。
とんとんとん、と私はキャベツの千切りをする。
「母さんのとんかつが食べたい」
食べたい料理はないかと聞いたら、その返事が帰ってきた。
とんとんとん。
夫と一緒に育てあげた息子を送り出す。寂しさと、息子を育てあげたという達成感を感じる。
私は千切りしたキャベツを少しだけ摘み、口に運び目を閉じた。
ほんの、ほんの少しだけの甘みが口に広がった。
佐藤伊織とバイト先が同じであることを知ったのは、働き始めて3ヶ月も経った頃だった。同じといっても、テナント店が密集する駅ビル内のことだから当然と言えばそうだが、それより佐藤伊織を見つけることが難しいからだと思う。佐藤伊織の特異な趣味は、彼を彼と認識することが難しい反面、絶対に彼だと断定できる要素でもあった。
佐藤伊織は同じクラスだが、大抵派手な雰囲気の女子に囲まれていた彼と私の接点は皆無で、当然のようにほとんど話したことはない。彼の人気はクラス内にとどまらず、学年さえも超えていた。確かに佐藤は容姿に恵まれている。とはいうものの浮ついた噂での人気ではなく、彼の華麗にして突飛な、常識を超える、要するに女装の趣味のせいだった。
彼の女装は完璧だ。知らなければなんときれいな女性であるかと疑いもしないだろう。しかし社員食堂で「きれいな男の子が女装して服を売っている」という噂話を耳にしてから、すれ違う彼の人が佐藤伊織だと知った。女子の多くが彼から、新作のマスカラやネイル、流行のスカートまで目を輝かせながら情報収集したがる理由が分かった。彼を雇ったお店も冒険だったろうが、先見の明だ。売り上げは右肩上がりらしい。
9月のある日曜日、私はダンボールの山と格闘していた。
私は鮮魚売り場担当なのだが、この体格を買われて婦人服のセール品の移動を命じられた。人間見た目で判断しちゃいかんと思うのだが仕方が無い。それにしても洋服は詰め込まれるとこれほど重いのか。どうにもならず、何か道具になるものを探していると、後ろからどすんという音がして振り向いた。そこには、黒い長めのニットにミニスカートをはいて、まだ暑かろうがタイツにブーツの佐藤伊織が巻き髪を肩で揺らしながら軽々とダンボールを移動させていた。うっかり呆然としていると「鈴木さんが、そっちを持ってくれたらうれしいんだけど」とダンボールの端を指差した。あわてて私も端を持ち、いとも簡単に全てを台車に積むことが出来た。なんとなく気まずくなった私は冗談交じりに言った。
「こんなに手足が太いのにさー、全然力なくてさー。見掛け倒しだよねーあはは」
笑ってこの場を和まそうとしたが佐藤伊織は笑わない。
「鈴木さん、女の子なんだから力無くって当然でしょ」
至極真面目な顔をしてそう言った。
それから、佐藤伊織の顔をまともに見ることが出来なくなって困る。
先生へ
春子です。
手紙ってスゴいキンチョウしますね。
わたしはまわりくどいのイヤなんで、先に言っときますね。
好きです。つき合ってください。
わたしはホンキです。
ママに連れられて先生がわたしの部屋に入ってきたとき、ひとりの乙女は恋に落ちたのです。
先生の、どこが好きなのか。スゴい優しいとこ。
ほら、あの、先生と同じ奇術研究会の、やたら鳩を出す人、いるじゃないですか。先生に連れて行ってもらった学園祭の打ち上げのとき、鳩の人が飲み過ぎて勝手に倒れて、まったく、とかみんなあきれてたら、先生はなんのチュウチョもなく、人工呼吸してましたよね。男同士でスゴい。そこまでできる絆ってスゴい。尊敬しました。
ちょっと妬いちゃったんだから。
あと、わたしのバイト先の店長、と話すときの自然な笑顔が好きです。店長とおトモダチなんですよね?店長が「むかし、仲がようていっしょに住んでてん」とか言ってましたから。二人ともスゴいビンボーだったんですね。
わたしはホンキですから、どんなに迷惑だろうとわたしは先生とつき合えるまでスゴい頑張るつもりです。
わたしが頑固なことは知ってますよね?
木本君。ごきげんよう、などと書き出すのもわずらわしい。僕の想いはもうとまらない。君が好き。はっきり言わせてもらうが、君は素敵すぎる。鳩を出す君のあの堂々とした顔、鮮やかな手さばき、出てきた鳩の凛とした表情、なんという美しさだろう。君から流れる汗の一粒さえも、鳩の鳴き声一つさえも、僕にとってはギリシャ神話の神々に遭遇したように感じた。君と鳩と二人と一匹でいればあとはなにもいらない。君のその儚い笑顔と鳩のホロッホーがあれば、それでいいのだ。ああ、君とこのまま小さくただの親友としてすごしていければ、それはそれで幸せかもしれない。しかし僕は一歩踏み出す勇気をもらったのだ。君は忘れているかもしれない。打ち上げで、飲み過ぎた君は突然倒れた。その場にいた誰もが焦っていた。僕は君が心配で心配でたまらなかった。気付いたら僕は君の唇を奪っていた。何も考えていなかった。皆にどう思われたのかわからない。構うものか、僕は嬉しかったよ。君が拒まずに僕の唇を受け入れてくれたことを。以来、君のことを意識してしまう。僕はもうとまらない。木本君、一緒に暮らさないか?心配ご無用、ペットショップ店の店長とはとはもうすっきり別れ、いい関係だ。餌なら山ほどある。(悠紀夫より)
「ずっと待ってた。好きだったよ」女の子が俺に言った・・・・・・。「夢か・・・・・・」今日は何月何日だろうか、今の俺には関係ない事だ。時計に目をやる、昼過ぎだ。現実から逃げ出して、寝て起きての毎日。そう、俺は引きこもりのニートだ。
陸は高校卒業後に就職して一年、仕事を辞めた。きっかけは些細な事、持病のてんかん発作から体調を崩したのだ。それから生活リズムが崩れ、仕事に支障をきたし退職。悔しい気持ち、喪失感が押し寄せた。「価値って何だよ。夢って何だよ・・・・・・」陸は考える事を止めて閉じこもった。
一日は早い。一日の大半は寝て過ごす。夢も希望もない日々、たまに友人から連絡が来る。「元気してるか?」「仕事見つかったか?」「久しぶりに飯でも行こうか」陸は嬉しい反面辛かった。「大丈夫、今探してる」陸は決まってこう返す。心配ばかり掛けられないと強がる。遊びの誘いには、たまに応じた。
小さなプライドにしがみつき、自分を偽る。弱い自分を自覚させられ、認めたくなくてもがく。終わりのない連鎖の中で、一人迷子になっていた。夢や幸せを諦めて、寝ていれば楽だった。今に満足する事が出来れば楽だった。
陸は夢を見る。寝ている時ばかりは夢を見てしまうのだ。好きな人と結婚し、子供も居て幸せな家庭。ときには大富豪になっている夢。自分に特別な力があり、ヒーローになっている中二病的な夢。夢の中では自分が中心で、必要とされていた。夢と現実の差が辛かった。
ふと「幸せになりたいな・・・・・・」諦めたはずなのに口癖になっていた。多くの葛藤の中で、前向きになる事もある。夢を見て、嫌な自分を変えたいと思う事もあった。前から好きな人も居た。胸を張って告白したいと思った。そんな時は就職先を探してみた。
どれくらい引きこもったか分からない。人より遅いペースで歩いていた。何度も止まって、下を向いた。全てを諦めて、何日も寝て過ごした。それでも夢を見た。寝ている時、ぼーっとしている時に夢を見た。夢は自由だが、叶わない事が多いだろう。ただ陸は、夢を見続けた。寝ていても、起きていても・・・・・・
陸は仕事を辞めて一年後に再就職をした。それから半年後の今日。好きだった人に告白をした。「ずっと待ってた。好きだったよ」そう返事を貰った。小さな夢を叶えた瞬間だった。陸はこれからも夢を見る。そして夢を追いかけて行くだろう。
「あそこのラーメン屋、なくなっちゃうんだって。残念だよなあ」
弟が買ったばかりのアイスをペロペロ舐めながら言う。兄も黙ったまま、指差された方に目を向ける。
「だってあそこのラーメン屋、ずっと前からやってたし」
「馬鹿め」
兄は弟にチョップをかました。
「あそこはラーメン屋じゃねえ。元々ずっとうどん屋だったんだ。それがつぶれて焼き鳥屋になって、それもつぶれて焼肉屋になって、ラーメン屋になったのはその後だ。つい最近の話だろうが」
弟は痛みにうずくまったが、ようやく顔をあげた。
「そんなこと言ったって俺が知ってるのはラーメン屋だけだよ。あの大将の眠そうな腫れぼったい顔をさ」
「まったく。三つしか違わないのに何にも知らねえな。あの大将はな、放浪の麺職人なんだ。昔からうどん屋をずっとやってきて、評判よかったんだんだが、つぶれちまって、その後はどっかでラーメンの修行をして、奥義を極めて帰ってきたんだ。つまりあそこは元々うどん屋なんだよ」
弟はふくれっ面になった。
「うどん屋、評判よかったんなら何でつぶれるんだよ。おかしいじゃないか」
アイスはさっき落ちたので、棒だけペロペロ舐めた。
「知らねえよ。他人の借金かギャンブルじゃないのか。とにかく評判がよかったんだよ。母さんだってあそこのうどんが一番好きだって言ってたからな。あそこはうどん屋なんだよ」
「母さん、あの大通りに出るとこにラーメン屋があるだろ」
弟が冷蔵庫から出したアイスをペロペロ舐めながら言う。
「あそこって元々うどん屋だったって本当?」
母は編み物の手を休めて小首を傾げた。
「さあ、どうだったかしらね。私がお嫁に来たころには、たしか書道教室だったと思うけれど」
兄は驚いて前のめりになった。
「うそだ。あそこ、うどん屋だっただろ。腫れぼったい顔の大将がやってた」
「ああそうそう。あの顔の膨れた人が元々書道の先生だったのよね。それからいろいろ店が変わったけど、うどん屋もあったかしらね」
「そんな。あそこはずっとうどん屋だったじゃないか。母さん、あそこのうどんが一番好きだって言ってただろ」
母は少し困った顔をした。
「あら、そんなこと言ってたの。ちっとも覚えてないわ」
兄の目に涙が溜まってきた。弟はニタニタした。
「あっ父さんが帰ってきた」
兄は父にかけよった。
「父さん。あそこはうどん屋だよな。な。そうだろ」
「うるせえ」
兄は部屋の端まで投げ飛ばされた。
まず、大前提としてこの文章には続きがあります。
続きありきで考えていくと、文字数に余裕のないことがあらかじめ分かっているので、本編を書く前から続編でまとめようとしていることになります。
じゃあ、本編が完璧に組み立てられているかといえば果たしてそうでもなく、最初にひらめいた続きの部分に集中し過ぎて本編がおろそかになっているのです。
たぶんそうなのであって、なんとなくこんな展開があって、その続きはこうだといえる後半部分だけが鮮明になり過ぎて、結句全体がまとまっていないのです。
じゃあ、前後半をつなげてひとつの文章にすればいいのかといえば、果たしてそんなに簡単にはいかないのも十分分かっています。
「でもおもしろいよ一〇〇〇文字って」
んっ、そう、ちょっと難しいかもなって、どうしようか、ここ修正しようかなんて気にもなったんだけど、そのまま使ったほうがインパクトもあるし強いかなって、でも結果ありきで展開を考え過ぎて、そうそう、ラストのイメージだけは強くあるけど結句使えなかったりすることの方が多いから。
四十七年に出版されたある美術雑誌の記事に興味を引くものがあったのでそこからの引用です。
ものの本質を解説する記事の中で、
「王や独裁者といったある意味分かりやすい敵より、個の集積、例えば民衆や個人といったそれほど力のない人間の、ある意味投げやりな態度(架空の敵)のほうが、その分かりやすい敵よりも手に追えぬものになってしまうと、これはどうにも手がつけられぬ問題である云々……」
わたしは何年か前にスクラップしてあった記事のコピーを、引っぱり出して打ち込んでみたが、なるほど今でも感心してしまう。こんなことに感心を持っていた自分に改めて触発される。
「主人公にはこのシミが果たしていつからそこにあったのか、またある日突然現れたのかさえ定かではなかった」
「主人公は道路に浮き出た人型のシミを気持ち悪いものだと感じ避けて歩いた」
「主人公の夢の中ではそこで死んだ交通死亡事故者の怨念が具現化したものとして扱われる」
実験的であっても分かりやすい文で構成したいとつくづく思うのでありますが、それがなかなかうまくいかず、安易に落ちを当てはめてそれで良しとは違う、わたしは本編にも続編にも落ちで終わらせる文は必要ないと考えているのであります。
「はい、今週も『あなたの原点教えてちょーだい』の時間がやってきました。ゲストは今をときめく若手俳優、佐藤薫さんです」
「どうも佐藤薫です」
底抜けに明るいアナウンサーの声と比例するかのように、雲一つない青空が広がっている今日。
僕は数年ぶりに故郷の地に降り立った。
「私たちは今、佐藤さんの原点となる場所に向かっています」
「はい、もう少しで着きますよ。ほら見えてきた」
歩みを進めていくと僕の原点は、昔と寸分違わずそこにあった。
「ここが僕の原点です」
そう言うとアナウンサーは不思議そうに尋ねた。
「この公園が佐藤さんの原点ですか?演技の練習をされていたんですか?」
「そうですね、その頃は演技の練習とおもってしていたわけではないんですけど…僕がしていたのはヒーローごっこです」
「へぇ、そうなんですか。男の子って戦隊モノとか好きですもんね」
可笑しそうに微笑む彼女に、僕は懐かしさに目を細めながら語り始めた。
「僕は昔、引っ込み思案な子供でした。それに体も小さかった。だから同級生の男の子たちがやっていたヒーローごっこに混ざれなかったんです。だからこの公園でいつも一人でレンジャーレッドの真似をしていました。こうやって右手を掲げて、『レンジャーレッド!!』ってね」
「そういえば佐藤さんのデビュー作は『竜巻レンジャー』でしたね。成る程、それは確かにこの公園が原点と言えますね」
合点したといった調子で彼女が頷いた。
「僕は僕に勇気をくれた憧れのヒーローになることが出来ました。それをこの公園にいた昔の僕に伝えたら、びっくりするでしょうね」
「そうかもしれませんね。では最後に視聴者の皆さんに、何か一言頂けますか?」
「はい。えっと、どうしようかな…。僕はこの公園でのヒーローごっこを経て、俳優の道へと進みました。今では映画やドラマにもたくさん出させていただいて、充実した日々を送っています。だから皆さんも好きなことは堂々とやって下さい」
「はい、ありがとうございました。それではまた来週」
「ありがとうございました」
何所か遠くから昔の僕の笑い声が聞こえた気がした。
『レンジャーレッド!!』
罪なきこどもたちの骨を砕いて粉にしたかのような、淡く白い砂の浜を囲んで海原があり、その沖合にひとつ柱が建つ。
柱の足もとから伸びる影は浜へ届きそうで届かず、打ち寄せる波のしぶきに辛うじて触れるにとどまった。柱の陰では若布の群れが一直線に列んでおり、鰓呼吸さながら、海面からあたまを出して揺れている。そうして大気中から得られた水分は、蒸留され海へとしずかに流れていく。
先に亡びた珊瑚への弔いか、雲が柔らかい棺を形づくる。海が、心臓を動かしたかのように力強い波で浜を打つ。やや待っていれば、その海の生気、若布の胞子すら寄り集まって昇っていき、入道雲の脚の一部になる。ふところに、夏の湿った稲妻をはらんだ入道雲はさらに湿り気を欲し、とこしえに近い海の記憶を吸い尽くせば雲の、一抹の記憶として収納されていく瑠璃色の想い出こそいにしえ。
猿は居ず、猛禽も居ず、家畜も居ない大陸には竜と蟲と昔鼠と、その皮膚や骸を欲しがってやまない繊微の浮遊者、屍へと成り果てていく海に愛想を尽かし自らに足を設けることで上陸を果たした鎧魚ばかりが居る。海のあぶくより騒がしい繁みからそれらは顔を出し、いまにも絶していく海の頓死を見物しているようだ。緑の葉や草のつゆにひそんでせっせと野良仕事をしている繊微の労働者たちが、世界を作りなおすべく非時の酵素を野に放つ。風化した珊瑚を空に放つ。
古代の旅を愉しむ飛空艇が上空に一艘。
案内役が右手を翳した空は見おぼえのある青だねと戯ける家族連れ、密林の底にて項垂れる竜の種族を指さしてはその名を呼ばわり合って歓ぶ、物静かな男女。飛空艇は南へと旋回し活火山を見おろし始め、その麓で灰が森を融かしていく様、炎が岩盤を削っていく様、煤烟が暗雲へと染めていく様を眺める場面に入る。海棲葬送曲のこと、古生物の参列のことなど思い出しもせず、人々は、森から波濤のように羽ばたき出てくる尻挙げ蟲の群れに嬌声をきかせ、終の宴と云わんばかりに、手を叩く、踊りを舞う、笛をきかす、溜息をもらす。飛空艇のなかを少しだけ暑くさせる。
黄昏どきにやってきた紙芝居の小父さんが撥を鳴らして了と云う。手早く巻いて締められていく絵物語は、途端に海も火も、飛空艇のからくりもない空き地の光景に掻き消され、小父さんは、体育座りの児童たちへ飴玉を授けると決まってこう云う。
「これにてキミの細胞が、隠してきた歴史、終わり、ね」
実家はぎりぎり都内だけど大学へ行くのに不便なので安い木造のアパートを借りた。一人暮らしには慣れてきたけど大きな道路に囲まれていたためか空気の悪いのが少し嫌だった。
新しい生活の中で「空気が悪いと鼻毛が伸びる」ということを実感した。こっちに来て鼻毛が気になるようになった。やたらとムズムズする。夏目漱石の『我が輩〜』の中でクシャミ先生の抜いた鼻毛の根っこに「肉」があって紙の上に立つというのを思い出した。試したらその通りだった。これでクシャミ先生は奥さんと口喧嘩したんだなと少し感じる物があった。
ベッドで横になってテレビを見ながら鼻毛を抜くのが癖になった。ベッドから動くのが億劫だったため抜いたそれはズボンの太ももあたりに付けていた。実家で母が見たら怒るだろうと思いつつ一人暮らしを満喫していた。
しかしそんな生活に事件が起きた。前に脱ぎすてたままだったジーンズを穿こうとしたらナマズの髭のような毛が一本ズボンにはえていた。それは僕が抜いた鼻毛だった。鼻毛の肉が根をはやしたように硬く付いていてどうやってもびくともしない。
ズボンにはえた鼻毛は伸び続けた。もうこのジーンズは穿けなくなった。毛の成長力は凄まじく必死に押さえつけようと参考書を積んでも押し退けられ、タンスに閉じ込めても帰ってこれば扉をはじいてしまっていた。モコモコと膨れあがっていって数日後には部屋の三分の二を埋めてしまった。もうこの大きさではドアから捨てに行く事もできない。僕はどんどん憂鬱になった。
部屋の中が見られないよう常にカーテンは閉めていた。朝、ドアから這い出て部屋を出る時は絶対に誰にも鼻毛を見られないよう細心の注意を払った。
アパートの向かいにレンガ模様のしゃれたアパートが建っていて、半月前から向かいの部屋に白人女性が住んでいた。僕が部屋を出る頃にはいつも窓を開けてのんびりモーニングを食べている。
「頼むからちょっとよそを見ててくれよ」と、そちらのほうを見ることもできずに顔を真っ赤にして僕は毎日ドアから這い出て学校へ行った。
毛の成長力は一向にとどまることを知らなかった。教室に着くと一人溜息をついて腰掛けた。心はもう限界だ。友人ののぼるが「顔色が悪いぞ」と声をかけてきて僕は消え入りそうな声で「鼻毛が……」と呟いた。彼は「え、ハナゲ?」と吹き出して笑うだけで僕の身に起きている事の重大さに気付こうともしなかった。
月の出ている夜にしか、その屋台は見かけなかった。「屋台」なのに屋根はなく、月の光がそのまま台を照らしている。台の上には色とりどりのグラスやコップ、お猪口、小さな桶といった入れ物が無数に並べられ、その全てに水が張られている。丸い水に三日月が映る。風が吹くと水面が揺れ、その三日月がゆらりと泳いだ。
駅前から続く商店街には洋菓子店があり、わりと遅くまで開いていた。洋菓子店から十メートルほど離れた場所に屋台が出ていた。私は洋菓子店で買ったチョコレートケーキが入った箱を指に引っかけるように持ち、屋台の前で立ち止まった。
「三日月ひとつください」
私がそう言うと、屋台の店主は「はいよ」とあまり口を開かずに返事をし、どれがいいか選ぶように目と手の動きで促した。私が青みがかったグラスに浮かんでいた三日月を指差すと、店主は台の上に置いていた箸を取り、グラスの中から濡れた三日月を取り出した。
ケーキの箱を開けて店主に差し出す。店主は軽く三日月の水気を切ってから、中のチョコレートケーキにさくりと刺した。青みがかったグラスには、もう月は浮かんでいない。
三日月は満月ほど甘味が強くなく、しっとりとしたほのかな甘さがある。とけかけたアイスキャンディほどの硬さと冷たさで、チョコレートケーキにちょうど合うのだった。
お金を払ってお釣りをもらうとき、背後に気配を感じたので場所を譲った。「いらっしゃい」と店主が私の斜め後ろに向かって言うと、「満月とかないですか?」と背後にいた次のお客が聞いた。
「ゼリーで固めたのならありますよ」
店主の言葉に次のお客は少し迷った様子を見せたものの、「じゃあそれください」と財布を手にする。店主は台の下から満月のゼリーを取り出した。コンビニなどで売っている白桃のゼリーに似ていた。こんなのもあるんだ、と孤独のグルメみたいなことを思う。
私はケーキの箱を閉めて、屋台を離れて帰り道のほうに歩き出した。背中から「ありがとうございました」と声がかかったので、斜め後ろのほうに目線をやって軽く会釈した。
道すがら、こっそりとケーキの箱を開けて中を眺めた。こげ茶色のチョコレートケーキに青みがかった白の三日月。そのコントラストが目に楽しい。三日月の端をフォークで割って、チョコレートケーキの一欠けと一緒に頬張る、そんな場面を想像して、お腹が鳴りそうになりながら、私は三日月の夜の帰り道を急いだ。
あああ〜う、という、猫の声とも赤ん坊の声ともつかない音で私は目覚めた。
目を開けると、煤けた天井が見える。目線を動かす。部屋の隅で二歳くらいの子供が画用紙に落書きをしている。
ここは、……実家の、二階の寝室。あの子は――あ、そうだ、私の子だ。いやだ、なに寝ぼけてるのかしら私。
「何してるの?」
ぽったりとした後ろ姿を眺めながら声を投げる。
答えはない。ぽてぽてした小さな手が、赤いクレヨンを包み、白い画用紙の上を赤の線がグリグリと侵食していく。
覗き込むと、それは絵ではなく羅列された数字だった。
3.1415926535…
何だか見覚えがある。何だったかしら。……円周率? ……円周率?!
自分の心臓がドドッと跳ね上がる音が聞こえた。
…979323846…
はっきり覚えていないけど、授業で暗記させられた、あの教科書についていた円周率の表、あの数字と同じ……ような気がする。あの教科書はどこに……私の部屋にあるよね、多分。
画用紙への書き込みに夢中の我が子を視界の端に入れながら、後ずさりして自室に向かう。
整頓された部屋で、教科書は簡単に見つかった。
頁をめくる手が震える。合ってる。合ってる。画用紙の落書きと、寸分違わず。
…5028841971…
我が子を抱き抱え、興奮しながらも慎重に、私は階下へ降りた。
リビングでは母が新聞を読み、祖母がスルメを切っていた。
「母さん」
呼び掛けると、母が新聞から顔を上げて私を見る。
「あら、ゆかり。起きてたの。気分どう?」
「最高」
えっ、と母が驚いたような顔になり、それから良かったわね、とにこりと笑う。私は興奮していて、母にどう切り出すか悩み、結局ストレートに切り出した。
「あのね、母さん、この子天才かも!」
そういって円周率が書き込まれた画用紙を母に見せる。
母は、ふっと静かな顔になると目を逸らし、そう、と呟いた。
それきりだった。部屋には祖母がスルメをはさみで刻む音が響いている。
なんで?
思わぬ反応の冷たさに私はたじろぐ。そりゃ、親バカかもしれないけど、しれないけど――おや……私の、子供の、名前何だったかしら?
我が子を抱いていた右手を見る。
クマのぬいぐるみ。
あれ? あれえぇええ?
手にしていた画用紙を見る。
白紙。
祖母がスルメを切る音が部屋の中に響き渡る。
あああ〜う、と、獣とも人ともつかない声が、私の口から漏れた。
一歩目は自意識の海をくぐりつつ踏み出す。左心室が収縮する瞬間に似ている。前触れなしに全てを投げ出すことは難しい。
始めに幽霊が見える。左右ないし上空、目の届かない地底を進んでいるかもしれない。走ることは自分との戦いと言うが、それでは勝てる訳がない。
間もなく両足はトップスピードへの加速を開始する。
学校の角を曲がって大通りに出る頃、周囲の喧噪とは裏腹に耳の奥が冷えて行くのを感じる。柔道家の耳が内側に潰れたようだ。身体は研ぎ澄ますごとに多面性を失う。同時に細く長く、鍾乳石から落ちる水滴と化してあらゆる物に穴を穿つ。
空気は冷たいはずだ。この冬一番の冷え込みと天気予報は警鐘を鳴らすし、餌を待つ猫がいつもの場所にいない。外飼いはおろか野良も見当たらない。ぼんぼり尻尾の白は寒さに紛れて消えただろうか。明日はマンション脇の駐車場に来るのかどうか。
線路に向かう四つ辻を曲がりぎわ追い抜いたとび三毛が、驚いた顔のまま追い掛けて来た。びっくりしたのは僕も同じで、餌への一歩すら重そうな三毛猫に素早く走る力があったなんて想定外だ。どれだけお腹を垂らしていようと肉食獣の筋肉は侮れない。
コート姿のサラリーマンや買い物中の親子は僕達を見ても避けようとしない。迷惑げな表情を浮かべるか、別世界を見る目が限界らしい。誰もが冬に集中したがっている。彼らのシルエットは全力走のスピードで歪み、瞬く内に過去へ吹き飛んで行く。
高架橋の金網を飛び越え、線路下へ入る。遥かむかし飲み屋通りだったトンネルが形だけ残っている。頭上に張り巡らされた鉄骨に千切れた電線がぶら下がる。地面はぬかるみコールタールの色をしている。三毛は勝手知ったる表情で、壁の亀裂から鉄骨に飛び乗り、ギャロップの要領で僕に並ぶ。
暗闇のあちこちで瞳が黄色く光る。瞳を目一杯開いた猫達が鳴く。欠伸を、伸びを、前足の爪研ぎを手早く済ませ、思い思いの道へ駆け出す。ぼんぼり尻尾の白もいる。
かつての繁華街は地下へ潜り、不規則に折れ曲がって既に方角すら分からない。等比級数で増える分岐は将棋指しの思考を思わせる。ならばどこかで一本に収まるのか。投了を待つ名人のように。
猫達はいつしか僕の前を走っている。何処からか差し込んだ光が彼らの瞳を輝かせ、各々のまだ見ぬ目的地を照らす。僕は爪先を目指すヘモグロビンの気持ちで、猫達と共に薄暗い大動脈を駆け抜けて行く。
またしてもモコはグリーン車に足を踏み入れてしまった。昔体験した奇妙なできごとを思い出した瞬間、モコの後ろで音をたててドアが閉まる。引き返せなかった。窓の外の光景から色彩が失われていく。ついには全てモノトーンになり、そしてホームにいる人々は動きを止めた。
一方、車内には何の異変も感じられなかった。やっぱり前と同じだ、とモコは思った。やがて前方に男の子が座っていることに気付いた。奴の仕業に違いない。
少し前に遡る。
モコは普段使わない階段にいた。見上げると電光掲示板があって、知らない駅名がせわしく点滅している。振り返ると地下通路は薄暗かった。考え事をしていたので、間違って一つ手前のホームへの階段を上ってしまったのだ。モコは小さくため息をついた。
今日は適当な理由で半休にしていた。オフィスにいたところで仕事はない。会社のこういう好き勝手できる緩さをモコは気に入っていたけれども、実際のところ経営はやばげで、スパッと解雇されそうな気がしていた。それで、転職活動しなくちゃ、でも面倒……、などと考えていたところだった。
引き返すのが億劫に感じられたので、モコはもう一度ため息をついた。すると急に、思い付きが頭を占拠しはじめた。何でもいいから来た電車に乗って、どこか遠くに行ってしまうというのはどうだろう? 幸い今日は天気が良い。駅員のアナウンスが聞こえてくる。モコは小走りになって上った。ホームに着くと、人はまばらだ。そして横には電車が。モコは開いているドアに飛び込んだ。
そこがグリーン車だったのだ。
「ずいぶん大人になったんだね」
と奴、嶋が言う。嶋はモコの田舎の幼馴染で、中学に入る前に病気で亡くなり、霊だか妖怪だかわからないが自然法則を超越した存在になっていた。
「まあ、ね。子供のままの嶋にはわからないだろうけど」
嶋は歳をとらない。モコがグリーン車に乗るたびに現れ、モコの周りの時空をしばらく支配する。
「見て、これ」
嶋は壁を指差す。
「東京近郊路線図。結構変わったよね」
「今回はいつ私を解放してくれるのかなあ」
「モコだけだよ、付き合ってくれるのは。他の友達はJR、使わないし」
ずるいとモコは思った。嶋はこっちの同情を誘ってくる。
「モコって、今一人暮らししてるんだよね?」
「その話はいいから」
でも多分、洗いざらい嶋に話すことになるんだろうな、とモコは感じた。
電車はゆっくりと動き出した。
坂下老人の邸宅は人里離れた深い山の中にある。それにも関わらず、不思議なことに彼の家はいつ訪れても海の音が聞こえるのだった。彼の家をはじめて訪れた時、僕が驚いてそのことを訊けば彼は得意気にこう話した。
「こいつはとっておきの細工なのさ」
しかし、それはオーディオか何かですかと僕が愚直に尋ねれば、そんな子ども騙しじゃあないと彼は不機嫌になるので、それ以来その真相を知ることはなかった。
坂下老人と出会ったのは大学病院のロビーで、年末の混み入った病院で暇を持て余して世間話を交わしたのがきっかけだった。僕が海洋学を専攻していると話すと彼は僕を気に入ったらしく、それ以来度々彼の邸宅へと招いてくれるようになった。親族のいない彼は僕をまるで本物の息子のように良く扱ってくれた。
坂下老人は戦時中は海軍で駆逐艦の乗組員を勤めた人で、戦後も商船に長く乗船していたと言う。だからこそ、彼が海の音を求めるのは当たり前なのだけれど、それなら何故本物の海の近くに住まないのか。そのことを僕が訊いても、彼はニヤニヤするばかりで答えてはくれない。まったく、どうにも奇妙な老人であった。
坂下老人が死んだのは春のことだった。彼の葬式は仲の良い少数の友人たちの下、彼の邸宅で和やかに親密に営まれた。しかし、その日の彼の邸宅にはあの海の音が聞こえない。僕がそのことを海軍時代の彼の友人に尋ねれば、その友人はひそひそと僕に耳打ちをする。
「あいつの胸に、耳を当ててみればいい」
そう言われ、僕は静かに眠る坂下老人の遺体のもとへと歩み寄り、その行為に少し緊張しながら彼の冷たい胸にそっと耳を当てた。すると微かにではあるけれど坂下老人の胸の奥からは懐かしいあの波の音や海鳥たちの鳴き声が聞こえてくるのだった。それは穏やかな凪の海の風景を僕に思わせた。
「海の男はみんなこうやって海を抱えて生きているってわけだな」
しかしながら、試しにその友人の胸にも耳を当てれば何の音も聞こえないので僕が反論すればケラケラと彼は笑い出す。何と無く僕は騙されたような気持ちになったのだけれど、それはそれでも良いように思った。
坂下老人の墓は彼が生まれ育った小さな島の小高い丘の上に作られた。そこではもちろん、僕があの日聞いた海の音によく似た本物の海の音を聞くことが出来る。
それでも、今となってもどうしても僕は、彼の墓石に耳を当てる癖が抜けないのだけれども。
団栗は芽を出し庭の一隅に
自転車の行ったり来たり芽はやられ
物置に変えられる温室怒りの手
「ものの芽、名草の芽、芽柳など、「芽」だけでは季語になりませんね。無季の句のつもりでしょうか」
ケンシロウは退屈だった。くだらねえ、こんなの小説では無い。ケンシロウは私だったらこう言う小説を書くのにと言う欲望があった。
「ケンシロウ句会」
ケンシロウ「句会を始めます」
秋の蚊の痒さに耐えず徹夜する
ケンシロウ「季語は「秋の蚊」。他に「別れ蚊」、「残る蚊」、「後れ蚊」、「蚊の名残」とも言います。例句は、
残る蚊や敲きはづして待つ心 許六 「五老文集」
秋の蚊のよろよろと来て人を刺す 正岡子規 「子規句集」
秋の蚊の鳴かずなりたる書斎かな 夏目漱石 「漱石全集」
秋の蚊のほのかに見えてなきにけり 日野草城 「花氷」
秋の蚊の一つひそめる机かな 長谷川櫂 「虚空」です」
冴ゆる日にみこの二人に仕切りあり
ケンシロウ「季語は「冴ゆ」ですね。 「冴る夜/冴る月/冴える星/冴る風/声冴る/影冴ゆ」とも言いますよ。例句は
物音やさゆる柏の掌 才麿 「佐郎山」
冴ゆる夜のともし火すこし眉の剣 園女 「菊の塵」
風さえて今朝よりも又山近し 暁台 「暁台句集」
灯の冴ゆる机の上の夜半かな 坂本四方太 「春夏秋冬」
風冴えて魚の腹さく女の手 石橋秀野 「桜濃く」
さえざえと夜の声を出す女面 長谷川櫂 「古志」です。」
ケンシロウ「今日の句会は大変有意義な時間だったと思います。今後とも頑張って行きましょう」
ケンシロウ句会は終わった。