第137期 #15
一歩目は自意識の海をくぐりつつ踏み出す。左心室が収縮する瞬間に似ている。前触れなしに全てを投げ出すことは難しい。
始めに幽霊が見える。左右ないし上空、目の届かない地底を進んでいるかもしれない。走ることは自分との戦いと言うが、それでは勝てる訳がない。
間もなく両足はトップスピードへの加速を開始する。
学校の角を曲がって大通りに出る頃、周囲の喧噪とは裏腹に耳の奥が冷えて行くのを感じる。柔道家の耳が内側に潰れたようだ。身体は研ぎ澄ますごとに多面性を失う。同時に細く長く、鍾乳石から落ちる水滴と化してあらゆる物に穴を穿つ。
空気は冷たいはずだ。この冬一番の冷え込みと天気予報は警鐘を鳴らすし、餌を待つ猫がいつもの場所にいない。外飼いはおろか野良も見当たらない。ぼんぼり尻尾の白は寒さに紛れて消えただろうか。明日はマンション脇の駐車場に来るのかどうか。
線路に向かう四つ辻を曲がりぎわ追い抜いたとび三毛が、驚いた顔のまま追い掛けて来た。びっくりしたのは僕も同じで、餌への一歩すら重そうな三毛猫に素早く走る力があったなんて想定外だ。どれだけお腹を垂らしていようと肉食獣の筋肉は侮れない。
コート姿のサラリーマンや買い物中の親子は僕達を見ても避けようとしない。迷惑げな表情を浮かべるか、別世界を見る目が限界らしい。誰もが冬に集中したがっている。彼らのシルエットは全力走のスピードで歪み、瞬く内に過去へ吹き飛んで行く。
高架橋の金網を飛び越え、線路下へ入る。遥かむかし飲み屋通りだったトンネルが形だけ残っている。頭上に張り巡らされた鉄骨に千切れた電線がぶら下がる。地面はぬかるみコールタールの色をしている。三毛は勝手知ったる表情で、壁の亀裂から鉄骨に飛び乗り、ギャロップの要領で僕に並ぶ。
暗闇のあちこちで瞳が黄色く光る。瞳を目一杯開いた猫達が鳴く。欠伸を、伸びを、前足の爪研ぎを手早く済ませ、思い思いの道へ駆け出す。ぼんぼり尻尾の白もいる。
かつての繁華街は地下へ潜り、不規則に折れ曲がって既に方角すら分からない。等比級数で増える分岐は将棋指しの思考を思わせる。ならばどこかで一本に収まるのか。投了を待つ名人のように。
猫達はいつしか僕の前を走っている。何処からか差し込んだ光が彼らの瞳を輝かせ、各々のまだ見ぬ目的地を照らす。僕は爪先を目指すヘモグロビンの気持ちで、猫達と共に薄暗い大動脈を駆け抜けて行く。