第137期 #11

育つ毛

 実家はぎりぎり都内だけど大学へ行くのに不便なので安い木造のアパートを借りた。一人暮らしには慣れてきたけど大きな道路に囲まれていたためか空気の悪いのが少し嫌だった。
 新しい生活の中で「空気が悪いと鼻毛が伸びる」ということを実感した。こっちに来て鼻毛が気になるようになった。やたらとムズムズする。夏目漱石の『我が輩〜』の中でクシャミ先生の抜いた鼻毛の根っこに「肉」があって紙の上に立つというのを思い出した。試したらその通りだった。これでクシャミ先生は奥さんと口喧嘩したんだなと少し感じる物があった。
 ベッドで横になってテレビを見ながら鼻毛を抜くのが癖になった。ベッドから動くのが億劫だったため抜いたそれはズボンの太ももあたりに付けていた。実家で母が見たら怒るだろうと思いつつ一人暮らしを満喫していた。
 しかしそんな生活に事件が起きた。前に脱ぎすてたままだったジーンズを穿こうとしたらナマズの髭のような毛が一本ズボンにはえていた。それは僕が抜いた鼻毛だった。鼻毛の肉が根をはやしたように硬く付いていてどうやってもびくともしない。
 ズボンにはえた鼻毛は伸び続けた。もうこのジーンズは穿けなくなった。毛の成長力は凄まじく必死に押さえつけようと参考書を積んでも押し退けられ、タンスに閉じ込めても帰ってこれば扉をはじいてしまっていた。モコモコと膨れあがっていって数日後には部屋の三分の二を埋めてしまった。もうこの大きさではドアから捨てに行く事もできない。僕はどんどん憂鬱になった。
 部屋の中が見られないよう常にカーテンは閉めていた。朝、ドアから這い出て部屋を出る時は絶対に誰にも鼻毛を見られないよう細心の注意を払った。
 アパートの向かいにレンガ模様のしゃれたアパートが建っていて、半月前から向かいの部屋に白人女性が住んでいた。僕が部屋を出る頃にはいつも窓を開けてのんびりモーニングを食べている。
「頼むからちょっとよそを見ててくれよ」と、そちらのほうを見ることもできずに顔を真っ赤にして僕は毎日ドアから這い出て学校へ行った。
 毛の成長力は一向にとどまることを知らなかった。教室に着くと一人溜息をついて腰掛けた。心はもう限界だ。友人ののぼるが「顔色が悪いぞ」と声をかけてきて僕は消え入りそうな声で「鼻毛が……」と呟いた。彼は「え、ハナゲ?」と吹き出して笑うだけで僕の身に起きている事の重大さに気付こうともしなかった。



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