第136期 #3

手記

手記はとてもぎこちない一行から始まっている。
「僕は本音を述べてみるべきだろうか」
そう始まった手記はこう終わる。
「僕はすっかり書き上げたこの瞬間もこれを書き留めたことが正しかったのかどうかわからないのです」
手記は本棚の本の後ろに隠した。
そうして僕の本音を知る存在がひとつ増えた。
その日から僕の心はいくばくか軽くなったように感じた。
親しい友人はよく笑うようになったなと微笑んだ。そうかなと答えた僕の心にはあの手記のことが浮かんだ。心ではなく紙の上にあの本音を移したことで僕にかかる重力が月並みになったのかもしれないとそう思っていた。
その年に僕は一人の女性と恋に落ちた。手と手が触れ合うこともないままお付き合いを申し込むと「私でいいんですか」と小さく答えた女の子だった。
僕らは秋には紅葉の絨毯を歩き、冬には雪の降る空を眺め、春には花の匂いを楽しみ、夏には汗だくの体を海に沈めた。
彼女はこんなつまらない僕と一緒にいることを本当の幸せのように語ってくれたし、本当によく笑っていた。
まるで三歳児の子供のようにもなるし、わがまま息子を持つ母親のようにもなる変幻自在な人だった。
そんな彼女を本当に愛していたし、一緒に住もうと口からでたのは自然な流れだった。引っ越しのときにあの本棚を動かすまで、僕らはシミの一つもない真っ白なシーツのような関係だった。僕らの間に落ちた一冊のノートに二人とも目を奪われた。僕は一瞬で彼女の顔を見る。すると彼女もこれはなにかと問うような顔で僕を見た。
「懐かしい。授業のノートこんな所にあったのか。」
僕の舌は非常に下手な言葉を並べる。そもそも本の後ろに隠してあるのはモロにわかるだろうし、授業に使うにはあまりに薄過ぎる。
そんな僕にも彼女は優しかった。
「そうなんだ。よかったね見つかって。」
いつもの柔らかな声が僕の脳裏に今でも残っている。
「あのノートなんだったの?」
後日聞かれたこの言葉とともに。結局僕は彼女を安心させれるような嘘もつけなかった。
シーツに初めて落ちた一滴の墨汁だった。でも白いシーツの上ではよく目立つ。見てるとだんだん大きくなってるのか?ってぐらい気になる。
僕はシーツを洗濯するために手記を彼女に見せるべきなのか。それとも見せることで彼女が去る可能性を踏んで見せないべきなのか。
僕は未だにどちらにするべきか決められないでいる。手記の最後はそう綴られていた。



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