第135期 #7

おでん

 男の握っていたリードがピンと張り、純血ではない小型犬がわたしに勢いよく近づいてきた。
立ち止まったわたしは寒さ以外の理由で身体を収縮させ反射的に身構えた。
今のわたしには守るものがあった。こんなところで足止めを食らう訳にはいかないのである。
「これ、これ、これ、これ」
 男はいつものことのように飼い犬を叱りつけた。
しかし、その声にとがった感じはなく、むしろ、じゃれた飼い犬をなだめあやすようにリードを持つ手を強めている。
それでもわたしは歩みを止めず、男と男の犬の廻りをリードとの間合いを確実に計りながら半円描いて、小走りに近い速度で男とすれ違った。
すれ違いざま、横目でちらと犬を見やると、何事もなかったかのように主人と同じ方向に向き直り、川沿いの雑草に今度は興味を示したようであった。
 乾いた風が肌をさらう季節、辺りが六十パーセント暗い川沿いでわたしは見知らぬ男とすれ違ったのである。
川は既に闇の竜と化して、音のみがわたしの耳に迫ってくる。
遠くにぽつん、ぽつんと灯る家明かりに水の流れる音がアクセントとなっていた。
見渡す景色の中には、わたしをおびやかすであろう人影はなく、背後に追いかけてくる何者もなかった。
ここで、ようやくわたしは歩みを少し緩めほっと息を吐いた。
 わたしの家はこの川沿いのアパートの二階。ここから徒歩、数分の距離にある。
それでも両手でかかえこんだ容器から伝わる温もりに刺激され、わたしは待ちきれずにフタをあけてしまった。
(行儀の悪いのはわかってます……)
 歩きながらまずひと口。
 表面に少し油の浮いた黄金の透きとおったお汁を軽く口に含むと、頬の内側がしびれるように美味しくなった。
頬の内側の筋肉が収縮して痛い。続けざまにもうひと口ほしくなって意識が伝わるより先に唇が勝手に反応してしまう。
ふた口目で頬の痛みが少し和らぎ、吐く息が先ほどよりも白くなった。
発砲の深い容器の中で卵ふたつと大根、牛すじ、はんぺんが踊る。今日はコンニャクを買わなかった。
 川沿いの道。家路の途中。コンビニに立ち寄る。缶ビールのストックはまだあったはずだ。わたしは少し歩みを早め家路を急いだ。



Copyright © 2013 岩西 健治 / 編集: 短編