第134期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 劣性少女 あお 992
2 二人の男が賭けをした。 青鷺 432
3 空想世界の君 finale 919
4 俺の秘密 TM 998
5 入れ替わり まんぼう 994
6 不都合な大罪 志保龍彦 999
7 空の色 251
8 ループ 岩西 健治 971
9 水辺のベンチ かんざしトイレ 1000
10 はい、子ども電話相談室です なゆら 997
11 小川家の井戸 qbc 1000
12 さよなら死神 白熊 760
13 壁面のようなものが 豆一目 997
14 ハンマー九十九 キリハラ 999

#1

劣性少女

「このようにメンデルは自らエンドウを育てることで、優性の
法則を発見しました。そしてこのとき現れなかった性質を劣性と
いいます」
中学の理科の授業で初めて優性の法則を学んだとき、
私はとても大きなショックを受けた。
私は劣性だ。そう思ったからだ。
私のお姉ちゃんはお母さんと同じように釣り目でぱっと目をひく華やかな顔をしている。
でも私はどんぐりのような細くて丸い目で顔だちも平凡だ。
似てないね。人からそう指摘されることはしょっちゅうで、私はそれがとても嫌だった。
どうして私は優性になれなかったのだろう。
そう思いながら肩を落としてとぼとぼと家に帰った。
お姉ちゃんのこともお母さんのことも大好きだけど今日は顔を見たくなかった。
ゆっくり歩いていたけどそのうち家に着いてしまった。
「ただいま」
そう言って玄関の扉を開けると、笑顔のお母さんがキッチンからひょっこりと
顔をのぞかせた。
「おかえり。おやつ食べる?」
いつもと変わらない優しいお母さんの姿に、私は思わず泣きだしてしまった。
「会いたくないって思ってごめんなさい…」
そんな私の姿を見たお母さんはエプロン姿のまま慌てて飛んできた。
「どうしたの?どっか痛い?」
「ううん…」
泣きじゃくる私が落ち着くのを、お母さんは私の頭をそっと撫でながら
待っていてくれた。それで私は安心していつの間にか涙は止まっていた。

私の話を聞いたお母さんはおいでといって押入れのある部屋に、
私を連れて行った。そして押入れの中から古びたアルバムを取り出した。
それを見て私はすごく驚いた。
「この人私にそっくり」
そう呟くとお母さんは私を見てにっこりと笑った。
「これはね、私のお母さん。だから志穂にとってはおばあちゃんね。
志穂が生まれる前に天国に行ってしまったの。とても優しい人だったわ。
明るくていつも笑っていた」
「そうなんだ…」
「だからねそういうおばあちゃんに似てる志穂のことを、志穂は
もっと好きになっていいと思うの」
アルバムの写真の中のおばあちゃんは、腕の中に赤ん坊だったときの
私のお母さんを抱いて私にそっくりの丸い目を細めて嬉しそうに微笑んでいた。
見ているだけでおばあちゃんのお母さんに対する愛情が伝わってくるような、
そんな表情だった。
一度も会ったことの無いおばあちゃん。お母さんを愛情いっぱいに
育ててくれたおばあちゃん。そのおばあちゃんと似ている私の顔を、
私は前よりちょっと好きになった。


#2

二人の男が賭けをした。

ある狭い一室で今日も行われる賭け、彼らは水槽の中に飼われた金魚二匹が、どちらが先に死ぬかを賭けていた。
勝ったとしても賞金は無い、負けたとしても罰はない、それなのに二人は賭けをする。
黒い出目金と赤い金魚が水中を舞う、その姿は当たり前だと言えばそれまで、しかし彼等にとっては神秘的に見える物だった。
狭い空間で行われる舞いは金魚が死ぬその時まで、短い年数で長い時間続けられる。

「ここは狭い」

「あぁここは酷く狭いね、僕はここから出ようと思う。君も一緒にどうだい?」

「俺は遠慮しておく、あまり気乗りしないし」

「そうかい? じゃあ僕はあそこのドアから出ていくよ、戻ってくる時は土産でも買ってくるよ」

「それは嬉しいな、楽しみに待ってるよ」

黒い金魚に掛けていた男がドアノブに手をかける、ドアが開かれた細い隙間から黒い銃口が覗いた、一瞬咲いた赤い花がもう一人の男を染めていく。
黒い金魚の舞いがピタリと止むと、腹を上にして水面に浮かぶ、外から聞こえる歓声は賭けに勝った事を喜んでいた。


#3

空想世界の君

そうだ、君なんて、最初から存在しなかったのだ。
悲しみに暮れて散々泣きわめいた挙げ句、僕はそう思うことにした。
君の笑顔も白い肌も黒くて長い髪も綺麗な瞳も、全部僕の空想の中のものなんだと。
僕は空想世界の君に愛を注ぎ、言葉を投げ掛け、微笑み合っていただけなんだと。
横たわる君の真っ青に染まった顔も、閉じた瞳も全部なかったものなんだと。
そうだ、なにも泣くことなんてないじゃないか。全部全部、僕の空想の中のものなんだから。なにも悲しむことなんてない。空想の楽しみが、ちょっと減っただけの話だ。
僕はその日以来、彼女のことを思い出す度にそう考えるようにしていた。


そんなある日、僕は映画を観に行った。結ばれた男女の、彼女の方がこの世を去ってしまう、悲しい恋物語。
いつしか、僕は泣いていた。ああ、なんて悲しいんだ、なんでいなくなってしまったんだと、男の方に感情移入して人目も憚らず思いっきり涙を流した。
そして、気づいた。君を空想の中の人間にしてしまっても、会えなくなったら泣くし、再現出来なくなったら悲しいのだということを。
僕は、向き合わなければならない。君がいなくなってしまったこと、もう会えないことに。所詮、忘れよう、見なかったことにしよう、としていただけだったのだ、今までの僕は。全部分かってしまって、エンドロールになっても僕はまだ泣き続けていた。

あの映画を君と観に行ったら、君はどんな顔をしただろう。泣いただろうか、真剣な顔をしただろうか。
君がいたこと、いなくなったことを認めてから、君について考える時間が増えたような気がする。少し悲しくなるけれど、でもやっぱりこれで良いんだと思えるようにもなった。これからも僕は君を愛し続けるし、忘れな い。これは、変えようのない事実だ。
あの映画は、DVDを買ってきて今も観続けている。台詞も全部覚えてしまいそうだ。
もしまた会えたら、そのときは笑って迎えて欲しい。ちょっと傲慢かもしれないけれど、そうしたらまた一緒に手を繋いで歩いて、下らない話ができたらもっと嬉しい。だから、そっちでゆっくり待っていてください。髪は切らないでね。僕は見えない君におやすみ、と言い、テレビの電源を切った。


#4

俺の秘密

俺の秘密は絶対に誰にも知られてはならない。コンプレックス? そんなガキ臭いものならまだいい。俺の秘密は俺のすべて、最大級の苦しみ。それをコンプレックスと呼ぶのなら勝手にしてくれ。しかし既に数人の人物には知れわたってしまっている。一番知られちゃまずかったのは俺の親父だ。俺の親父は酒乱の暴力親父で愚かなクソ親父というイメージしかない。あいつにだけは知られたくなかった。それにスーパーでよく会うあの女。知られちゃまずいわけではないがなんだか弱みを握られているようでいい気分じゃないな。やっぱり、さみしいでしょうだって? 当たり前だ。この前からずっと泣かない日はないくらいだ。俺はそうしているうちにただ単に悲しみにひたりたいだけなのではないかと思えてきた。そう思うと涙が止まる。そう、悲しみにひたる。映画も泣ける映画を探しているし、音楽も何かないものかとあさっている。漫画も小説も、とにかく泣けるものなら何でもいい。俺はもう他に泣けるものはないなと思って自分で小説でも書いてみることにした。そして完成した。いやちょっと待てよ。小説にするってことは誰かに読んでもらおうと思っているのか? 俺の秘密は絶対に誰にも知られてはならない。文章にするなどもってのほかだ。これは俺のパソコンの中にだけしまっておけ。絶対、出版などしてはならない。しまった、小説など書くんじゃなかった。秘密は俺の胸の中だけにしまっておけばいいじゃないか。みんな、そうしてる。俺だけじゃないんだ。みんな苦しんでる。一生懸命生きている。なぜおまえらは生きるんだ。俺はもう生きる意欲がなくなってしまった。生きる意味がないような気がしてる。俺はなにかの病気なのか? 今流行りの精神病か? 心の風邪とかうまいこと言って俺を釣ろうとしてやがる。ふざけんな。俺は病気じゃない。まともな思考回路でまともな考えを導き出した。それが秘密を絶対に守るということ。数人に知られていることはもうどうでもいい。とにかくこれ以上知られてはならない。だから絶対にあの小説を出版などするな。そこには俺の秘密が事細かに書かれている。書いたことを後悔してももう遅い。しかしついこの前拾った路傍にあった一つの石に俺は思念を注入した。小説に書いた通りの思念を。そしてその石は路傍に戻した。これで俺は秘密を守ったことになる。そして小説を出版したことにもなる。あの石を誰かが拾えば。


#5

入れ替わり

俺はその日、部下の松本からある書類を受け取った。
「課長、先日の会議をレポートに纏めました」
受け取って中身を見るとこの前の会議で議題の事だ。
俺は松本に纏める様にこれから言う積りだったのだが……
記憶に無いがレポートそのものは良く出来ていた。
それを褒めると松本も恐縮しながらも喜んでいた。
内容を読む限りでは先日の会議の内容だった……記憶が無いのは俺の気のせい?

家に帰り何時もの様に風呂に入り、家族で食事をして休む。
その晩、俺は久しぶりに妻を抱いた。
「最近、どうしたの? 凄く積極的で、この前なんか一晩で3回も……そして今日でしょう。
なんかあったの?」
妻の言った内容に俺は覚えが無かった。
俺はここ2週間妻を抱いて居なかった。出張もあったし、それどころでは無かったのだ。
適当に相槌をしてその晩は寝たのだが、昼間の事と言い納得が行かない。
翌日は土曜だったが妻は友達と逢うとかで出掛けてしまった。
俺は友人の売れないSF作家に連絡をして、合う約束した。

「それはだな、きっとパラレルワールドの世界のお前とこの世界のお前が、たまに入れ替わっているんだろう」
俺の昨日体験した出来事に友人は、自身のSFの知識を総動員して答えてくれた。
「入れ替わってる? じゃあ、そいつが俺の世界に出て来て活動している時、俺はどうなんだ?」
その疑問に友人は
「そりゃ、その時お前はそいつの世界に居るんだよ。弾かれた様なモノだからな」
その他にも友人は色々と説明したくれたが、俺にはよく理解できなかった。
兎に角、その世界の俺と今の俺が入れ替わる時間も回数もそのうち増えて来るだろう。と言う事だった。
それは、次元の世界自身が辻褄合わせの為不都合を解消しようとすらからという理由だった。
確かに、俺は妻と一晩に3回もしてないし、松本にレポートも命じていない。
俺は、そいつの行った結果だけを後から受け取ったのだ。
恐らく、その揺り戻しはあるだろう。

ある晩、妻を抱いていると、何時もと違う感じなのに気が付いた。
違う女を抱いてる様な感じなのだ。
「あなた、今日は何時もと違って消極的なのね」
そう言って今までした事の無い、口で奉仕を始めた。
今まで嫌がってしなかった行為だった。
「あなた、こういうのが好きってこの前言っていたでしょう」
その言葉を聴いた時、俺は妻も変わってしまった事に気がついた。
いや、俺自身が違う世界の住人になったのかも知れない……と。


#6

不都合な大罪

 深閑としたオリーブ林の中で、一人の男が星空を眺めていた。
 自分の身に死が迫っていることを知りながら、男の胸中は幸福に満ちていた。
 視線を大地に下げると、思わず微笑が浮かんだ。自分に従ってきてくれた頼もしい弟子達が、ウトウトと舟を漕いでいたからである。
 男はふと自分の短い生涯に思いを馳せた。大工の倅として生まれた自分が、こんな数奇な人生を送ることになるとは、誰が予測出来ただろうか。
 だが、それは正しい人生だった。喜びも悲しみも、希望も絶望も、信仰のもとに歩むべき道を歩んできた結果であり、後悔などは微塵もない。
 男は再び満点の星空へ眼を向けた。遙かなる第七天の最奥へと。
 その時、静寂を破る馬の嘶きが聞こえた。十頭以上はあろうかという蹄の音も、こちらへと近付いてきていた。
 眠っていた者達は突然のことに目を覚まし、「先生、先生」と男に縋り付いて何事かを叫んでいたが、彼はただ微笑するだけだった。
 すると、馬から一人の人影が飛び降りて、男に近付いてきた。 それが誰かを知って、皆が驚愕していた。
 それでも、男は悠然として、自分の頬を彼に向けた。接吻を誘うように。
 ところが、黒髭を蓄えたその人影の男は、平伏すと、頬ではなく、足に接吻した。そして、全部で十三頭の馬を指差しながら、
「さあ、先生、皆、あの馬で、今すぐ逃げましょう」
 誰もが呆気に取られていたが、一番呆然としていたのは、先生と呼ばれた男だった。
 彼は馬達の方を注意深く見てみたが、本当に馬しかいなかった。
「ちょ、ちょっとお待ちなさい。これはどういうことです?」
 男は動揺しながら、自分を馬の方へ連れて行こうとする黒髭に訊ねた。黒髭は眼に涙を浮かべ、何度も言葉につまりながら、
「危うく恐ろしい間違いを犯すところでした。お許し下さい」
 弟子達は顔を見合わせると、表情を緩ませ、口口に彼を賞賛した。ただ、師だけがこの状況に狼狽していた。
「いや、いやいや、駄目です。それでは受難が……」
「この通りピラト総督の許可証もあります。急ぎましょう」
 黒髭は言いかけた男の手を強引に引っ張り、馬に乗せるが早いか、仲間と共に颯爽とオリーブ林から抜け出していった。
 その後から、木の葉を揺らす風に乗って、男の声が切れ切れに聞こえて来た。
「戻りなさい……これでは計画と違う……これは間違いです……大きな罪です、大罪ですよ……ええい、人の話を聞きなさい、ユダ!」


#7

 空が高くなり、木々が紅葉し始めた季節。神無月のとある日に、友達と神社で待ち合わせをしていた、恵子。ふと、鳥居を見ると、鳥居の上に人がいた。
 赤い着物を着た女の子。
 一瞬、自分の目を疑った、恵子は眼をぱちぱちさせて、もう一度見る。
 やっぱりいる。
 恵子は、その子をじっと見た。
 その女の子も恵子をじっと見た。
 目があったのだ。
 そして、女の子は消えた。
 
 10分後、友達が慌てて駆け寄ってきた。もちろん遅刻である。あの女の子は、何だったのだろうか。
 神無月の豊饒祭りに友達との待ち合わせの出来事である。


#8

ループ

 朝食の支度を済ませたところで目が覚めた。ベッドの上。手足は動く。金縛りになったことはなかった。動かないことを期待するが決まって覆された。ほっとする反面、ふざけるなと思う。天井の節目は人の顔に見えなかった。寝る前に想像を欠かさないにも関わらずだった。手探りで探し当てた眼鏡をかけ、テーブルの上には既に朝食が用意してある体で起き上がる。ギックリ腰を経験してからは、一旦身体を横に向けてから起き上がるようにしている。それでも起き上がる際に何度か腰に電気が走った。信仰を忘れた呪縛のように、何気ないタイミングでギックリ腰はやってくる。痩せなければ、と思う。血糖を下げる。運動。食事制限。できない野望を持つのはストレスだと、どうでもいいわけないが、どうでもいい態度に出てみる。気持ちが落ち込む。医者から指導された行動ができないのが後ろめたい。普通といわれる振り幅に収まりたい。節目を仰ぎながら次に先生に会う際のいいわけを考えている。ビールを飲まなければよかった。運動する。自転車を買おう。炭水化物を抜くことで気持ちが少し和らぐ、ことを想像する。空腹感はなかったが、何か食べなければと、強迫観念じみた感覚が空腹感より先に心の隅に湧く。意識を冷蔵庫へと這わす。朝食を食べなさい、とはテレビの受け売りだが、食べるなと言われたって僕は食べるだろう。寝る前に見た不快な夢はどこかへいった。寝ることがこんなにも救われる行為なのだと、四十年生きて初めて気づいた気がする。ペニスを触る。指の匂いを嗅ぐ。安心しようとする。途端。落ち着け。時間を見ろ。つけ過ぎたテレビは消音だ。ベッドに触れる太ももから熱い汗が流れる感触。世界はお笑いだ、と思う。特に意味はない。こともないか。意識して息を吸い込む。覆すものを考えつけない。会社へ行きたくない。と、言うよりは人に会いたくなかった。引きこもること全てを否定的だとは思わない。勝手だと思われていることも理解している。そして結句は、冷蔵庫の中の水を一杯飲んだだけで、シャワーを浴びて着替えて会社へ向かう。何もかも忘れよう。と、考えたことさえも忘れてしまっている。意味がないことは存在しない。そう信じたい。靴を履く。鍵を閉める。エレベーターのボタンを押したところで目が覚めた。ベッドの上。手足は動く。金縛りになったことはなかった。


#9

水辺のベンチ

 里絵子は水辺のベンチに腰掛けてぼんやりと景色を見ていた。目の前に広がる水面はどこまでも穏やかで、遠くにかすむ向こう岸の山々はもやがかかっていた。水鳥が一羽、悠然と宙を舞う。ゆっくりと風に乗り、ときどき思い出したように羽をばたつかせる。円を描くばかりで、先ほど一度、水面への急降下を見せたきり、ずっと空の上にいる。暑さもおさまって柔らかい午後の陽が差している。波はかすかに寄せる。夕焼け時はもっと綺麗だろう、と里絵子は思った。
 就職してから七年半。そろそろ行き詰まっていたのかもしれない。初めて会社を無断欠勤した。二日酔いやどうしても行きたいイベントで仮病を使ったときもあったけど、こんな風に休んだことはなかった。今日はここに泊まるから明日も休むことになるだろう。でも明日のことなんて知らない。
「ねえねえ、海見るの初めて?」
 顔を向けると中学生くらいの男の子が立っていた。時代物の芝居にでも出るような木綿の着物を着ていた。おしゃれで着るにはあんまりな格好だ。
「海は見たことあるわよ。それにここ、海じゃないでしょ」
 男の子は呆気にとられたような顔をした。里絵子は腹が立ってきた。何も間違ったことは言ってないし、初めて海を見たみたいな顔をしていたのなら何となく恥ずかしい。だいたい学生がこんな時間にうろうろしているのがおかしいのだ。ふざけた農民コスプレで話しかけてきて、答えたらその表情はないだろう。
「ここは海だよ。ていうかおばちゃん、ほんとの海見たことあるの?」
 おばちゃんだとお。里絵子の中の怒りが徐々に大きく膨らんでいくのを感じたのか、「それじゃあね」といって男の子は立ち去った。
 景色は穏やかなままだった。小さな波が静かにさざめいていた。同調するように感情の波も静まっていき、怒りの熱も霧散した。
 船が出ている。釣りをしているのだろうか。趣味なのか職業なのか分からないけれど、ここから見ると情緒である。
「知らなかったなあ」
 里絵子はぽつりとつぶやいた。海は荒々しい。大自然そのものだ。野生の魅力があるけど怖い。それに比べたら湖は優しい。どんなときにも限度を超えて怒らないような気がする。原生林と里山のような。現実と箱庭のような。里絵子はやっぱり今日のうちに帰ることにした。夕焼けを見たら行こう。今は現実と戦おう。お金を貯めよう。そしていつか、きっと、近いうちに、湖のある街に住むのだ。必ず。必ず。


#10

はい、子ども電話相談室です

はい、子ども電話相談室です。
こんにちは。お名前と学年を言ってください。

はい、はじめまして、おさむくん、では質問をどうぞ。

質問は、おばあさんの耳はどうしてそんなに大きいの?と言うことです。
この質問はグリム先生に聞いてみましょう。先生お願いします。

おさむくん聞いたかな?それはおさむくんの声をよく聞くためだよ、ということです。おばあさんに学校のことなんかをたくさん話してあげてください、はい、わかったら、夏休みの宿題に取りかかってください。おさむくん、さようなら。
さて次の質問を聞いてみましょう、もしもし、こんにちは、お名前と学年をどうぞ。

ん、またおさむくんか、まあいい、質問をどうぞ。

おばあさんの目はどうしてそんなに大きいの?ですか、これもグリム先生に聞いてみましょう。

おさむくん、わかりましたか?それはおさむくんのことをよく見るためですが、そのおばあさんはいつものおばあさんでなく、貪欲でクールな狼である可能性が非常に高いので、おさむくん気をつけて。ということです。先生のアドバイスをちゃんと守って、夏休みの宿題に取りかかってください。
はい、では次の質問を聞いてみましょう、もしもし。

おさむくん、この番組は君の私的なおもちゃじゃないんだ、いい加減にしてくれないか?
先生?いいんですか?はい、わかりました、おさむくん、グリム先生が質問を聞いてもいいと言っておられるから、質問をしてください。今回は特別だよ。

質問は、おばあさんのお口はどうしてそんなに大きいの?ということです。先生、どうでしょう。

わかりました。おさむくん、それはおさむくんを食べるため、です。その婆は狼が化けているだけ、油断させておいて食うのがクールな狼の常套手段だということです。いつものおばあさんはすでに狼の腹の中にいます。わかったかな?わかったら、さ、夏休みの宿題ね。
では次の質問です、お名前と学年をどうぞ。

おいおい、おさむくん、もういいから、君は夏休みの宿題と狼から身を守ることだけを考えて残りの夏休みを過ごせよ、ええ?なんだよ、なんなんだよ、泣くなよ、上から怒られるのは俺なんだよ、わかったよ、聞いてやるから質問しろよ。

はいはい、先生のアドバイスを参考にして、婆の腹を鋏で裂いてみると、あれよあれよといううちに、婆のはらわたが溢れ出てきて・・婆は息絶えた・・・と、いうことです。

この質問は、弁護士の小島先生、お願いします。


#11

小川家の井戸

(この作品は削除されました)


#12

さよなら死神

色々な人生
別に誰に自慢したいと思って
生きている訳じゃないけれど。


いいんだよ。どうせ頑張ったら、
頑張った分だけ自分に返ってくるんだから。

昔の友人達の夢を見た。中学時代の友人、会社の同僚、
色々な友人達が一堂に会して、僕の周りを取り囲んでいた。
今も仲のいい友人の姿は無い。
昔、仲の良かった者もいれば、
曖昧な距離感だった者も多い。
見たことのない顔の友人もいる。

夢には出て来なかった、下着姿の女は、
こちらに体を向け眠っている。
家守の糞の落ちた部屋隅、
開けっ放しの窓。
黄ばんだカーテンが風になびいている。
ベランダに出て、外を見た。星空だった。
足の裏に、ほこりが付く。
電気を付けぬまま。夜眼が利く。
三日月。仰ぐ瞬く星が、うごめいているようだった。

彼らは、今の僕を見て、どう思うか。

--

彼のいたベッドから、頭に鹿の頭蓋骨を持つ死神が現れた。
そのまま暫く、部屋に居憑くようになった。
何も語らずにたたずむ。
視線は部屋の中を、どこでもなく、動かない。

ソファーで一人、スコッチを開けて。
着たままドレスのまま、グラスと共に崩れ落ちて。
暫く前に撫でられた髪の毛が、背中の下に引きずり込まれ、
頭の皮をぐいっと、引っ張られる。
目玉をひんむけば、希望しない様。

そのまま仰ぐ、団地の空
痩せ細った三日月と見詰め合う。

力の入らない、私の体からは、女の子が姿を現し、
白い服、黒い死神の隣でたたずんでいる。
しゃべらない。私はずっとあの子のことを、考えていたことを、
私は気付かなかった。
何枚もの写真を残してあるかのように、
想像の記憶がフラッシュバックする。

一輪の花を添えて、
貴方とずっと一緒に居たい。
部屋はたたずむ死神と子供、三人の夜。

--

時は愛も哀もIも流したから。

いつか陽が昇って
空を見て、昨日のことを忘れたら。

さよなら貴方、さよなら死神。
部屋は私、一人の部屋。


#13

壁面のようなものが

 助言など、すべきではなかった。

 数日に一度、隣の部屋に住む若い夫婦は罵り合う。最初はひそひそと、次第に怒りの音が吐き出され、そして最後に何かが割れる音、今夜は多分花瓶だろう。壁の向こうでは乱暴に玄関の扉が開いて閉まり、カツカツと突き刺すようなヒールの音が私の部屋の前を過ぎる頃、静かになった隣からは若い夫の啜り泣きが聞こえてくるのだった。

「情けないすよね、俺、男なのに」

 アパートのベランダ越し、いざというときに突き破れる薄い仕切りを隔てて私と彼は煙草を吸う。

「泣かせるよりはいいじゃない」
「でも、あいつ理不尽なんす。食い物の減りが早いとか、下着入れる順番が違うとか、なんか、俺ばっか言われっぱなしで」

「そうか―…」

 ふわ、と隣から白煙が途切れ途切れに流れてくる。それはいつも最後まで言えずに消える、彼の言葉の残骸だった。

「ま、たまにはがつんと言ってやるのも良いかもね」


 ガツン。

 隣から鈍い衝撃音が聞こえてきたのはそれから二日後、私が帰ってきたときには既に中盤戦だった。
 唸り声と床を這う音。それに何かを殴る音。

 なんてこと!

 私はいてもたってもいられず、いつものように押し入れの下段に滑り込む。
 楽しみにしていたテレビ番組がうっかり始まっていたときと同じ気持ちで、壁の覗き穴の蓋を、焦りながらも慎重に外して右目をそっと押しあてた。

 限られた丸い視界の中に飛び込んできたのは床に転がる女だった。
 倒れた妻の横顔は青く変色し、目はぐったりと閉じられている。いつもヒールを鳴らして歩く気取った姿が芋虫のように横たわっている。
 若い夫は丸い視界を行ったり来たり、赤く腫れた自分の拳を眺め、後悔も露に妻を見てはおろおろしている。まるで間抜けな芸人のようだ。
 私は二人の姿をしばらく眺めていたが、混乱した男が覗き穴の前に背を向けて座り込んでしまったので、少し息を止め、それから様式美として救急車を呼んだ。

 しばらくするとサイレンが鳴り響き、隣が騒がしくなってくる。私は頃合いを見計らってそっと壁の穴を閉じた。
 こり、と穴が塞がる音がした刹那、壁の向こうで人が振り返る気配がした。

 翌日、夫はベランダに出てこなかった。その翌日も。
 隣が静かになって、一週間が過ぎた。

 夜、壁の向こう、音のない暗闇に耳を傾けても、悲鳴も嗚咽も聞こえない。
 そうか、二人は出ていったのか。

 私は助言などすべきではなかった。


#14

ハンマー九十九

 岩を叩くと魚が全部死ぬような話を聞き、小学校の瓢箪池にハンマーを打ち下ろしたら鯉と金魚が全滅した。即座に逃げたが女子に告げ口され盛大に怒られただけでなく、全校集会で壇に上げられ校長先生の考えた堅苦しい詫び文句を披露する羽目にもなった。申し訳ございませんて、どこの小学生が言うのだ。僕だ。クラスに戻ったら何かっこつけてんだとスポーツ万能の馬鹿野郎に蹴られたり一か月に渡って口真似をされたりと散々だった。先生方は自分が虐めの温床になる可能性を考えたことがあるのか。ない。良かれと思ってやっているに違いない。しかし彼らが子供の時分と児童の現在は社会を取り巻く何もかもが違うのであって、自分が受けた愛の鞭を教え子に振るう無意味さに気付かねばならない。
 と、両親は言った。校長室に呼び出された帰り。特に母親は僕の肩を持ってくれて、食べもしない魚を殺すのは如何なものかと釘を刺しつつ、どのような感じで鯉が浮いてきたかとか、岩は砕けたかとか、ハンマーをどこから手に入れたかとか、僕の経験に一々感心してくれた。曰く、私も一度やってみたかった。大人になったらさすがに出来ない。
 僕は成人しても川の岩をハンマーで叩いているものだから血は争えないというか、母の欲望を形にしてしまうアクティブな新世代である。まあ茅子ちゃんが泣きそうになったのだから仕方ない。
「トレッキングやばい山怖い」
 古風な名前と裏腹に今どきの喋り方で膝を抱える茅子ちゃん。就職活動は意外にも古参精密機器メーカーの人事部に決まった。アパレル系とか華やかな方面と予想していたのだけど。
「四大出て販売職とかさあ」
 仰る通り。
 登山道を外れ、川に辿り着いたはいいが下っていったら断崖絶壁に行き当たった。日は落ち脇道も見当たらない。道に迷う予定も覚悟もない僕達はチョコレート以上の非常食を持っていない。
 けれどチャッカマンは用意しており、近くに枯れ木も山ほど転がっていたので山の何かを焼けば一晩くらい越せるだろう。
 ここで一つ格好良い所を見せておけば卒業後の仲にもポジティブな影響をもたらすこと間違いなしと、僕は十四年前の瓢箪池を思い返す。バックパックからお守り代わりのハンマーを取り出す。川に入り岩を叩く。
「ほら、魚!」
 魚は次々滝を落ちて行った。
 翌朝、滝壺に浮かんだ魚をお坊さんが見つけ、僕達も救出されたが、以来茅子ちゃんとは何とも言えない間柄である。


編集: 短編