第134期 #9
里絵子は水辺のベンチに腰掛けてぼんやりと景色を見ていた。目の前に広がる水面はどこまでも穏やかで、遠くにかすむ向こう岸の山々はもやがかかっていた。水鳥が一羽、悠然と宙を舞う。ゆっくりと風に乗り、ときどき思い出したように羽をばたつかせる。円を描くばかりで、先ほど一度、水面への急降下を見せたきり、ずっと空の上にいる。暑さもおさまって柔らかい午後の陽が差している。波はかすかに寄せる。夕焼け時はもっと綺麗だろう、と里絵子は思った。
就職してから七年半。そろそろ行き詰まっていたのかもしれない。初めて会社を無断欠勤した。二日酔いやどうしても行きたいイベントで仮病を使ったときもあったけど、こんな風に休んだことはなかった。今日はここに泊まるから明日も休むことになるだろう。でも明日のことなんて知らない。
「ねえねえ、海見るの初めて?」
顔を向けると中学生くらいの男の子が立っていた。時代物の芝居にでも出るような木綿の着物を着ていた。おしゃれで着るにはあんまりな格好だ。
「海は見たことあるわよ。それにここ、海じゃないでしょ」
男の子は呆気にとられたような顔をした。里絵子は腹が立ってきた。何も間違ったことは言ってないし、初めて海を見たみたいな顔をしていたのなら何となく恥ずかしい。だいたい学生がこんな時間にうろうろしているのがおかしいのだ。ふざけた農民コスプレで話しかけてきて、答えたらその表情はないだろう。
「ここは海だよ。ていうかおばちゃん、ほんとの海見たことあるの?」
おばちゃんだとお。里絵子の中の怒りが徐々に大きく膨らんでいくのを感じたのか、「それじゃあね」といって男の子は立ち去った。
景色は穏やかなままだった。小さな波が静かにさざめいていた。同調するように感情の波も静まっていき、怒りの熱も霧散した。
船が出ている。釣りをしているのだろうか。趣味なのか職業なのか分からないけれど、ここから見ると情緒である。
「知らなかったなあ」
里絵子はぽつりとつぶやいた。海は荒々しい。大自然そのものだ。野生の魅力があるけど怖い。それに比べたら湖は優しい。どんなときにも限度を超えて怒らないような気がする。原生林と里山のような。現実と箱庭のような。里絵子はやっぱり今日のうちに帰ることにした。夕焼けを見たら行こう。今は現実と戦おう。お金を貯めよう。そしていつか、きっと、近いうちに、湖のある街に住むのだ。必ず。必ず。