第134期 #6

不都合な大罪

 深閑としたオリーブ林の中で、一人の男が星空を眺めていた。
 自分の身に死が迫っていることを知りながら、男の胸中は幸福に満ちていた。
 視線を大地に下げると、思わず微笑が浮かんだ。自分に従ってきてくれた頼もしい弟子達が、ウトウトと舟を漕いでいたからである。
 男はふと自分の短い生涯に思いを馳せた。大工の倅として生まれた自分が、こんな数奇な人生を送ることになるとは、誰が予測出来ただろうか。
 だが、それは正しい人生だった。喜びも悲しみも、希望も絶望も、信仰のもとに歩むべき道を歩んできた結果であり、後悔などは微塵もない。
 男は再び満点の星空へ眼を向けた。遙かなる第七天の最奥へと。
 その時、静寂を破る馬の嘶きが聞こえた。十頭以上はあろうかという蹄の音も、こちらへと近付いてきていた。
 眠っていた者達は突然のことに目を覚まし、「先生、先生」と男に縋り付いて何事かを叫んでいたが、彼はただ微笑するだけだった。
 すると、馬から一人の人影が飛び降りて、男に近付いてきた。 それが誰かを知って、皆が驚愕していた。
 それでも、男は悠然として、自分の頬を彼に向けた。接吻を誘うように。
 ところが、黒髭を蓄えたその人影の男は、平伏すと、頬ではなく、足に接吻した。そして、全部で十三頭の馬を指差しながら、
「さあ、先生、皆、あの馬で、今すぐ逃げましょう」
 誰もが呆気に取られていたが、一番呆然としていたのは、先生と呼ばれた男だった。
 彼は馬達の方を注意深く見てみたが、本当に馬しかいなかった。
「ちょ、ちょっとお待ちなさい。これはどういうことです?」
 男は動揺しながら、自分を馬の方へ連れて行こうとする黒髭に訊ねた。黒髭は眼に涙を浮かべ、何度も言葉につまりながら、
「危うく恐ろしい間違いを犯すところでした。お許し下さい」
 弟子達は顔を見合わせると、表情を緩ませ、口口に彼を賞賛した。ただ、師だけがこの状況に狼狽していた。
「いや、いやいや、駄目です。それでは受難が……」
「この通りピラト総督の許可証もあります。急ぎましょう」
 黒髭は言いかけた男の手を強引に引っ張り、馬に乗せるが早いか、仲間と共に颯爽とオリーブ林から抜け出していった。
 その後から、木の葉を揺らす風に乗って、男の声が切れ切れに聞こえて来た。
「戻りなさい……これでは計画と違う……これは間違いです……大きな罪です、大罪ですよ……ええい、人の話を聞きなさい、ユダ!」



Copyright © 2013 志保龍彦 / 編集: 短編