第134期 #13
助言など、すべきではなかった。
数日に一度、隣の部屋に住む若い夫婦は罵り合う。最初はひそひそと、次第に怒りの音が吐き出され、そして最後に何かが割れる音、今夜は多分花瓶だろう。壁の向こうでは乱暴に玄関の扉が開いて閉まり、カツカツと突き刺すようなヒールの音が私の部屋の前を過ぎる頃、静かになった隣からは若い夫の啜り泣きが聞こえてくるのだった。
「情けないすよね、俺、男なのに」
アパートのベランダ越し、いざというときに突き破れる薄い仕切りを隔てて私と彼は煙草を吸う。
「泣かせるよりはいいじゃない」
「でも、あいつ理不尽なんす。食い物の減りが早いとか、下着入れる順番が違うとか、なんか、俺ばっか言われっぱなしで」
「そうか―…」
ふわ、と隣から白煙が途切れ途切れに流れてくる。それはいつも最後まで言えずに消える、彼の言葉の残骸だった。
「ま、たまにはがつんと言ってやるのも良いかもね」
ガツン。
隣から鈍い衝撃音が聞こえてきたのはそれから二日後、私が帰ってきたときには既に中盤戦だった。
唸り声と床を這う音。それに何かを殴る音。
なんてこと!
私はいてもたってもいられず、いつものように押し入れの下段に滑り込む。
楽しみにしていたテレビ番組がうっかり始まっていたときと同じ気持ちで、壁の覗き穴の蓋を、焦りながらも慎重に外して右目をそっと押しあてた。
限られた丸い視界の中に飛び込んできたのは床に転がる女だった。
倒れた妻の横顔は青く変色し、目はぐったりと閉じられている。いつもヒールを鳴らして歩く気取った姿が芋虫のように横たわっている。
若い夫は丸い視界を行ったり来たり、赤く腫れた自分の拳を眺め、後悔も露に妻を見てはおろおろしている。まるで間抜けな芸人のようだ。
私は二人の姿をしばらく眺めていたが、混乱した男が覗き穴の前に背を向けて座り込んでしまったので、少し息を止め、それから様式美として救急車を呼んだ。
しばらくするとサイレンが鳴り響き、隣が騒がしくなってくる。私は頃合いを見計らってそっと壁の穴を閉じた。
こり、と穴が塞がる音がした刹那、壁の向こうで人が振り返る気配がした。
翌日、夫はベランダに出てこなかった。その翌日も。
隣が静かになって、一週間が過ぎた。
夜、壁の向こう、音のない暗闇に耳を傾けても、悲鳴も嗚咽も聞こえない。
そうか、二人は出ていったのか。
私は助言などすべきではなかった。