第133期 #5

飲むとよく手のでる父だった。
母も僕も殴られた。
土下座で泣いていた母を今でも思い出す。
そんな母を見ても父は手を止めなかった。
手を振りあげた時の恐ろしさ。
部屋の明かりを遮り、シルエットだけが目には焼きつく。
壁まで吹き飛ばされ、ただただ涙と嗚咽しかでなかった。
父が冷たい目で見下ろしているのが目を開けずともも想像できた。

普段の父は優しかった。
よくおもちゃやお菓子を買ってくれた。
僕は普段の父にもびくびくしていて、自分から物をねだることはなかった。
母はいつも笑うように務めていたんだと思う。
ガラスのような空気を子供ながらに感じていた。
どんなに普通を演じても恐怖が底に。
幸せそうに食卓を囲む僕と母はいつもどこかに青あざができていた。
食後に窓際でおいしそうにタバコを吸う父。
煙を吹きかけてきて僕がむせるのを笑っていた。
他人が見れば人懐っこそうに笑っている父も僕には。

父は交通事故で人を殺している。
雨のよく降る夜に赤信号で飛び出してきた車。
相手の運転席に座っていた男性は病院に運ばれ死亡。
助手席に座っていた女性と父は無事だった。
相手のカップルは若い新婚だったそうだ。
それ以来酒を飲む量が増え、だんだん別人になっていった。
母もなぜ父が酒を飲むようになったかを知っているから何も言えなかった。
自分が支えなければと思っていた。

線香の煙は手を合わせる僕の顔にまっすぐのびた。
珍しく風のない日だった。
ガンで死んだ父はベットに横たわって「タバコは絶対吸うなよ」と言った。
そんな父の言葉に僕は黙って頷くことしかできなかった。
父の死は自分の中で随分と扱いづらいものになった。
憎悪と悲しみと喜びといろんなものが膨らんで僕を内側から圧迫した。
父が入院しても母はよく看病をしていた。
母親は青あざのない体になり、時間を取り戻すように心から微笑んでいた。
父はすぐ死んでしまったけど随分苦しんだ。
苦しむ姿を見るのは僕はとても苦手だ。
誰に対してでもそうでありたい。
二十を過ぎた僕はお酒を口にしたことはない。
人の苦しむ姿を見たい人になるといけないからだ。
タバコに火をつけ口にくわえた。
母は父と同じお墓に入れられたのを喜んでいるだろうか。
僕は土下座する母も病室で父と微笑み合っている母も覚えている。
わずかな記憶だけど信じたいのは笑ってる顔だった。
僕はささやかな抵抗と膨らんだ思いを煙に込めて吐き出している。
煙は線香の煙と一緒にまっすぐ空へのぼった。



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