第132期 #9
この鬱屈した気持ちを紛らわそうと本を開くと、文字が一瞬にして羽虫に成って、暗い外へと解けていった。
先日、学生達の中に、あなたを嫌っている学生がいますよと言われ、「そうですか。でも、しょうがないですね」と答えはしたものの。それ以来、頻繁に思い出すようになり、次第に気持ちは塞いだものへと成っていったのだった。
毎晩寝る前に、今この時、亡くなろうとしている人、生まれてくる人、辛い思いをしている人、幸せの中にいる人、自分と同じような人、それぞれに安らぎが訪れればと、祈ってから眠る癖が付いていた。世界中には自分がたくさんいると考えるようになった。
今日、物資の購入に出掛けたけれど、もしこのまま嫌われていったなら、この街にいられなくなる、そんなことが頭をよぎった。もう訪れなければよいとも言えるが、そんな場所を作りたくなかった。
通り掛った露店の前で、売り子が僕に声を掛けてきた。以前まで違う場所でよくしてくれた、女の人だった。
どこか印象が違い、黒髪で小柄な彼女を、最初は学生の一人かと思った。控え目な人だけど、この時は彼女のほうから声を掛けてきてくれた。声を掛けてきてくれたことが嬉しかった。
二つ三つ話し、その場を後にした。ただ、声を掛けてくれてありがとうと、感謝の気持ちを伝えることが出来なかった。
僕はただ「ありがとう」と、祈ることにした。祈ることで、何か彼女に力が作用するかは分からなかった。ただ、彼女の心の安らぎを願った。また会えるかどうかは分からない。最後になる可能性のほうが高い。次の日からも、時々彼女のことを考えるようになった。
もし彼女も、あの時、塞ぎ込んだ気持ちを持っていて、偶然通り掛かった僕を見つけて、声を掛けてきたのなら。塞ぎ込んだ気持ちを、その時だけ内に隠し、僕に笑顔を見せてきたのなら。彼女も僕と同じだったのなら。僕の存在も、少しは意味があったのかもしれない。
僕が去った後、再び込み上げてくる、悲しい気持ちに包まれていたのなら。僕の去った後ろで、その視線が少し、俯いていたのなら。やはり彼女も、僕と同じだったのかもしれない。
部屋の外では、もう光を失った闇の中で、鈴虫達が鳴いている。誰にでも、どこにでもあるこんな話は、鈴虫達の声のように、絶えず生まれては、空へと消えていくのだろう。
彼女の幸せを願った。口から洩れた僕の声は、鈴虫達の鳴く暗い闇へと解けていった。