第132期 #10

ムーンウォーク

 かつて夏休みがどのように始まっていたか、もはや知る術はない。今の私にわかるのは夕方まで寝てしまったということだけで、それですら、枕元の携帯電話の表示を鵜呑みにした結果に過ぎなかった。氷が溶けて薄くなったコーラが好きだから、自分が希薄になるのも悪くないと思った。
 半日ぶりに目を開けてしまうと、それ以上は眠れそうになかった。予定はなかった。しかし、私ももういい大人だから、何か嫌なことがあるとすぐ「もういい」と言って俯いたきり何時間でも押し黙っている大人だから、休暇の過ごし方は用意してあるわけで、つまり、かねてから興味のあったムーンウォークに取り組むべく、ワオ、と一声発して、二十分ほどかけてベッドから脱出した。人類にとってはシングルなベッドだが、私にとっては大きな一歩だった。
 体がべとべとした。眠らなくてもべとべとにはなるが、眠った後のべとべとはダンチで、それはもう大変にべとべとする。まずはシャワーを浴びることにした。ところで、寝起きでいきなりシャワーを浴びては脱水症状を起こすおそれがあるから、先に水分補給をしなければならない。
 冷蔵庫の扉を開けて、シュークリームがあることを思い出した。手にとってみると、そこには確かにクリームの重さが感じられた。程よい重さだった。
 これはけしからん、と包みを破ってシュー生地に噛みつくと、頬の内側がいい仕事をして、飛び出した粘着質の物体を受け止めた。口腔を内側から包み込むかのようにクリームが花開いた瞬間だった。
 原始的な喜びというのは儚いもので、ああ甘い、おいしいな、と喜んでいるそばから、たちまちどうでもよくなっていった。だがその儚さこそがムーンウォークや月面着陸といった偉業を人に強いる結果となったのであろうと考えた私は、自分が人類の歴史を一気に駆け抜けようとしていることに気付いて、身の引き締まる思いがした。
 今や指先までべとべとであった。一刻の猶予もない。水を飲んで、トイレに行って、浴室に向かった。廊下に糸くずが落ちていた。しばらく前から落ちているような気がしないでもなかったが、糸くずは本来不安定な存在だという風にも思ったので、そのままにした。
 キュッとしてザーッとシャワーを浴びた。
 着替えた。
 疲れたのでベッドに戻った。
 後ろに進めてこそいないが、少なくとも前には進んでいない。初日としては快調な滑り出しだった。



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