第132期 #5

虚無の方程式

 高架にある駅のホームから見える景色の半分が防音シートに囲まれて、今秋リニューアルする駅ビルの工事がいつの間にか始まっていた。防音シートの巡らされたのが一ヶ月前だったのか、三ヶ月前だったのかがいまいちはっきりしない。それ程に自然と工事は始まっていた。
 リズムを刻む振動が僕の心臓のくぼみに反響して、空虚がぽっかり空いたこぶし大の塊なのにその奥深さはとてつもなく広くて、とても僕の頭の中だけでは把握しつくせなかった。何を言いたいかといえば、虚無の方程式は存在するのかといったことだった。
 外見から察するには、大きな声で叫んだり、奥歯を噛み締めたり、貧乏ゆすりが有効ではあるが、それだけでは心の奥の闇はつかみ取れないとハナから分かっているのである。何を言いたいかといえば、このイライラに原因はあるのかといったことだった。
 さすがにこれは耐えられまいと、鼻から吸って口から吐く深呼吸をゆっくり繰り返し、しかし、いつしかこの方法だけでは解決できなくなってしまっていた。狂気の沙汰はガラスの破片を想像して、リストカット用にカッターナイフを常備させた。何を言いたいかといえば、誰でもか? といったことだった。

 次の駅。車両は半ば唐突に停車して、僕は「ヘタだな」と呟きつつ吊り革の持ち手を変えた。
 発車間際に盲人がぶつくさ呟きながら乗り込んでくる。白杖を手に持ってはいたが使っている素振りは見せなかった。慣れ親しんだ車両の中では、視覚がそれ程役に立たないことを僕は知った。
 障害者は常に低姿勢でなければならなかった。健常者は障害者に声をかけなければと思うこと自体がそもそも間違いで、常に優位にあるのではないと自覚する必要がある。しかし、白杖でテリトリーを守る盲人がトランシーバーのようなもの(たぶんラジオであるが、無線機のように何かを語りかけている)を取り出しとたんに周囲の空気は他を排除するといった動きを超え、盲人のいる場所がぽっかりと空いた、シカト以前の虚無に近い状況を迎えていた。
 本来は障害のあるなしに関わらず、無言の車両で意味のない言葉を向かう相手もなく喋っていれば、そこに虚無の方程式は存在するのかも知れなかった。
 僕は次のようなことを考える。仮に僕がこの盲人を切りつけたとしたら、盲人は僕が犯人だと証明することができるのであろうか。もちろん誰もいない場所でのことではあるが。



Copyright © 2013 岩行 健治 / 編集: 短編