# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 海月の話 | 末真 | 941 |
2 | 紙芝居 | アンタ | 998 |
3 | ふらふらあるくそれ | 藤舟 | 999 |
4 | 蜂蜜という名の事象 | 三浦 | 1000 |
5 | 愛の協奏 | かおり | 341 |
6 | 面汚しの佳人、絹のための強盗 | 豆一目 | 997 |
7 | 突然 | なゆら | 981 |
8 | 西瓜 | 岩敏 健治 | 969 |
9 | 海と少女と | あお | 995 |
10 | 空っぽの鼻 | 霧野楢人 | 1000 |
11 | 彼女の繋がり | 白熊 | 905 |
12 | さる | qbc | 1000 |
13 | 残像 | Y.田中 崖 | 1000 |
14 | 知らぬが仏 | あかね | 1000 |
ちゅるりっ
とてもすべらかで弾力のあるものが、前歯にその感触を残して、咽喉を通っていった。
なんだったのだろう。
水饅頭のような形だった。
マカロンと同じくらいの大きさであった。しかしもちろんマカロンとは違いホロホロ崩れるお菓子ではなかった。
舌で確かめる前に、ひゅっと通り過ぎてしまったので、味もしなかった。
ただ前歯にその触感だけが残っている。
ぷつりとアメリカンチェリーに歯をたてた時に感じる、果皮の適度な抵抗に似ていた。
けれど果皮を食い破った感覚はなしに、飲み込まれていった。
そう。
私が飲み込んだのではなく。
もっと能動的に飲み込まれていったのだ。
意思があったのかもしれない。
ひょっとしたら、私へ入っていったのは海月かもしれなかった。
弾力も。
形状も。
なにより透明だった。
そう考えると納得がいった。
海月はなぜ自らすすんで私の中へなど入って行ったのだろう。
私は選ばれたのか。
それとも、この猛暑の中、干上がってしまう危険に迫られやむなくということも考えられる。一時避難所に使われたのならば、休憩料くらいはいただきたいが、海月に見返りを期待するのは酷な気がする。
もし棲家として選ばれたのならば、海月は私の中でスキフラ、ストロビラを経て分裂し、エフィラに成るだろうか。
そうして巣立っていくだろうか。
神は七日かけて世界を作られた。いや、六日で作って、最後は休まれたのだったか。
私と海月の場合はどれくらいかかるのだろう。
ふいに、水が足りないかもしれないと思い立った。
この熱の溜まる中、涸れかけているのは、私も同じだ。
外に出ていく水分に加え、内からも水を必要とされたとなっては、みるみるうちに干上がって木乃伊になってしまう。そうなれば、海月も同じ運命を辿ることになる。
体内に海月を飼っていた珍しさから即身仏扱いにされ、どこかの寺であがめられるかもしれない。
そんなのはごめんだった。
私は、荼毘にふされたい。エンもユカリもない不特定多数の誰かの祈りを引き受ける程の大きな慈悲は持ち合わせていない。
慌てて、コップに水を汲んで飲み干した。
ゴクリ、という音が妙に大きく自分の耳に響いた。
カン、カン、カン、カンカン。
さぁ今日も始まるよ。今日の紙芝居は何がよろしいか。
夢の中を抜け出せなくなった少年の話がよろしいか。
あらすじはこうだ。少年はその日見た物を必ず夢に見た。やがて夢の中の部屋がいっぱいになってくると、少年は部屋の外を出る事にした。
さぁ聞きたいかい?ん?あんまりおもしろそうじゃない?そうかいそうかい。
ならこれならどうだ、突然歩くことのやめれなくなった男の話。どうだい聞きたいかい?
あらすじはそうだな。男は貧乏な男だ。そう、ある日古着屋で安い靴下をたくさん買う。でも一組のショッキングピンクの靴下を履いた時、足のくるぶしがむずむずした。なんだと思って立ち上がると、出るわ出るは次の一歩。止まらなくってそのまま玄関を出て街を練り歩くお話よ。
やがてコンクリートで靴下が破けて・・しまった。落ちの部分を言ってしまった。これは今日はできないな。
次のお話だ。
あら、今日は妹さんはどうした。来てない?そうかい。
さぁ、ならこれはどうだ。手からすり抜けた風船。それをとろうとジャンプした少女が空に浮かんでしまうお話。
違う違う。飛んだんじゃない、浮かんだんだよ。
あれは夏の日だった。車で5分の大きなスーパーで配られていた風船。それもとびっきり赤い風船ばかりだ。それをもらった少女はうっかり手の力を緩めてしまう。ここぞとばかりに空へと昇る風船だ。少女は慌ててジャンプする。かろうじで空に伸ばした手がヒモをキャッチ。あとは落ちるだけだった。だが不思議。なかなか地面に足がつかない。少女が下を見ると車の天井がよく見える。
あっ、鳥の糞がついてら。
お母さんは青ざめた顔で見ている。少女はわんわん泣いてしまう。そこに迫り来る入道雲。果たして少女は無事に着地できるのか。
全米が泣いた感動紙芝居。シーラと風船。乞うご期待。
どうだい、引きがあるだろ。続きが聞きたいだろ。だが残念、今までのお話は全部今作り出したお話ばかり。だからこの紙芝居用の紙は真っ白。ほら裏も真っ白。
だからこの水飴を食べてお帰り。ほらえびせんくっつけてネコ型ロボを描いてあげるよ。ありがとよ、おじさんの嘘に付き合ってくれて。でもお話はもうおしまい。
ほら、あんなに大きな入道雲が迫ってる。一雨くる前にとっととお帰り。
そうしてボロボロの淡いピンクの靴下を履いた紙芝居おじさんは帰っていくのでした。
僕は真っ白な紙芝居を夢で見ることになる。
橋の上から河原をのぞき込むと、背の高い雑草を踏み進むゾンビが見えた。初夏の虫が沸き立つように鳴いている。
結局何もしなかった休日の終わりにせわしない気分に駆られ、あてもなく飛び出した私は偶然目に止まったゾンビの頼りない姿に自分を見たような気がしてしばらく見とれた。それは枯れ木に引っかかってこけた。
最近はこんな風にふらふら歩くのは少数で、力も強くて速く走るものがよく動画でネットに上がっている。この間も遂に空を飛ぶゾンビが現れたと話題になった。もっとも、海外が中心で火葬文化の日本の動画は少ない。
這おうとしていた例のゾンビは、腐ったかかとが枯れ木に引っかかって一向に進めないでいた。どうも一定方向に向かっているようだけど、どこへ向かっているのだろう。ゾンビにさえ目的地があるものなのか。
夕日がビルに遮られ、辺りがふと暗くなった。
土手まで行き自転車を止め河原に下りた。近くを通ったサラリーマンらしき男がこちらをじろじろ見て何も言わず去って行った。
ゾンビの後ろ側に周って近づくと腐肉にたかる蝿の群れが見て取れる。幸い風下だったので臭いはあまりしない。
遠くからそれの引っかかっている枯れ木をつかんで引き上げてみたが、根元が土に埋まっているのか手応えが鈍い。少し先を掴んで、てこの要領で引き上げようとしたとき、枝が折れてバランスを崩した。
尻餅をついて、新しいズボンが土で汚れる、と思ったときにはもう目の前にゾンビが迫っていた。
河原に響き渡る銃声。砕け散る腐肉がスローモーションで見える。助かった。さっきのサラリーマンが交番にしらせてくれたのだ。
「違います。ゾンビハンターです」なんだ、ゾンビハンターか。道理で。時代がかった帽子とワイシャツの上からも分かる引き締まった胸筋、チノパンの横にぶら下げたリボルバーは、保安官には見えても警察官には見えない。あからさまに素敵な体をしている。さっきちょっと噛まれた事は内緒にしておこう。
「ゾンビハンターさんですか。ご苦労様です」
「じゃあ行きましょう」彼は力強く私の腕を掴んだ。
「でも、もう暗くなってきましたし、明日は仕事が早いですし」
「明るいじゃないですか」そう言われてみると確かに河原は夕日に照らされて、さっきよりも赤く燃え立つような明るさだった。ぼんやりしたまま彼に腕を引かれて進む。
そうだ黄昏がこれから永遠に続くのだ。そして我らは海を越えて訪れる彼らを迎えに行く。
声が失われて、それ以来ハチミツをよく飲むようになった。養蜂を何とはなしに伝統芸能のように思っているので、展覧会を覗いたりすべすべとして丸みのある高層ビルの中を歩いたりする時のように背骨が真っ直ぐに伸びる。
声が失われたので、私はある日飼い犬と旅行に出かけた。犬と話すのは変な感じがしたが、彼が何について考え、何に怒り、そして私のことをどのように考えているのかそれをとっくりと聞かされ、どうして今まで彼の声が理解できなかったのだろうと一人になる瞬間ごとに考えてばかりいた。そんな彼はあっさり運命の恋に落ち(敷居が低くないと運命とは呼ばないとその昔、大好きだったおねえちゃんは言っていた)、私たちはしばらく同じ町に留まることになった。
ものを食べられなくなった彼はどんどん痩せていった。力を奪われた彼の声は届かなくなった。私は死んでしまった彼を抱いて町を移った。朝日に細目を開けると書き置きがあり、彼の姿はなかった。しかし声が失われて以来、私は文字が読めないのだった。
大学に戻り書き置きを回したがそれは人の文字ではなく、何が書かれているのかわからないままだった。板状の巣を持って蜂に煙るように立つ先生はとびきりのハチミツを振る舞ってくれ、お返しに書き置きを預からせて欲しいと言った。コピーは取っておくと言って、翌日には書き置きはなみなみのハニーポットの中に漬かっていた。
今度は一人旅だった。死んでいるが恋に焦がれて生き続けている犬の噂を至るところで耳にしたが追いつけなかった。先生に頂いたハチミツも底をつき、私はハチミツ無しの旅を続けた。背がだんだんと沈んでいき、声が、ただ音としての声として戻ってきた。私は這いつくばるようにして歩き、遂には這いつくばって歩いた。道の至るところに文字があった。それは言葉だった。独白もあり対話もあった。勧告や宣伝もあればフィクションだってあった。言葉が溢れていた。
先生は上等なクッションを用意して待ってくれていた。そこに丸くなった私の背を三日月を描くように撫で、ハチミツ漬けの書き置きを床に置いた。今度は何と書かれているのかはっきりわかった。さようなら。他に細かい文字が見えたが読むことはできなかった。先生がミルクで満たされた白い平皿にその書き置きを浸すと、私の前から文字が消え、まっさらな白い紙が生まれた。私はペンをくわえるとそこに、また会いましょうと書いた。
鍵盤のソとラが、耳に入ってきた。
BGMはやっぱり、ピアノのほうがいい。
あなたはバイオリンを弾くけれど。
ベッドのサイドテーブルに、真っ白な灰皿が、2種類の吸い殻を転がしている。
白とスモークグレーの調和が、今の私たちの寝姿をリンクしてくる。
私は、イヤホンを外して、YouTubeを切った。
あなたはどうして、私のもとにいてくれるの?
20年も前に知り合って、お互い、好きでいたなんて。まるで漫画の世界みたい。
20年の間に、3回、偶然に出会って、運命が予定変更されたみたい。
今日は真っ白な生地の上で、二人だけのコンチェルトを奏でた。
あなたが目覚め、朝を迎えたら、私たちはどうなっていくのか。
ずっと、ピアノとバイオリンの協奏のように、美しい音色を奏でたい。
変わらぬ愛の調べを、共に弾き続けよう。
生まれた理由?
まあ、そんなことを知りたがる年になったの。
あの人には、三度あったわ。
一度目は私が小学校に上がる少し前。
銭湯の洗い場で、石鹸を無駄遣いしていた小さい私がふっと顔を上げると、そこには息が止まるほど艶やかな黒髪が垂れてた。正しくは、その人が艶やかな黒髪を洗っていたの。白い指先が漆黒の髪を掴んで絞って、墨のように真っ黒な髪から絞られた水滴は、魔法みたいに透明に滴って。
きれいな人だった。澄んだ硝子細工のような美しい顔、それに絡まる艶かしくねっとりと美しい髪。その組み合わせは強烈だった。
銭湯からの帰り道、私はお父さんにその人のことを興奮しながら話した。でも、「まともな人間じゃない」って冷たくて。
今にして思えば当たり前かもしれないけど。
二度目にその人に会ったとき、私は高校生だった。あの衝撃は、どう表せば良いか――髪は無惨に刈り込まれて、隣の女性に腕を組まれて歩いていた。
顔立ちはやはり美しかったように思うけど、まるで殉教者のような表情だった。
そのときその人が男だって気がついたの。そうよね。でなければ父と一緒に入った銭湯で、あの人を見るはずがないもの。そんな当たり前のことを私は10年たっても気づかなかったの。あの髪が美しすぎて、他はどうでもよすぎて。
私が衝撃を受けている間に、その人は雑踏の中に消えかけてた。後ろ姿はありきたりな刈り上げの男。
耐えられなかった。説明は、つかないけれど。
私はその人に駆け寄り、女と反対の手首を握った。はっと振り向いたその人に、こう言葉を投げつけたの。
「私があなたの髪を生みなおします。二度と余計な真似などさせません」
笑うでしょ? でもね、そのとき確かに握った手首を介して、あの髪と私の間に刹那の電流が走ったの。
三度目は、あなたを生むため。夜の街に隠れて逢った。その後のあの人のことは知らない。死んだんじゃなければ生きてるでしょう。
その後は色々なことがあって、色んな争いや哀しいことがあって、でもあなたがこうしてここにいることが答え。あなたは望まれて生まれてきたの。
ね。
あなたは生まれるべくして生まれた、狂おしいほどに望んだ、大事な大事な子なのよ。
ね。
分かるでしょ?
あなたがこんな風に暮らしている理由も、生まれてから一度も髪を切ったことがない理由も。
あなたが生まれてきた理由も。
愛してるわ。ずっと愛してる。
突然、老婆が目を閉じた。唇を突き出している。頬がかすかに赤い。ニコフはもぞもぞと胸がざわつくのを感じた。さっきまでの当たり障りのない会話はなんだったのだ。ニコフは混乱した。同時に欲望がむくむく隆起する。突然、ニコフはつり下げてある斧を手に取った。乱暴に動いたことで老婆は目を開ける。老婆の目に、ニコフが斧を持っているのが映る。老婆はうなずいた。ニコフは斧を振り上げる。老婆はふたたび目を閉じる。やはり唇を突き出す。この期におよんで、とニコフは欲望の渦に飲み込まれそうになる。飲み込まれてしまっても別にかまわないか、とまで考える。斧がきらりんと鳴る。突然、階段を駆け上ってくる音。ニコフは斧を振り下ろす。ぶしゃ、と潰れる老婆。老婆の身体の芯の部分が飛び出てくる。それはてらんてらんテカっていて綺麗。ニコフはそれをつかみにゅーんと抜き取る。老婆の残りからしゅんしゅんしゅーうと湯気が吹き出ていく。ニコフがにぎった芯は三日月形をしていて先が尖っている。突然、ドアが開いて、飛び込んでくるのはソーニャ。ソーニャはニコフに抱きつき、三日月形の老婆の芯を舐る。ざまあみろ、とソーニャは囁く。ついてきた犬は老婆の残りを貪る。ニコフは斧を捨て、芯を持ち、ソーニャを抱く。ソーニャの身体は柔らかくて気持ちいい。突然、物語は終わる。ニコフもソーニャも老婆も犬も唖然として舞台袖を見る。そこには何もない。静寂と漆黒。まず吠えるのが犬、なんといっても知能が低いからね。空気を読まずになんか嫌な空気に耐えられず吠える。さらに走り出す。いや焦燥感に駆られてさ、と後で語る。追いかけるソーニャ、まてまて、とニコフ。老婆もいるよ。ヤシの木の下でみんながぐるぐる走る。あんまり早く走るものだから、そのうちにどろどろに溶けてバターが出来上がった。これを使って一儲けしようかい、とヤシの木の上で見物していた黒人の子ども。バターの中のソーニャの部分をぺろんと舐めて、なんかこれ、しょんべん臭いや。バターになってもなお老婆の芯は三日月型で、尖っていて、黒人の子どもの指を深く切り裂く。なんで?なんでこの老婆、あたしのために、まさか!まさか生き別れた・・・。突然流れ出す涙によって塩味が加味。絶妙のバランスですっごく美味しいと地元のお母さん方の評判がよく、品切れ続出、問い合わせ殺到。黒人の子どもうはうは。
僕の住むアパート近くには市立の小学校と中学校が並立した区画があって、夏休みに解放されたプールからは風にのった児童の歓声が聞こえてくるのであった。開け放たれた窓の風をたよりに、歓声を聞きながら、昼寝にしけ込む僕の顔には常に大粒の汗が噴いていて、今年こそクーラーを買うぞと意気込んで汗を拭うのであったが、風鈴の音が聞こえなくなった午後から散歩に出かけ、プールの横を通り過ぎたりすると、カルキの生暖かい匂いが鼻腔をついて、あぁ西瓜でも買って帰ろうか、などと既にこの時点でクーラーのことはほとんど忘れているのであった。
西瓜を買うといっても丸のままひとつ冷蔵庫には入らないし、ひとりで食べきる気概もなかった僕は、半分に切り分けられたものをと、散歩の途中八百屋に立ち寄った。それでも西瓜半分のいいところは中身の赤いのが見えることで、おっ美味そうだな、と包んであるラップの表面を店先で軽く撫でたりするのであった。
キンキンに冷えた西瓜を甘みが均等になる切り分け方(西瓜の中心部の一番甘い部位を突端にして切る方法)で大振りに切って一番大きい三角を一口かじり取ってみる。
西瓜が美味いということは糖度が高い果物がどうのこうのといったものではなかった。甘みだけであれば西瓜はメロンやマンゴーに及ぶはずもなく、もっと大らかな水分を口に頬張るといった行為を楽しむために西瓜はあるのであって少し青臭い匂いを楽しむことこそが西瓜を食べるという行為なのだった。
実家の縁側で食べた西瓜は種をそのまま庭へと吐き捨て、それを嗅ぎ付け集る蟻が種と一瞬見分けがつかなくなって、
「うわっ、種が動いとる」
「何言っとるの、アリだがね」
などと妹とやり取ったことを懐かしく思い返しながら、今は西瓜をのせた皿の端に丁寧に種を吐き出すのであった。
実家にいた頃は甘みが均等になる切り分け方など知らなかったから、半分の西瓜をクシ型に切ってそれをさらに食べやすいサイズにザクザクと切っていただけであった。それでも西瓜自体の甘さは昔も今もさほど変わっていないように思う。
どんな切り方をしたって中心部分の甘さは一瞬で消え失せてしまうと知りつつも、一旦甘みが均等になる切り分け方を覚えてしまうと、それを忘れて、ただ、ザクザクと切ってしまってからの後悔はとてつもなく大きなものになるのであった。
ある日すべてを投げ出したくなって決心した。
死んでやろうと。
制服を着て海沿いの道を自転車で走った。
生ぬるい風が頬を撫でるのがひどく不快だった。
海を選んだのは、制服を着て海に浮かぶ行為が
なぜだがひどく魅力的に思えたからだ。
海に浮かぶ私。周りには何も無い。
波に乗ってどこか遠いところへいくのだ。さらば故郷。
大して思いいれもないくせにそう思った。
無心でペダルを踏み込んでいるうちに、砂浜に着いた。
乱雑に自転車を止めて下り海へと進んだ。
私が記念すべき死に場所に選んだそこは、今日も青く
静かで美しかった。
一歩また一歩と足を踏み出す。
心臓が激しく鼓動を繰り返すのを感じていた。
スカートの裾と海が溶け合おうとしたそのとき。
歌がきこえた。ような気がした。耳を澄ます。
やはり聞こえる。
振り返ると、砂浜に男が座っていた。
見られた。そう思って身を隠したくなった。
そのときある疑問がわきあがった。
あの男はなぜ私を止めない?
面倒ごとに巻き込まれたくないのか。
あるいは他人など興味がないのか。
いずれにしてもあの男はかなり性格が悪い。
人が死のうとしているすぐ後ろで、幸せそうに
歌を歌っているのだから。
腹立たしかった。
だけど不思議なことにその声は私の心にふんわりと着地した。
私はとまどいながら目を閉じた。歌声が頭に響く。
どれくらいの間そうしていただろう。
声が止んだので、そっと目を開けた。
夕焼けが目に染みて痛い。
男はギターケースを担ぎ踵を返そうとしていた。
私はとっさに「待って」と叫びながら、男を追いかけた。
波が跳ね上がり全身ずぶ濡れになった。
男は立ち止まりゆっくりこちらを向いた。
栗毛色の髪が風に揺れていた。
声をかけようとしたが私の声は言葉にならなかった。
男の両目は堅く閉じられていた。
「どちら様?」
男が怪訝そうな声色に慌てて口を開いた。
「はじめまして。えっと、歌、すごく良かったです」
初対面の人に何を言っているんだと段々恥ずかしくなり、
言葉が尻すぼみになってしまった。
「え?聞かれてたのか。恥ずかしいな」
そう言った後男は微笑んだ。
「僕はね、生まれつき目が見えないんだ。でも心で
広い世界が見えてる。だから嬉しくて歌うんだ」
そう言って立ち去る彼を呆けたように見送った。
小さくなっていくその背中を見ながら思った。
もう少し生きてみよう。
私は自転車にまたがり、家へと走り出した。
夜が近づいた風は、何もかもゆるやかに乾かしてくれた。
ある夜、僕は公園の木の下で、大して仲良くもない女の子から告白を受けた。一体どこが好きなのかと聞くと、彼女も僕の鼻の形を気に入っていると答えたので僕はうんざりした。周りの知り合いは、しばしば僕の鼻を見て形がいいと褒めた。僕はそれが嫌で堪らなかった。
僕は昔から酷い蓄膿症であるために、鼻での呼吸がとても難しい上に、匂いをかぎ取ることがほとんどできないのだ。治療をしてもなかなか治らず、煮詰めて凝縮させた羞恥の塊のような僕の役立たずの鼻は、形が良いと言われれば言われるほど、僕の顔の上でむず痒さを増すのだった。
女の子の鼻は少し潰れているが、蓄膿症ではないようだ。それは唇を見ればすぐに分かった。蓄膿症の人間は口で呼吸をするから、必然的に唇が厚ぼったくなる。彼女の唇はどちらかといえば薄く、清潔感があった。
僕の唇は例にもれず厚ぼったかった。加えて唇の圧迫を受けない前歯たちが飛びだし気味で、僕はそれらを醜いと思っていた。全ては機能不全の鼻のせいだった。
君は僕の鼻を綺麗だと言うけれど、僕の口を見てよ。どうして君はこの口の汚さを見ても、僕を好きだと言えるんだい?
口のことを気にしているのは、あなただけじゃないかしら。くすくすと自信ありげに、そして可愛らしく笑いながら、その女の子は答えた。よく見ると確かに出っ歯よね。でも私は気にしないわ。鼻が好きなんだもの。あなたが気にするなら、矯正でもすればいいのよ。
そうじゃないんだ。僕は癇癪を起しそうだった。(君が好いているのは僕ではないじゃないか。)
矯正をするくらいなら、と僕は苦々しく言った。美容外科に行って、鼻をむしり取ってもらうよ。
女の子は酷くショックを受けた顔をし、次に悔しそうな表情になって、僕を睨んだ。しかし何も言い返さないその応答に、僕は仄かな愛おしさを抱いた。
彼女は、僕をどこまで理解してくれるのだろう。その可能性に僕は手を伸ばしかけたが、女の子はまもなく泣きながら俯いて僕に背を向け、歩き去ってしまった。
女の子がいなくなって、初めて僕は周りの景色を見回した。しかしそこには遊具も、砂場も、ベンチも、何も無いのだった。また、そばの木は良くみれば枯れていた。上を向くと、枝は葉が占めるべき空間だけを残して闇に沈黙している。
(週末、外科へ行こう。)
鼻の中が疼いたが、手持ちのティッシュは使い切っていた。頭痛がし始めるのを僕は感じた。
彼女には風神と雷神が憑いていた。頭上に浮かぶ雲からは生まれてこの方続く雨が降っていた。濡れた前髪はいつも額に付いていた。友達は居ないようでそんな姿が可哀らしかった。名前をSと言った。
僕らは名の無い繋がりから彼女が一人住む家で同棲を始めた。家が建つ六十坪の敷地の上では雨が降っていた。庭では草木が生い茂って家を覆っていた。何かと間違えてワカメも育っていた。僕らは隔離された空間で愛をはぐくんだ。
外へ出る時はいつも傘を持って出掛けた。彼女の愛用の黄色い傘だった。僕ら二人が歩く後ろには水溜りの跡が出来ていた。
「アメンボはどこから来るのでしょうね」と彼女が水溜りを見て呟いた。満足な答えが返せず僕は家に帰ってパソコンから離れられなかった。
彼女は頑固な一面も持っていた。事在る毎に言っていた。
「男は綺麗な女を好きになるし、女はお金持ちの男を好きになるのよ」
「真理なの。だから科挙は強いのよ」と。
「私とNの繋がりに、名前があれば好いのにね」
僕らは哀しさを覆う湿気を含んだ皮膚を重ね合わせた。
逝き場の無い湿気った息を掛け合った。
愛欲が浪打ながら何度も何度も繰り返し僕を突き刺した。
不安と喜びが隣り合わせる光へと落ちていった。
抜け出せない沼に溺れていった。
いつか死ぬなら今が好い。
台所のサッシの中で死んだヤモリを観た。その床にうつ伏せに倒れている僕を見つけた。
外傷は見当たらなかった。僕は彼女に殺されてしまったのだ。僕は外との繋がりが切れてしまっていたから僕の体は今も彼女の家にある。
家の中を捜すが彼女と黄色い傘が消えていた。新しい繋がりを見つけに家を出たのかもしれない。
家の外へ出てみると外には水溜りが出来ていた。水溜りを辿ってここを通ったんだろうと憑けてみるけど彼女に辿り着くことは無かった。道をさまよう僕の上に雨は降ってこなかった。嘗て彼女が「アメンボはどこから来るのだろう」と見ていた水溜りが出来るのに僕は関係無かった。彼女一人で水溜りは出来るのだった。
きょうも僕の知らない所で彼女は繋がりを探している。出逢ったあなたのつるべを落とす。顔の本を増やしていく。「私を交ぜて」とつい言った。
職場のビルから一歩出ると、顔面に湯のような熱風が吹きつけた。空はまだ明るく、強烈な西日がぎらぎらと照っている。眩暈を覚え、重い空気を掻くようにして歩き出す。
駅へ向かう途中で、斜め前を行くあなたに気づいた。袖の短い水色のワイシャツを着た、会社員の姿をしている。学生っぽさの残る横顔。私よりも足が遅く、だんだん距離が縮まっていく。あなたはネクタイを緩めると、唐突に走り出し、高く跳び上がった。着地、ステップ、ターンアンドターン。楽しそうに笑いながら、両手を広げてのびのびと踊る。
信号を渡ろうとして、反対側から歩いてくるあなたに気づいた。制服姿の女子高生で、ヘッドフォンを耳に当てて小さく頭を振っている。一定のリズムで揺れる長い髪。すれ違う瞬間、あなたは口から泡を吐き出した。棒と旗がついている、八分音符。細かく砕けて、サイダーの気泡のようにきらきら輝きながら、夕焼け空を上っていく。
改札を通った後、ホームに座り込んでいるあなたに気づいた。白い肌着を身につけ麦藁帽をかぶった老人の姿で、如雨露を片手に柔和な笑みを浮かべている。アナウンスが流れると、あなたはおもむろに立ち上がった。並んで電車を待つ向日葵たちに水をやっていく。蝉のベルがけたたましく鳴いて、ホームに列車が入ってくる。
駅前の商店街で、尻尾を振っているあなたに気づいた。野良犬なのだろう、茶色い毛はぼさぼさで首輪もしていない。舌を出して物欲しげにこちらを見つめる。あなたはふいに空を見上げて一つ吠えた。応えるように雷が鳴り、大粒の雨が降り出す。私が慌ててシャッターの下りた店先に逃げ込むと、途端に雨は止み、あなたの姿は見当たらない。
暗くなり始めた路地で、若い夫婦と手を繋いだあなたに気づいた。三歳くらいの男の子の姿で、濡れたアスファルトの上を一生懸命に歩いている。母親が口にした、花火、という言葉がぽっと光る。角を曲がろうとして、あなたは急に立ち止まった。足元に大きな水溜まりが広がっている。じっと見据えてから恐る恐る足を上げ、あなたはそれを踏み越える。
アパートの階段を上りながら、鞄から鍵を取り出す。ドアを開けて、ただいま、と呟いた。
「おかえり」
と、たくさんのあなたの声が、背後から、
聞こえない。代わりに、どっ、という鈍い振動が夏の夜を揺らした。私は玄関で立ち尽くし、途切れ途切れに鳴る、今にも止まりそうな心臓の音に耳を澄ます。
ずいぶんと長い間、そのことわざを「骨折り象のくたびれ儲け」だとばかり思っていた。ずっとずっと長い間、そう信じて疑わなかった。
「骨折り象のくたびれ儲け」
いったいいつどこで、誰からそのことわざを聞いたのかは、思い出せない。ただ、最初にそう聞き間違ってしまった時に、すぐにサーカス小屋の片隅で、玉乗りの練習に励んでいる子象の姿が浮かんできた。そのことだけは、今でも鮮明すぎるほど覚えている。
子象は、玉乗りが苦手で、うまく玉に乗ることができない。しかし、ものすごく負けず嫌いで頑張り屋だったので、けして、あきらめない。
「練習すればいつか絶対に玉に乗れる。」そう信じて毎日毎日練習に励むのだ。
それは、仲間達が心配になるほどの、打ち込みよう。
「子象ちゃん、あまり無理すると身体に毒だよ」
「子象ちゃん、少し休んで、一緒におやつを食べようよ」
子象は、聞く耳持たずで、玉乗りの練習を続ける。
「玉に乗れなくちゃ、自分は、ここにいる意味がないんだ。おやつも食べる資格なんてない。」
子象は、かなり思い詰めていた。
ある日。練習の甲斐あって、ついに子象は、玉に乗ることができる。ただ、それはほんの一瞬で、すぐにバランスを崩し、ああっというまに地面に叩きつけられ、左足を骨折してしまう。
「骨折り象のくたびれ儲け」
ああ、なんという悲哀に満ちたことわざ!
一目惚れのように、このことわざが気に入ってしまったのだった。
以来、私にとって、「骨折り象のくたびれ儲け」と「サーカス小屋の子象」はセットになった。正確には、「松葉杖をついて投げやりな感じのサーカス小屋の子象」だ。
「今日は、ほんまに『「骨折り象のくたびれ儲け』やったわ」
そんなふうに、ことわざが使えそうな時は、必ずといっていいいほど、口にした。なのに、なのに、これまでに一度も、誰にもつっこまれなかった。ただの一度も。
「それを言うなら『骨折り損のくたびれ儲け』や、『象』とちごて『損』やで」
ひとりぐらい、そうつっこんでくれた人がいてもいいはずなのに。
よく聞き取ってもらえなかったのか?たまたま聞いた相手が、ことわざを知らなかっただけなのか?互いの微妙な距離感が邪魔をして、つっこみたくてもつっこめなかったのか?
今となっては、確かめようがない。
子象は、もう永遠に玉には乗れない。乗りたくても乗れない。骨折のせいで片方の足が使いものにならなくなったから。というわけでは、もちろん、ない。