第130期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 髭剃りと災厄と野口英世 椅子 1000
2 隣のI LOVE YOU☆ Misako 529
3 人間ルンバ メイプル 863
4 信仰 岩田 健治 990
5 終章 なゆら 673
6 水面下からの手紙 豆一目 997
7 ハンデぃモップ 白熊 1000
8 黙夏 吉月結良 973
9 ごめんね、ぬけ床 あかね 1000
10 骨董通り qbc 1000

#1

髭剃りと災厄と野口英世

「そういうときって、言葉は出ないものなの」と彼女は言った。日曜の夜で、ぼくらは酔っていて、おまけに裸でベッドの中に居た。彼女はこの春福島からやって来た大学の後輩で、かの震災においては家を半壊にされてしまうなどの凄惨な状況を経験した過去を持つ。

「避難所のトイレではレイプが相次いだわ」とも言った。ぼくはゲームをしていて、彼女はぼくの胸の上で独り言を続けている。二人とも酔っているのだ。彼女はチャーミングな鼻をしていた。ぼくはゲームをポーズ画面にするとその鼻を指で撫でた。それからこの鼻は一体どれくらいの男によって触れられたのだろうかと夢想した。脇腹には彼女の小さな胸があたっているが、それよりもぼくはこの鼻が気になる。
「言葉は出ないのではなくて、奪われたんだ」とぼくは言った。「失われた言葉を救い出す必要がある。そうしてそれにはお前の鼻が必要なんだ」
「お前って呼ばないで、怖いから」彼女は言った。

翌朝目覚めると彼女は居なかった。寝坊に気付き、ぼくは急いでシャワーを浴びて髭を剃った。顎を、鼻の下を、頬を。風呂場の鏡はシャワーの湯けむりでぼんやり曇っている。昨夜の彼女を思い出した。勿体ないことをしたなあと思った。彼女の鼻を少しでも長く見ていたかったし、触れていたかった。思い出すだけでぞくぞくと震えたし、今度もし機会があれば鼻だけでもおいていってもらおうと思った。丹念に髭を剃り終えると干したままのTシャツをそのまま被って、そこでテーブルの上に野口英世を三人見つけた。傍にはメモが置いてあった。「くそったれ、酒代」と、青色のペンで殴り書きがしてある。ぼくは笑ってしまった。なんだって野口なのだ、彼には立派な口髭が張り付いている。

ふと思えば、ぼくは彼女の鼻のことを思い出すことはできるが、それ以外については点で覚えていない。不思議なことだ。体のことはおろか、顔さえぼんやりとも記憶には残っていなかった。或いはそれは相対的なものかもしれなかった。鼻の魅力が過ぎたのだ。失われた記憶を取り戻さねばならない。そのためには何が必要か?確かに、そのためには強烈な災厄が必要なのだ!人は忘れるのだから、ぼくには災厄が必要だったし、彼女には彼女の鼻が必要だった。

「おい、災厄が必要なんだ!」と英世たちに叫んだ。彼らは微かな笑みを浮かべているが、そこには何もない。ぼくはくそったれと呟いて、彼女に電話をかけようと思った。


#2

隣のI LOVE YOU☆

ハッキリ言って、彼女……友里はモテない。
顔、ルックス、性格共に問題はないはずだ。
それなのにモテない。
いや、出会いが無いと言った方が正しいのかもしれない。
そして、いつの間にか“恋なんてしなくていい”と思うようになっていた。
そんな友里だったが、一人の男性から告白を受けた。
「好きだって、言われても……なぁ」
友里は相手をまじまじと見る。
性別は問題ないのだ。
そう、性別だけは。
「どう見てもコップじゃない」
「毎日、キスをしている仲じゃないか。何を今更、恥ずかしがる」
「な、何を今更って……」
告白してきたのは、友里愛用のマグカップだった。
そりゃあ、毎日キスはするよ。
「毎日、マグ君って呼んでくれてるじゃないか!」
マグカップで、マグ君。
友里には、モノに名前を付けるクセがある。
「でも、付き合うったって……」

友里は想像する。
マグカップとデートをする自分。
夜景を背にマグカップとキスする自分――……

「無理だ……どう考えても、無理だ」
「今まで僕を大切にしてくれた分、大事にするから!」
マグカップは友里を抱き締める。
「ごめんなさい」
「こんなに友里を――」
「しつこい!」
と、友里は顔を近付けるマグカップを突き飛ばす。

ガシャン――……

「……あ」
出会いが突然ならば、別れも突然なのだ。




#3

人間ルンバ

 時は2040年――科学はもちろんのごとく進歩していた。
 空飛ぶ自動車や人が乗ると動き出すエスカレーターなど、物凄い発明からちょっとショボイ発明まで幅広く新しいものが作られていた。
 そのうちの物凄い発明側に入るものに、人間ルンバというものがある。
 人間ルンバ。「文字通り」と言ったら「わかるか!」と返されてしまいそうな名前だが、文字通りの発明品なのである。
 想像したくもない代物だと、最低な発明品だと世間から批難されたその商品は、人間の形をした、掃除機なのだ。
 予想を裏切るかもしれないが、決して床を這って掃除をするようなホラー商品ではない。
 普通に箒や雑巾などで掃除をしてくれる、至って普通のロボットだ。
 そのロボット離れした滑らかな動きと美しさは、瞬く間に世界中の人々を魅了し、全世界へ売り出された。
 しかし人間ルンバは、本当の名を「お掃除ロボット」という。  「人間ルンバ」は、ある事件が起こり始めてから、このロボットにつけられた、恐ろしい意味のある名前だった。
 全世界に約2千体が売り出され、少し大きな電化製品売り場にも設置されるようになった頃、とあるニュースが全世界の人々の顔を青く染め上げた。
『お掃除ロボット、誤作動を起こし住人を殺害』
 掃除とコミュニケーション能力しかプログラムされていないはずのお掃除ロボットが、持ち主の住人を殺害した、というニュースだった。
 世界中から「お掃除ロボット」が返品される中、その事件はどんどん数を増やしていった。
 そしてある事件が起きた日、家に取り付けられた防犯カメラにその決定的瞬間が収められていたのだ。
 ロボットを返品したいと業者と電話をしている女の奥に、機能停止されたロボットが箱詰めされている。
 女は気づいていなかったが、目が一瞬赤く光り――箱を破り出てきたロボットは、恐ろしいスピードで女に這いより、殺害した。
 この衝撃映像が世界中に広まり、「お掃除ロボット」は床を這う「人間ルンバ」へと名前を変えていった。
 2042年現在も、人間ルンバは人を襲い続けているという――。


#4

信仰

 オバマが言った。
「あなたたちの希望が断たれたことに国民皆が悲しんでいる。襲いかかった被害は甚大である。しかし、既に復興は始まっている。あなたたちはきっと立ち上がれるだろう。希望の火は消えていない。わたしたちはあなたたちが立ち上がれるとずっと信じている。そして必ず祈っている」
 僕はこの翻訳の日本語らしからぬ響きが、単純にカッコいいと思う。大統領を英雄の象徴と感じるのは広告戦略からくる効果なのか、純粋な信仰としてからなのか、きっと、陛下がひざまずく映像を見るだけで涙が出る感情と同じものが米国民にもあるのだと思う。大統領は不死身なのだと思う。
 うつつの中。
 母方の実家からさらに山間に入った集落。帰省した日が祭事の集まりと重なった。祭りは夕刻からである。昼飯を食べた今は何もやることがない。もちろん一通りの所作(何かお手伝いしましょうか云々のくだり)はこなしてみたが、例のごとく片付けは女の役目で、男たちは男たちで公民館に設置した櫓(やぐら)にぼちぼち集まり、元来手伝う気さえそぞろな僕はひとり取り残された形で、不死身の大統領を想っている最中なのだった。

「どうぜ」
 割烹着の女がひとり冷たい麦茶を運んで来た。女は三十を少し過ぎたあたりに見える。健康そうに日焼けした顔はオバマに見えなくもなかった。
「どもです」
 出されたお茶を一口すする。
「どげぇすかなぁ、ここらの茶だですげぇ」
 なまりが激しく言葉の意味を解釈するのに一瞬感ためらった僕は「お茶も採れるんすか」と尋ねてみた。
「出荷するもんじゃねぇげぇがすか」
 そう言ってお盆を抱え立ち上がった女はか細く笑いながら他の女たちのいる奥の台所へ引っ込んでしまう。
「あらあ、でもどりだんべ」
 いつの間にか背後には老婆がいて、老婆の膝には猫が座っている。
「惚れよっしたっか」
 老婆の背後にいた初老の女が言う。初老の女は繕いをしていたが、この女もいつからそこにいたのか定かではなかった。見渡すと、先程まで誰もいなかった畳敷きには幾人かの女がいた。もちろん男たちは公民館にいっているからここにはいない。僕は何だか小っ恥ずかしい気持ちになり、あらたまってまたお茶を一口すすった。
 さて、こんなにも人がおったのか。考える僕の横には先程老婆の膝の上にいた猫がいて、まっすぐこちらを見ている。僕が猫の喉をちょろちょろなでると猫は例のごとくごろごろした。


#5

終章

それから後の話をしておく。あんな目にあった春子はやがて綺麗な嫁となり、俺も随分泣いて、おい、てめえ、一発殴らせろ、ってあいつに言ってやったけれど、薄ら笑いでごまかしやがる。ほんとに殴るわけにもいかねえから冷や酒かっくらってたらでろんでろんになって随分暴れたらしい。春子がいなくなった冬に、女房は死んだ。穏やかな最後だった。孫を抱かせたかったって春子は大泣きした。お前、脳だけなんだから抱かせることなんかできねえだろ、って俺は言えなかったね。春子が抱かせたかったんだからそれでいいじゃねえか。女房が死んで3度目の冬に孫が産まれた。目元なんか女房にそっくりだっていってやったら春子、涙が止まんないんだ。つられて俺も涙ぐんだりしてな。さて、俺のこと。もうこりごりだって思ってたけど時間が経つと忘れがたいんだ。あの感触、味、何事にも代え難い。ってことで女房をもらった。誰にも知らせずに誰にも祝福されず、ふたりだけで祝杯をあげた。指輪を交換して悦に入ったり。いいトシして馬鹿みたいだろ。新婚旅行なんて洒落たもんにもふたりで出かけてさ。んで、食った。やっぱり美味かった。女房をもらうもんだな、と思った。春子はさすがに呆れていたよ。なにせ女房をもらったことも知らなかったんだから当然だよな。そんなふうに何度か繰り返して気付いたんだ。俺、鬼だって。知ってたよ、って春子は孫を食いながら言う。おまえも鬼だな。俺は金棒を振り上げた。それを俺にも食わせろ。とかなんとかで大げんか。そのけんかで俺の右腕は春子にもぎ取られ、今も山の中腹の、ほこらの中に奉ったるんだってな。


#6

水面下からの手紙

「拝啓 
 雨の止まない毎日が続いていますが、お元気でお過ごしのことと存じます。
 急ではございますが、私の村の話を聞いてください。
 それは、そやそやと、絹糸のように続く雨から始まりました。
 しめやかな雨の膜は私の村をすっぽりと覆い、次第にじっとりと村を濡らし、黴た空気に私の子供達は一人一人倒れていきました。お葬式の日は晴れませんでした。他の人達も子供達もいつまでも燃やすことができず、そこから新しい病が流行りました。
 雨はいとも優しく厭らしく私たちの村を包んで侵し、村のすべては柔かに腐っていきました。家も鍬も畑も牛も地面すらも澱んだ灰色に塗り替えて、止むことのない雨は続きました。
 不思議なことに、村から少し離れれば、雨はぴたりと止んでおりました。

 異変を察して早々と村を出た者達は二度と戻ってきませんでした。
 幾人もの学者が雨の止まぬ理屈を調べに訪れては、止まぬ理屈を述べたいように述べて去っていきました。
 そして形があるものは雨に崩れ、残骸の中に残った私達は何をする気力もなく降り続く雨を呑み、木切れから生える茸や草をかじって暮らしていました。
「この雨は悲しいほど寂しい味がしないか」と誰かが感傷的な共感を求めましたが、この雨がただの水であることだけは皆知っていたので、応えるものはいませんでした。

 それから数年、何をしても雨は止まず、一人また一人と村は小さく死んでいきました。

 それでこうして村に残っているのは私だけ。ですから、ここはもう村ではありません。水で覆われる墓です。私はその墓に入る最後の人間です。


 分かっています。この村に降り続く雨が、他の村々にとってはこの上ない恵みの雨だと。
 だからこの雨を止める気持ちは、本当は、どこにもないのです。早く気がつくべきでした。早く逃げ出すべきでした。

 でももう遅い。

 この手紙を皆さんに送るのは、皆さんに覚えていて欲しいからです。
 あなた達が過ごしやすく生きるために、見殺しにした私達と、私達の村のことを。
 あなた達が使う水、私達の村から運び出した水の一滴一滴に染み込んだ私達の村の腐った苦しみと悲しみをいつまでも覚えていて欲しいからです。

 こんな惨めなことをしている私をどうか許してください。

 私達に同情の声をかけたその口で、甘い汁を啜り続けたあなた達なら、許してくださると信じています。

 それでは、皆様どうぞお体ご自愛のほど。 敬具」


#7

ハンデぃモップ

 ケウも雨季で在る。
 部屋の鏡、に息吹き掛けながら、磨いて居たら。鏡に顔、を近付けた何度目かに、鏡の中の自分、が仰け反っ手、僕は顔をしかめられた。
 週唯一の休みの日に、ナニかが違うな、歯車ガ狂った。と感じ。拍子、を抜かし、掃除、を止めて、散歩に出た。
 道路沿いの花壇に、タチアオイ、が咲いて居る。スマホで写メを撮らう。としたら、画面に小さな子供、が現れ、「これはハイビスカス」、と言って居る。髪の毛をググる冷たい風に、頭被、を撫でられつつ、一度撮ったら二度と見やう。としない写メ、を撮る。
 其の継ぎには、なんやらびりりとパッケージ、を開く音が聴こ得て来。近所の滑り台と砂場鹿無い公園で、女乃子が独里、砂場に浸かった椅子に座って、愛ポッド、を聴きながら、愛ジャム、を食べて居る。袋と心を開いた彼乃女に、「おじさん、下の毛は植えてるの」、と突然、生涯一度、喪、修学旅行に参加し得無かった僕のコンプレツクス、を突かれて仕舞った。何処に誰の耳が在るか、知れ得無い場所でも、恋う云う場合は、ゼッタイ煮、泡て茶行けません。ボクは男だが、生まれ付きのペニス無し。そして、ツンツル天である。
 其の場を後にし、書店で『セカイの擬音語・擬態語ジテン』を手に捕った。「カキーン」「コキーン」、外人には乞う、キコエテイルノカ。と、セ界の擬on語・擬tai語はオモシ・ロイ。つい口を突い得た言葉は、
「有難いなぁ……」
 胃矢な事を忘れ得る妻良、の手段で在る。
 一本、持た無い僕に対し、セ界中の人人も、「頑張る、努力する」、と云う言葉に対する琴ノ葉、を持って居たとして。只それが、どう云う琴、を差すのか知って居無いだらう。この想い、こそが一本無しの自慰、で在る。
 ケウ一日、掃除をさぼった部屋に戻ったら。天井はクモの巣(だらけ)、に成って居て。ほっタララしたハンデぃモップ、が鏡台の上に在、って、手に取、って、スマホの画面を拭く、っと、画面の子供がこそぐったい、っと、歯しゃ居だ。
 隣の寝室ではピエロの子供がプレスリー、を掛けて妻のベッド、の上で踊って居る。其のプレスリーの曲名はナンだっけ? っと、先のハンデぃで頭を磨きながら、パソコンを開いてあなた筒で探すが見付から無い。

 此の僕の、損な話、を読んで暮れた独者のあなた。ありがとう。あなたの身近に、ハンデぃモップは視って居ても、名前を知ら無い者が居るから、教えて挙げて欲しい。


#8

黙夏

「まるで相合傘ね」
 女の言葉に、無精髭の男は皮肉な笑みを浮かべた。
「嬢ちゃん、よく見ろ」
 電脳世界の漆黒の空から降り続ける光の雫は、男が展開させた半球体の表面を滑り、色を失う。注意深く観察した女は表情を強張らせた。
「氷(ICE:侵入対抗電子機器)?」
「そのお洋服(ファイアーウォール)じゃ、一瞬でフラット・ライン(脳死)だな」
「人に向かってこんなもの使うなんて」
「そろそろ奴さんも本気なんだろ。脱落してった嬢ちゃんのお仲間は、離脱(ジャック・アウト)できただけでも運が良かったのさ」
「……黙夏(サイレント・サマー)」
 女は天まで届かんばかりの壁を睨みつける。壁面を駆け抜ける様々な光が描き出す複雑な幾何学模様は、非力な人間達を嘲っているように見えた。
「何故悪名高いコンピューター・カウボーイが私達、政府機関の依頼を受けたの?」
「金さ、新円(ニュー・イェン)。他に何があるんだい? 嬢ちゃんこそなんで政府の犬なんかやってるんだ?」
「父よ、ジョセフ・モーリス。名前くらい知ってるでしょ。遺志を継ぎたかったの」
「名捜査官殿の御息女か、結構なこった」頬をゆがめて男が言う。
「あなたに何が分かるって言うの!?」
 女の剣幕にも不敵な表情を崩さない男のHMD(頭部装着ディスプレイ)に、隠れ家への侵入警報が映し出された。
「ま、奴らは信用するなってことさ。急ぐぞ」
 たどり着いた壁にあてた男の手から氷破り(アイスブレーカ)が展開され、目まぐるしい速度で防壁を突破していく。
 巧妙に仕掛けられたトラップによりその数を減らしながらも、侵入者達は着実に近づきつつある。没入(ジャック・イン)した男の体があるその部屋へと。
 小さく舌打ちした男の氷破りが開けた防壁の穴から、眩い光が漏れた。
「ここから先は嬢ちゃん一人だ」
「あなたはどうするの?」
「ガキのお守りはここまでだ。ご指名は嬢ちゃん一人だからな」
 男はぶっきらぼうに女の頭を撫でる。その手に覚えたどこか懐かしい感触に、女が首を傾げた。
「行け」男に促された女は、何度も振り返りながら光の向こうへと消えていく。
「まるでヴァージンロードだな」侵入警報が鳴り響く中、男は呟く。「クレア……」
 隠れ家の起爆プログラムの実行命令を下す。
「叶和圓(イェフーユェン)で一服やりたかったんだがな」
 無精髭の男は、皮肉な笑みを浮かべた。


#9

ごめんね、ぬけ床

あれはちょうど去年の今頃、私が夕飯の支度をしている時のことだった。

味噌を溶かしている時に、呼び鈴が鳴ったのだ。

主人だと思って、いそいそと玄関先に出て、ドアを開けたら、そこには漬物石を抱えた男が、ドアを開けるタイミングに間に合わなかったような中途半端な笑顔で立っていた。

グレーの背広姿のセールスマン風情の男だ。

「奥さん、アイツはどないしてます?」

「は?アイツって? いったい何のことですのん?」

「かなんわあ。とぼけてからに。ちょっとおじゃましますで」

男は、さっさと靴を脱いで、漬け物石を抱えたまま上がりこみ、台所に向かった。

テーブルの上に漬物石をドカンと置いてから、

「どこや、いったいどこにおるねん」

と、男はしばらくあたりをキョロキョロと見渡した後、おもむろに流し台の扉を開き、声をあげた。

「おお、なんや、おまえそこにいたんか」

男は嬉々とした表情で、「ぬか漬の樽」を引っ張り出してきた。


男が引っ張り出してくるまで、私はその樽の存在すら、すっかり忘れていた。


男は、はやる気持ちを抑えるように、樽のふたを開けた。
一瞬、ものすごい匂いがし、私は「うわあ」と思わず鼻をつまんでしまった。

男は、眉一つしかめず、背広の腕をまくると、勢いよくぬか床をかき回し始めたのだった。
「おお、よしよし、こんなんなってしもてなあ。かわいそうになあ。かんにんやで。せやけどもう大丈夫や。」

男は、ぬかに話しかけながら、ぬかをかき回した。

「奥さん、あきませんで。コイツはね、毎日かきまわしてやらんとあかんのですわ。ちゃんと呼吸して、生きとるんやで。たのみますで。今度からは気つけたってや」


そう言い、男は、樽を元の位置に戻した。
その後、ものすごく晴れ晴れとした顔で、肩で風を切るように、玄関に向かった。

「ほな。おじゃましました。」

男は、最後に私に向かってペコリと頭を下げた。

こともあろうに私は、その時の、男のその、あまりにも爽やかな頭の下げ具合に、魂を奪われてしまったのだった。


ああそれからというもの、私は、男が残していった漬物石を抱きしめながら、今か、今かと男が現れるのを密かに待ちわびるようになってしまった。

しかし、願いむなしく、男は、まだあれから一度も現れていない。早いもので、かれこれもう一年になる。

もしかしたら、もうそろそろ、現れる頃かもしれない。そう信じたい。信じ願っている。

私はまだ、あれから一度もぬかをかき回していない。


#10

骨董通り

(この作品は削除されました)


編集: 短編