第131期 #9
ある日すべてを投げ出したくなって決心した。
死んでやろうと。
制服を着て海沿いの道を自転車で走った。
生ぬるい風が頬を撫でるのがひどく不快だった。
海を選んだのは、制服を着て海に浮かぶ行為が
なぜだがひどく魅力的に思えたからだ。
海に浮かぶ私。周りには何も無い。
波に乗ってどこか遠いところへいくのだ。さらば故郷。
大して思いいれもないくせにそう思った。
無心でペダルを踏み込んでいるうちに、砂浜に着いた。
乱雑に自転車を止めて下り海へと進んだ。
私が記念すべき死に場所に選んだそこは、今日も青く
静かで美しかった。
一歩また一歩と足を踏み出す。
心臓が激しく鼓動を繰り返すのを感じていた。
スカートの裾と海が溶け合おうとしたそのとき。
歌がきこえた。ような気がした。耳を澄ます。
やはり聞こえる。
振り返ると、砂浜に男が座っていた。
見られた。そう思って身を隠したくなった。
そのときある疑問がわきあがった。
あの男はなぜ私を止めない?
面倒ごとに巻き込まれたくないのか。
あるいは他人など興味がないのか。
いずれにしてもあの男はかなり性格が悪い。
人が死のうとしているすぐ後ろで、幸せそうに
歌を歌っているのだから。
腹立たしかった。
だけど不思議なことにその声は私の心にふんわりと着地した。
私はとまどいながら目を閉じた。歌声が頭に響く。
どれくらいの間そうしていただろう。
声が止んだので、そっと目を開けた。
夕焼けが目に染みて痛い。
男はギターケースを担ぎ踵を返そうとしていた。
私はとっさに「待って」と叫びながら、男を追いかけた。
波が跳ね上がり全身ずぶ濡れになった。
男は立ち止まりゆっくりこちらを向いた。
栗毛色の髪が風に揺れていた。
声をかけようとしたが私の声は言葉にならなかった。
男の両目は堅く閉じられていた。
「どちら様?」
男が怪訝そうな声色に慌てて口を開いた。
「はじめまして。えっと、歌、すごく良かったです」
初対面の人に何を言っているんだと段々恥ずかしくなり、
言葉が尻すぼみになってしまった。
「え?聞かれてたのか。恥ずかしいな」
そう言った後男は微笑んだ。
「僕はね、生まれつき目が見えないんだ。でも心で
広い世界が見えてる。だから嬉しくて歌うんだ」
そう言って立ち去る彼を呆けたように見送った。
小さくなっていくその背中を見ながら思った。
もう少し生きてみよう。
私は自転車にまたがり、家へと走り出した。
夜が近づいた風は、何もかもゆるやかに乾かしてくれた。