第131期 #8

西瓜

 僕の住むアパート近くには市立の小学校と中学校が並立した区画があって、夏休みに解放されたプールからは風にのった児童の歓声が聞こえてくるのであった。開け放たれた窓の風をたよりに、歓声を聞きながら、昼寝にしけ込む僕の顔には常に大粒の汗が噴いていて、今年こそクーラーを買うぞと意気込んで汗を拭うのであったが、風鈴の音が聞こえなくなった午後から散歩に出かけ、プールの横を通り過ぎたりすると、カルキの生暖かい匂いが鼻腔をついて、あぁ西瓜でも買って帰ろうか、などと既にこの時点でクーラーのことはほとんど忘れているのであった。
 西瓜を買うといっても丸のままひとつ冷蔵庫には入らないし、ひとりで食べきる気概もなかった僕は、半分に切り分けられたものをと、散歩の途中八百屋に立ち寄った。それでも西瓜半分のいいところは中身の赤いのが見えることで、おっ美味そうだな、と包んであるラップの表面を店先で軽く撫でたりするのであった。

 キンキンに冷えた西瓜を甘みが均等になる切り分け方(西瓜の中心部の一番甘い部位を突端にして切る方法)で大振りに切って一番大きい三角を一口かじり取ってみる。
 西瓜が美味いということは糖度が高い果物がどうのこうのといったものではなかった。甘みだけであれば西瓜はメロンやマンゴーに及ぶはずもなく、もっと大らかな水分を口に頬張るといった行為を楽しむために西瓜はあるのであって少し青臭い匂いを楽しむことこそが西瓜を食べるという行為なのだった。
 実家の縁側で食べた西瓜は種をそのまま庭へと吐き捨て、それを嗅ぎ付け集る蟻が種と一瞬見分けがつかなくなって、
「うわっ、種が動いとる」
「何言っとるの、アリだがね」
 などと妹とやり取ったことを懐かしく思い返しながら、今は西瓜をのせた皿の端に丁寧に種を吐き出すのであった。
 実家にいた頃は甘みが均等になる切り分け方など知らなかったから、半分の西瓜をクシ型に切ってそれをさらに食べやすいサイズにザクザクと切っていただけであった。それでも西瓜自体の甘さは昔も今もさほど変わっていないように思う。
 どんな切り方をしたって中心部分の甘さは一瞬で消え失せてしまうと知りつつも、一旦甘みが均等になる切り分け方を覚えてしまうと、それを忘れて、ただ、ザクザクと切ってしまってからの後悔はとてつもなく大きなものになるのであった。



Copyright © 2013 岩敏 健治 / 編集: 短編