第131期 #4

蜂蜜という名の事象

 声が失われて、それ以来ハチミツをよく飲むようになった。養蜂を何とはなしに伝統芸能のように思っているので、展覧会を覗いたりすべすべとして丸みのある高層ビルの中を歩いたりする時のように背骨が真っ直ぐに伸びる。
 声が失われたので、私はある日飼い犬と旅行に出かけた。犬と話すのは変な感じがしたが、彼が何について考え、何に怒り、そして私のことをどのように考えているのかそれをとっくりと聞かされ、どうして今まで彼の声が理解できなかったのだろうと一人になる瞬間ごとに考えてばかりいた。そんな彼はあっさり運命の恋に落ち(敷居が低くないと運命とは呼ばないとその昔、大好きだったおねえちゃんは言っていた)、私たちはしばらく同じ町に留まることになった。
 ものを食べられなくなった彼はどんどん痩せていった。力を奪われた彼の声は届かなくなった。私は死んでしまった彼を抱いて町を移った。朝日に細目を開けると書き置きがあり、彼の姿はなかった。しかし声が失われて以来、私は文字が読めないのだった。
 大学に戻り書き置きを回したがそれは人の文字ではなく、何が書かれているのかわからないままだった。板状の巣を持って蜂に煙るように立つ先生はとびきりのハチミツを振る舞ってくれ、お返しに書き置きを預からせて欲しいと言った。コピーは取っておくと言って、翌日には書き置きはなみなみのハニーポットの中に漬かっていた。
 今度は一人旅だった。死んでいるが恋に焦がれて生き続けている犬の噂を至るところで耳にしたが追いつけなかった。先生に頂いたハチミツも底をつき、私はハチミツ無しの旅を続けた。背がだんだんと沈んでいき、声が、ただ音としての声として戻ってきた。私は這いつくばるようにして歩き、遂には這いつくばって歩いた。道の至るところに文字があった。それは言葉だった。独白もあり対話もあった。勧告や宣伝もあればフィクションだってあった。言葉が溢れていた。
 先生は上等なクッションを用意して待ってくれていた。そこに丸くなった私の背を三日月を描くように撫で、ハチミツ漬けの書き置きを床に置いた。今度は何と書かれているのかはっきりわかった。さようなら。他に細かい文字が見えたが読むことはできなかった。先生がミルクで満たされた白い平皿にその書き置きを浸すと、私の前から文字が消え、まっさらな白い紙が生まれた。私はペンをくわえるとそこに、また会いましょうと書いた。



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