第131期 #13
職場のビルから一歩出ると、顔面に湯のような熱風が吹きつけた。空はまだ明るく、強烈な西日がぎらぎらと照っている。眩暈を覚え、重い空気を掻くようにして歩き出す。
駅へ向かう途中で、斜め前を行くあなたに気づいた。袖の短い水色のワイシャツを着た、会社員の姿をしている。学生っぽさの残る横顔。私よりも足が遅く、だんだん距離が縮まっていく。あなたはネクタイを緩めると、唐突に走り出し、高く跳び上がった。着地、ステップ、ターンアンドターン。楽しそうに笑いながら、両手を広げてのびのびと踊る。
信号を渡ろうとして、反対側から歩いてくるあなたに気づいた。制服姿の女子高生で、ヘッドフォンを耳に当てて小さく頭を振っている。一定のリズムで揺れる長い髪。すれ違う瞬間、あなたは口から泡を吐き出した。棒と旗がついている、八分音符。細かく砕けて、サイダーの気泡のようにきらきら輝きながら、夕焼け空を上っていく。
改札を通った後、ホームに座り込んでいるあなたに気づいた。白い肌着を身につけ麦藁帽をかぶった老人の姿で、如雨露を片手に柔和な笑みを浮かべている。アナウンスが流れると、あなたはおもむろに立ち上がった。並んで電車を待つ向日葵たちに水をやっていく。蝉のベルがけたたましく鳴いて、ホームに列車が入ってくる。
駅前の商店街で、尻尾を振っているあなたに気づいた。野良犬なのだろう、茶色い毛はぼさぼさで首輪もしていない。舌を出して物欲しげにこちらを見つめる。あなたはふいに空を見上げて一つ吠えた。応えるように雷が鳴り、大粒の雨が降り出す。私が慌ててシャッターの下りた店先に逃げ込むと、途端に雨は止み、あなたの姿は見当たらない。
暗くなり始めた路地で、若い夫婦と手を繋いだあなたに気づいた。三歳くらいの男の子の姿で、濡れたアスファルトの上を一生懸命に歩いている。母親が口にした、花火、という言葉がぽっと光る。角を曲がろうとして、あなたは急に立ち止まった。足元に大きな水溜まりが広がっている。じっと見据えてから恐る恐る足を上げ、あなたはそれを踏み越える。
アパートの階段を上りながら、鞄から鍵を取り出す。ドアを開けて、ただいま、と呟いた。
「おかえり」
と、たくさんのあなたの声が、背後から、
聞こえない。代わりに、どっ、という鈍い振動が夏の夜を揺らした。私は玄関で立ち尽くし、途切れ途切れに鳴る、今にも止まりそうな心臓の音に耳を澄ます。