第130期 #9
あれはちょうど去年の今頃、私が夕飯の支度をしている時のことだった。
味噌を溶かしている時に、呼び鈴が鳴ったのだ。
主人だと思って、いそいそと玄関先に出て、ドアを開けたら、そこには漬物石を抱えた男が、ドアを開けるタイミングに間に合わなかったような中途半端な笑顔で立っていた。
グレーの背広姿のセールスマン風情の男だ。
「奥さん、アイツはどないしてます?」
「は?アイツって? いったい何のことですのん?」
「かなんわあ。とぼけてからに。ちょっとおじゃましますで」
男は、さっさと靴を脱いで、漬け物石を抱えたまま上がりこみ、台所に向かった。
テーブルの上に漬物石をドカンと置いてから、
「どこや、いったいどこにおるねん」
と、男はしばらくあたりをキョロキョロと見渡した後、おもむろに流し台の扉を開き、声をあげた。
「おお、なんや、おまえそこにいたんか」
男は嬉々とした表情で、「ぬか漬の樽」を引っ張り出してきた。
男が引っ張り出してくるまで、私はその樽の存在すら、すっかり忘れていた。
男は、はやる気持ちを抑えるように、樽のふたを開けた。
一瞬、ものすごい匂いがし、私は「うわあ」と思わず鼻をつまんでしまった。
男は、眉一つしかめず、背広の腕をまくると、勢いよくぬか床をかき回し始めたのだった。
「おお、よしよし、こんなんなってしもてなあ。かわいそうになあ。かんにんやで。せやけどもう大丈夫や。」
男は、ぬかに話しかけながら、ぬかをかき回した。
「奥さん、あきませんで。コイツはね、毎日かきまわしてやらんとあかんのですわ。ちゃんと呼吸して、生きとるんやで。たのみますで。今度からは気つけたってや」
そう言い、男は、樽を元の位置に戻した。
その後、ものすごく晴れ晴れとした顔で、肩で風を切るように、玄関に向かった。
「ほな。おじゃましました。」
男は、最後に私に向かってペコリと頭を下げた。
こともあろうに私は、その時の、男のその、あまりにも爽やかな頭の下げ具合に、魂を奪われてしまったのだった。
ああそれからというもの、私は、男が残していった漬物石を抱きしめながら、今か、今かと男が現れるのを密かに待ちわびるようになってしまった。
しかし、願いむなしく、男は、まだあれから一度も現れていない。早いもので、かれこれもう一年になる。
もしかしたら、もうそろそろ、現れる頃かもしれない。そう信じたい。信じ願っている。
私はまだ、あれから一度もぬかをかき回していない。