第13期 #20

渡海譚

 真は十歳になるが未だに海を渡ることができない。村の男子は朝食をとるやいなや家を飛び出し、沖の島へ向かう。蟹でも貝でも高く売れたりおいしかったりするものはすぐに採られてしまう。やがて漁を終えると、彼らは成果を自慢しあいながら海面を歩いて岸へと戻ってくる。島を目指して船を漕ぐ真と彼らがすれ違うのは、ちょうどそんな頃合だ。彼らは真の存在など無視するように振舞っているが、会話の音量だけはきちんと下げるのだった。
 真が家に帰ると母はため息をつく。いつになっても渡れないから愛想をつかされている。漁に出たきり帰ってこない父の昔話を母はする。いかに強く、いかに慕われていたか、と。でも真は考える。女は海を渡れない、だから僕を責める資格などない、と。
 日曜の午後、真は女先生とばったり会った。先生もいつも真の父の話をする。父の昔をよく知っている。真と幼いころの父は似てるとか、父は人の見ぬところで渡る練習をしていたとか。実は真は父のことをあまり知らない。遠くの海を目指して村の男達が行進していった光景の記憶だけがぼんやりとある。昔は何だってもっと沢山獲れたのに、と先生は言う。
 暇だったのか、先生は真を砂浜に引っ張っていった。当然先生も渡れないのだが、真を指導するぐらいは造作ない。真はまず右足で片足立ちをして、その状態で水際まで跳ねていった。いざ水面へと大きく飛び出す。そして右足が水中へと完全に沈む前に、片足立ちを解き今度は左足を水面に蹴り出す。でも何度試してもうまくいかない。真の両足はがっちりと水底の砂を掴む。
 繰り返すうちに真は頭がくらくらしてきた。心配した先生に連れられて木陰に行くと、倒れこんだ。深い眠りに落ちる瞬間、母と先生が口論しているのが聞こえたような気がした。真は思う。なぜ二人は仲が悪いのだろう。
「お前ももう大人だろう」突然父の声が聞こえた。

 気が付くと真は自分の布団で寝ていた。朝日が眩しい。居間では母が椅子にもたれかかって寝ていた。玄関が開けっ放しで、その先に鱗のように輝く海が見えた。真は誘われるように家から出る。浜辺に降りると島まで一筋、海の色が濃く変わって延びている様子が見える。憑かれたように勇んで片足立ちで跳ねていく。水面へ飛び出す。濃い水面では足はいつもよりゆっくりと沈む。母が追いかけてきた。真は渡れることを自慢しようと振り返ったが、次の瞬間平衡を失い海水に浸かった。



Copyright © 2003 (あ) / 編集: 短編