第13期 #2
ねえちゃん、リュウガクやめたん? 家にずっとおるの?
残念そうな顔のなかに、それでも隠しきれない安堵を含みながら、栄子は智子に言った。智子は台所から応接間に続く廊下を歩きながら、斜め後ろをひょこひょこと付いてくる、十歳も離れた小さな妹に、そうやよ、やでしばらくはまだおるわ、えいちゃんのレッスン続けられて姉ちゃん嬉しいわ、じゃあ今日のレッスンしよか、と言った。
応接間に置いてあるピアノの正面前に栄子、その左側に智子が座った。栄子はまだ九歳だったけれど、智子に負けない才能を持っており、近ごろは結構な難曲も弾けるようになっていた。昨日の続きからいこか、と言って、栄子に弾かせる。栄子がドビュッシーの練習曲を見せている間に、智子はロンドン行きが駄目になったことを考えていた。智子にとって長年の夢だったロンドンでの大学生活が、家の経済的な理由で駄目になってしまったことは、薄々はわかっていたけれど、それでも昔は景気が良くて、高価なピアノも気軽に買っていたのに、数年で嘘のように変わってしまったのを今でも理解しきれていなかった。両親が意地を張って、智子にその姿を見せまいとしていたせいもある。
栄子のまだ小さな手先が、鍵盤上を舞う。今日の栄子は調子が良かった。智子が家に留まるということの嬉しさが、押さえきれずに栄子の指から響いてくる。それが智子の神経に刺さった。栄子には和音の後、微かに弾く修飾音符の部分で、わずかに休憩する癖があり、他の部分はとても良かったが、今日はそれが特に目立って聞こえた。智子はその癖が嫌いだった。
えいちゃん、いつもの癖でてるで。昨日もそれ言ったやろ、何回もおんなじこと言わせんといて。姉ちゃんだって暇と違うんやで。そう言うが早いか、智子は立てかけてある楽譜を手で払った。楽譜は演奏が止まると同時に栄子の方へ落ち、栄子の右人差指に当たって、そのまま栄子の膝に隠れた。指が切れて、血が滲んできた。
ほらもう、とろいことしてるから手、切ったやない。いつまで鍵盤に手を置いとるの、はよティッシュとマキロン持ってきて消毒しなさい。鍵盤汚れたらどうするの。
栄子は突然の出来事に目を大きく開いて、智子に言われても鍵盤から手を離せず、ただ置いてあるばかりの人差指から血は白鍵の間へと流れた。