第129期 #13

落ちているんですけど

 穴に落ちた。
 日射しが眩しく、湧き上がる入道雲が見事であった時節だったと記憶している。
 頭の上を無数の鳶が飛び交い、ヒョロヒョロ鳴いているのをぼんやりと眺め歩いていたら、落ちた。
 だから、穴がどんな形で、何処に空いていたのかは覚えていない。気がついたら落ちていたのだ。
 足下が消失した瞬間の落下感覚、一瞬の無重力、そして最後に激突の衝撃――が来るはずだった。
 だが、衝撃は来なかった。穴には底が無かったのだ。
 だから私は落下し続けている。穴の中を落ち続けているのだ。
 もうどれ程の時間が経ったのか解らない。一日以上は確実である。何故なら秒数を数えたことがあるからだ。一秒、二秒と数え、八万六千四百秒数えたが、尚も落ち続けていた。念の為に何度もそれをやってみたのだが、やはり同じであり、それ故に数日、数週間、下手したら一年は落ち続けている可能性がある。
 しかし、不思議なのは腹が減らず、咽もまるで渇かないことだった。もしかしたら気が変になっているのではないかとも思ったが、論理的思考が可能なので、それもない。
 夢にしては長すぎるが、「邯鄲の夢」の故事もある。一概に夢でないとも言い切れない。
 兎に角、私に出来ることは重力に任せて落ちることだけである。このまま落ち続ければブラジル当たりにひょっこり出たりするのだろうか。いやいや、地球の構造からしてそれはない。マントルや核にぶつかるはずだ。
 暇なのでひたすら落ちる前のことを思い出していた。大学でダラダラとサークルや一人暮らしを楽しんだこと、就職活動で苦労したこと、職場で恋人が出来たこと、彼女と結婚したこと、子供が出来たときの為に名前を考えていたこと。
 皆が皆、もう遠い昔のことのように思え、最初あった不条理に対する哀しみも怒りも感じなくなってしまった。漂白されたように、妙に心安らかだった。
 遠いことに意識がいったついでに、子供につけるつもりだった名前のことを思い出した。男なら隆仁、女なら美佳にしようと考えていた。
 その時、突然、足下が輝きはじめ、目映いばかりの光りに包まれた。
 唐突に周りが騒がしくなった。人の声を聞くのは久しぶりだ。それにしても喧しい。
 赤子の泣き声のような……いや、これは私の声だ。泣き喚いているのは私だ。
 ああ、別の声も聞こえる、遠い昔に聞いた覚えのある女の声が。
「良かった、無事産まれてくれてありがとう、隆仁、隆仁……」



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