# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 思い出の教室 | 櫻ノ宮智 | 252 |
2 | カンチョーの神様 | Jo | 926 |
3 | 王子ピノルの帰還 | F.Y. | 928 |
4 | 八百万にして五千円の妹 | 戦場ガ原蛇足ノ助 | 998 |
5 | 一円玉 | 岩西 健治 | 948 |
6 | 理由 | yasu | 1000 |
7 | ほっぺた | qbc | 1000 |
8 | 嘆きの人妻 | あかね | 1000 |
9 | ナシナビゲーション | 謙悟 | 444 |
10 | 面小面鬼小面 | 豆一目 | 997 |
11 | タイツ | 白熊 | 1000 |
12 | 夢の香港 | キリハラ | 1000 |
この時期になると思い出すことがある。
それは中学三年の教室。
卒業式の日も近い春、国語の授業の時間だった。
いつも話が脱線するのが面白い佐藤先生の授業だったが、
その日は格別に生徒たちに受けが良く、
教室は爆笑が続き、僕などは笑いすぎてお腹が引きつるほどだった。
突然、すぐ前の席に座っていた美鈴が振り向いた。
目に涙を浮かべ僕に何かを囁いたが、
皆の笑い声に掻き消されて、その言葉は聞き取れなかった。
「何、どうしたの?」と訊くと
彼女は僕の目の前にノートを開いて、その文字を指差した。
『笑いすぎて、あごがはずれた』
(了)
私の中学の先輩にMさんという人がいた。彼はある能力において神がかりな才能を持っていた。それはカンチョーである。彼の指から繰り出されるカンチョーは、ねらった人の肛門を正確に突き刺し、奥へともぐりこんだ指は腸にまで達する。それを食らったものは、脳天まで貫く激痛にただただ身を悶えるしかない。しかも、Mさんは完全に気配を消して、人の背後にまわることができる特殊能力まで持っている。毎日、何人もの後輩が犠牲になり、身を悶え苦しんでいた。
ある日、後輩たちは集まり話し合いを開いた。目的はMさんに復讐するためだ。このままだと私たちの肛門に未来はなく、死人すら出かねない状況だ。何とかMさんに一撃を与え、一泡吹かせたかった。話し合いは深夜遅くまで続いた。
Mさんへの復習を決行する日となった。Mさんは売店の自販機の前でコーヒーを飲んでいる。ひとりの後輩が彼に近づいた。そして、最近はやりの深夜番組の話を持ち出した。この深夜番組が好きだというのはすでにリサーチ済みだ。Mさんも笑いを交えながら話をする。その隙にMさんの背後へと一人の後輩が近づいていく。彼はこの日のために気配を消す練習を行い、またカンチョーの素振りを行い続けた。Mさんには及ばないまでも、かなりの威力を出せるまでになっていた。その後輩が3m、2mとMさんに近づいていく。他の後輩たちはその様子を固唾をのんで見守っている。いよいよMさんの背後にたどり着いた。一呼吸置いてから、その後輩はカンチョーの構えをした手を振り上げた。
「ギャー」
叫び声が食堂に響いた。しかし、その声の主はMさんではなく、カンチョーをした後輩だった。なぜ? 私たちは身悶える後輩の姿を見て疑問に思った。その時、Mさんがゆっくりと振り返った。その顔には人を見下し勝ち誇ったような笑顔を浮かべていた。そうだったのか。やつは全て気づいていたのだ。その上で後輩をおびき寄せて、けつ筋をこめてガードされた肛門にカンチョーをさせたのだ。なんて恐ろしい男なんだ。後輩たちはその人間とは思えぬ行いに体を震わせた。食堂にMさんの高笑いが響いた。結局カンチョーをした後輩は指に全治一ヶ月の怪我を負った。
その日からMさんに逆らうものはいなくなった。
クレ王国の王子ピノルの血を辿れば,現国王ピノロから,クレ王国の起源とされる,昔大河ちかくの小国群を統べた伝説的クオレー王国の宰相ピノロザまで遡れるそうだ。
さて,竜に攫われた許嫁エルコを助けるべく,15歳の王子ピノルはひとり出国した。
砂漠を隔てた隣の武闘国家ゼスターへ易しい考試を経て入り,剣術を学習,訓練して「“力”の剣」を得た。それだけでは竜を倒しがたいが,思索国家リアデガーの考試に落ちた。1ヶ月間に1回あるそれに12度目で受かり,3年間の酷な思索鍛錬ののち「“思弁”の剣」を賜った。
“思弁”の剣を得たピノルに,もはや恐れるものは無かった。強いと噂の二大守獣も,聖オクエ川まえの橋守り獣を倒し,3ヶ月かかって長い唯一の橋を渡ったのち,聖オリ山脈唯一のすき間まえの門守り獣も難無く倒したが,
「あなたの関係系は自己否定的だ」
「ひとは皆,多からずとも自己否定性を有する筈だ」
「単なる経験則だろう,それは。あなたの否定性が,物質的,非物質的とも冠しがたい『時間』に因るせいで,近き瓦解が宿命的なんだよ」
「時間? いや,しかし……,それは……」
思弁獣との抽象的論戦に敗れ,“思弁”の剣を失った。
失意の敗走だった。蘇生した行きの守獣はもはや倒せないので,竜の眷属が棲む聖オリ山脈,聖オクエ川を越えるほか無い。遠征で培われた知力,体力と“力”の剣をもって,それぞれ7年,3年かけて為しとげた。
見つかれば,逃げた罰で殺されるにしても,ピノルは故国へ還りたかった。国家間の道守りに見つからないには,おおきく遠回りして,匪賊と獣だらけの無法地帯を通るしかない。何度も獣に殺されかけ,賊に襲われた。入賊したアルコス団に身を売られ,流浪者に教わった嘘の方角へと荒野をさ迷い,砂嵐アガメナと死闘した。2年間連れだった流浪者スピアも,金,食料と失せた。……
ピノルがクレ王国の門前に至ったのは約50年後で,落ちぶれた姿に誰も王子だとは気づかず,“力”の剣もとっくに壊れていた。
心身ズタボロで,易しい故国の考試でさえ難しく,不正入国を決めた。
深夜,外郭壁を攀じのぼりきるも,力尽きて内へ落ち,老体を地に打ちつけた。見なれない場末の家並みを目に,王子ピノルは死んだ。
どぶ川を眺めてぼんやりしていると、背後に車の止まる音がして、男の声が続いた。
「お兄さん、お兄さん」
振り向くと、髪を短く刈った人の良さそうな青年が、黒い車の助手席側の窓から首を突き出していた。私は車には明るくないが、二十年以上前の型の国産車だろうと思った。
「なんです」
「この眼鏡、かけると妹が見えるんですよ。どうですか、五千円」
「もらいましょう」
私は一万円札を差し出した。
「毎度。はい、お釣り」
黒いプラスチックの眼鏡入れと五千円札を受け取った。慣れた手つきのようだった。
混じりっ気のない喜びの表明、妹好きが妹の話をするときの顔が、たちまち遠ざかっていった。
運転手の顔は見ずじまいだった。
家に帰って、眼鏡入れを開けた。濡れたように輝き、しっとりした感触を指先に伝える、黒縁のプラスチックフレーム。レンズに度は入っていない、伊達眼鏡だ。
かけてみたが、妹は見えなかった。私には妹はいない。生き別れの妹が云云という事情もない。
英国秘密情報部の略称はSISだから、あるいはそれを指しているのかもしれないと懸念して買ったのだが、どこを調べても、情報が隠されている様子はなかった。
このままではいけないと思った。青年をただの詐欺師にしてしまう。そんな悲しい五七五は、私の望むところではなかった。
眼鏡をかけて、椅子に深く腰をかけて、天井を見上げて、妹の輪郭を描くことから始めたわけだが、ここでいう輪郭というのは、一個の人格のそれ、外見であり、つまり眼鏡をかけた制服姿の妹が私の眼前におぼろげに構成されて、すると次に必要なのは、輪郭に重みを与える、性格であって、繊細な妄想が要求される難しい過程なのだが、しかし妹が一人とこの段階で決めつけてしまうのは拙速のそしりを免れず、これはあくまでも妹のひとつの可能性であると自分に言い聞かせる必要があり、またそうすることでこの妹の生き方が肯定されるという副作用があることも忘れてはならない、と考えているうちに、いよいよ妹も黙ってはいなくて、やだ、また一人でなんかブツブツ言ってる……とぼやいたから、これはもうしめたもので、今日もツンツンしてやがる、と軽口を叩こうものなら、はいはい、と平坦な口調に冷ややかな目、そして詐欺師は予言者に、世界は少し優しい場所に変わった。
翌朝にいれたインスタントコーヒーは、ひどく苦かった。妹が少し、部屋に残っていたのだろう。
周囲を二重の堀に囲まれ丸い、なだらかな草原地帯。中央には杜が、広葉樹の若葉が心地よく陽射しを遮り、差し込むヒカリは尚も銀色と輝いている。堀を囲むようにして建物が五棟、厳格なたたずまいを見せている。指針となる方角の三棟、これは国を表す意味で建てられたとか。残り二棟の、直線と直角で構成されたモダンなたたずまいは弧の対局にあり、指針の後方を守る砦の役目を果たす。
国を司る最小単位として、時には価値のないものの例えとして、また実際に無価値な扱いを受けることさえある。成り立ちは精密であるが、ナリの小ささ故、不憫な扱いを受けるのである。縁のある土地と同類扱いされ、在り合せの器にゴッタに束ねられ、しかしそれが大いに役立つのである。
ニソクサンモンとはひどく安い例えであるが、そのサンモンを現在の感覚に置き換えると三円ほどだそうだ。それは安いということであり、狭い、または小さいとは意味が違う。
草原を表とすると裏には静かな湖畔。中央からの波紋が草原と対を成す。表裏一体のこの空間は、いわばもうひとりの自分が住む世界とも言える。背中合わせではあるが、表と裏が交わることは絶対にない。しかしその存在を客観視できるのは、同じような世界が別に存在するからであり、もうひとりの自分がいるという仮説をたてるには十分過ぎる根拠を与えているからである。
湖面に広がる波紋は悪魔で均質で、湖中央には指針方向から後方へと長い島。カギ状の舟寄せが三カ所あり、一カ所は指針となる突端左に、あとの二カ所は後方左右に分かれ、いずれの場所も消波ブロックの役割を果たす。
すまない。これ以上の説明は無意味だろう。というか、作者は既にナゲヤリな気分である。読者に伝えるためにはもっと分かりやすく、いや、もっと端的に書く(直径二センチメートル、重さ一グラム、素材はアルミニウムでできており、日本国通貨の最小の価値を表す)べきであろうが、これが、一円玉の形状を例えた乱文であることを理解していただきたい。
「○○○、○○○、○○○、○○○、○○○、○○○、○○○、○○○、○○○、○○○、○○○、○○○、○○○、○○○、○○○、○○○、○○○、○○○、○○○、○○○○」
女性器の名を連呼する。
「あぁ、これじゃヘルスにも行けやしねぇや……」
動機ですか? 詳しくと言われても、どこから話せばいいんでしょう。ああ、出会いですか。奴とは、高校を出て最初に就職した会社で出会いました。奴は一つ年上で、いちおう先輩でしたから、言うことは聞くしかなかったんですよ。ジュース買ってこいだとか、タバコ買ってこいだとか、今思えば他愛ないことなのですが、そのときは嫌で嫌で仕方なかったんです。
十代のときの一つ年上って結構大きいんですけれど、二十代になるとそうでもなくなりますよね。知ってます? ビートルズっていたでしょ、そう、あのビートルズですよ。ビートルズが解散した理由は諸説あるんですが、ひとつにジョンはポールより一つ年上だったからというのがあるようですね。バンドの中では対等だとポールは思っていましたけれど、ジョンにしてみれば自分の方が年上だという自負がある。それで確執が生じたわけです。僕らもそうなんですよ。仕事も五年目になると、奴とは対等か、作業内容によっては僕の方ができるようになっていました。それなのに、いつまでも奴は先輩面してるもんですから、僕もムカついてくるわけでして、結局は六年目を迎える前に辞めたんです。
それが動機かって? いくらなんでも、そんなことで殺すほど柔ではないですよ。僕にも五年目に恋人ができました。生まれて初めての彼女でしたから、それは舞い上がってしまって、彼女のことを考えると仕事も手につかないわけです。そこでつまらない失敗をしでかしてしまうのですが、すると奴がいちいち文句をつけてくる。変則勤務でしたから、彼女とはなかなか休みが合わなくて、デートも一苦労だったんですが、しまいには奴が上司に言いつけて、休みを操作するようになってくるんですよ。わかりますよね? 彼女とは敢えなく破局です。これが辞めた大きな理由でもありました。そして、辞めてから三年たったあの日、街で偶然奴を見かけたんです。本当に偶然なんです。ハローワークの帰り道でした。奴はいつの間にか結婚していて、奥さんと、子供を乗せたベビーカーを引いてたんですね。
はい……そうです。その奥さんっていうのが、別れた恋人だったわけで。そりゃ、偶然出会ったとかあるかもしれないけれど、僕にはそうは思えませんでした。これまでの奴に対する憎しみが、ここで頂点に達したわけです。気がついたら奴は血まみれで倒れていた。ええ……憶えていません。たしかに殺したのは僕ですけれど。
サロンパス作戦というのはどうだろう?
いや別にトクホンだってかまわないのだけど。
作戦の中身は、こんなふうだ。
「あんな、悪いけど、背中にサロンパス貼ってくれへん?背中が凝ってんねんけど、場所的に自分で貼られへんねん。頼むわ」
と、夫の部屋に行き、サロンパスを貼ってもらうように懇願する。
夫は、しぶしぶながらもサロンパスを貼ろうとする。だろう。
そこで、私が大胆に背中を見せる。(当然だけど、この日のために背中のケアを日々入念にしておく)
夫は、悩ましげな背中を見て、欲情する。だろう。そのまま、二人は、めくるめく官能の世界に突入する。だろう。作戦は見事成功。○年ぶりの悲願達成。
と、ここまで考えを巡らせて、あまりのあほらしさにため息が出た。
だいいち、サロンパス作戦あるいはトクホン作戦が100%成功するとは限らないのだし。ものの見事に玉砕してしまった時のことを想像すると気が滅入る。
ただ単に、貼ってもらって終わり。となった場合だ。
凝ってもいない場所に貼られたサロンパスのヒリヒリした刺激に耐えながら、夫の部屋を出る時の自分の姿を想像すると、いたたまれない。
そんなにしてまで、そんなにしてまで、作戦を遂行する必要が果たして私にあるのだろうか?
たぶんあるのだろう。だって私はそうとうに乾いている。これ以上乾くとかなりマズいことになりそうな気がする。身も心も。
それにしても、夫の無関心には、毎度のことながら、気が抜ける。
先日。1年ぶりに美容院に行って髪をカットしてもらったのに、私が髪を切ったことにも全く気づかなかった。1年間伸ばしに伸ばしきった髪を、1年前の状態に戻してもらう長さまで切ったのにだよ。気づかないなんてありえないのに、夫は、あれほどすっきりした私の頭を見ても、顔色ひとつ変えず、普段と全く同じように接していた。
ありえなさすぎるけど、重すぎる事実だ。
1週間後にようやく、気がついた。
まじまじと私の顔を見て、驚いたように訊ねたのだった。
「あれ?あんた床屋に行ったか?」
と。
信じられなかった。
なんやねん?このあまりにも遅すぎる反応は!!
「何それ?この髪型、もう1週間になるし」
「まじ?それ笑える。全く気づかなかった。なんで気づかなかったのだろう?ふしぎ。」
と、夫は、両手を叩き、自分のあまりの気づかなさ加減に、ひとり受けていた。
情けないったらありゃしない。
夫ではない。
あほな作戦をあれこれ考えてしまう自分。
おはようございます、アリさん。本日はどこへ向かわれますか?
『エサが食べられるところ』ですね? わかりました。少々お待ちください。
ただいま検索中です……
ただいま検索中です……
……ルートが決定しました!
ご案内致します。まずは巣の方から北、20メートル先の草むらの中へ向かってください。草むらの中に入りましたら、そのままさらに北方向へ10メートルほど進みます。此方には巨大な葉で形成された自然のパーキングエリアもございますので、そこで休息を取られても良いでしょう。ところどころで葉上で日に輝く朝露が、貴方の喉の渇きを癒してくれる筈です。
パーキングエリアを通過されましたら、今度は15メートル先、東方向に進んでください。辺りは小規模な砂地となっておりますので、広大な草むらよりかは目印としてわかりやすいと思われます。
砂地に入りました。まもなく目的地『エサが食べられるところ』です。そこの凹みが、目的地となっております。
ピコーン!
目的地に到着しました。お疲れ様でした。
ししし。
ひらひら花っていってたの、あの子。家の近くにたくさん咲いてて。あの子その花が好きだった。
彼女はそう、細い声で教えてくれた。
四角い白い花びらが茎にひらひら繋がって咲くから、まるで白いリボンがたくさん風に揺れてるように見えるの。
あの子、その花を繋げて長いリボンにするのが好きだった。それがとっても上手で。器用だったのよ。彼女はかすかに目線を泳がせ、窓辺に置かれたその花を見た。
真っ白な包帯に包まれた自分の指を見つめる彼女に、大丈夫きっとよくなる元気になってくれよと、私はそう慰めの言葉を投げた。
次に彼女に会ったとき、彼女は面をつけていた。縁日で売っていそうな安っぽい動物の面。
どうしたのと尋ねると、彼女は低い声で囁いた。
顔を見られたくないの。こんな顔で笑えと言われたくないの。これならいいでしょ、ずっと笑ってる顔だもの。
動物の面は確かに口の両端を上げていたけれど、私はそんな彼女に酷く嫌な不吉を感じた。
そんな安っぽい笑顔が見たい訳じゃない、せめて君には笑っててほしいんだよ、僕の気持ちをそんなおもちゃで踏みにじらないでくれよ。
「じゃあわたしの気持ちはどうなるの」
叩きつけるような強い声が面の下から放たれた。私は驚き、言葉もなく彼女を見つめる。しばらくして、彼女が謝罪の言葉を呟き、部屋の空気は和らいだ。そうよねあの子の分もわたしが頑張らなくっちゃね。窓辺に飾られたいつかの花が少し萎びて俯いているのに気づかないふりをして、私はその場を立ち去った。
嫌だ死にたいあの子の側に行かせてと叫ぶ彼女も次第に次第に、枯れた静かな花のようになってきた。
「わたしやっと気づいた。あなたわたしに長く長く苦しんで欲しかったんでしょう。恨んでるのね」
そんなことないよと私は言う。彼女はもちろん信じない。視界の端で空の花瓶が目についた。
あの子が近くに来てるのが分かるわ。わたしももうすぐあの子の近くに行く。
そんなこと、させるものか。思わず手が出た。
彼女は爛れた顔をこちらに向けて涙を流す。その顔はまるで般若のようだった。
踏みにじるためにわたしを生かしておくのはやめて。強い拒絶に返す言葉は出なかった。
呆然として病院を出れば、例の白い花の一群が地面をさらさらと泳いでいる。
それはあの子が笑っているようにも、彼女に巻かれた無数の包帯のようにも見えた。
明日は彼女に新しい花を買っていこう。
男がタイツを穿くというのは、あまり格好のいいものではない。
日本国語大辞典で「タイツ」を調べてみると、
「防寒用として女性や子どもがはいたりする。」
と書かれている。また「バレエの際に使用」なんてことも書かれていたりする。単語の使用例に、三島由紀夫の『仮面の告白』の引用なんてのが出ていたりもしてしまう。
こんなんじゃ日本の男子はタイツなんて穿けたものじゃない。
しかし、今年の冬も寒い。背に腹はかえられない。僕がバチっと決めているジーンズの下で、大腿部からふくらはぎを掴まえて足首までぴっちりとした黒いタイツが実は収まっている。
もちろん色は白なんかじゃない。黒だ。それにこれは、一応アルペンで買ったスキーで使うスポーツタイプなんだ。しかし、僕はタイツを穿いている。それも誰にも見られないからと、白いティーシャツをインしてるのだった。
大学に仲のいい友人がいた。彼は女はもちろん、男にも好かれるいいやつだった。僕は男としては八〇点くらいだろうが、彼は百点だった。
僕はある時訊いてみた。
「なんでそんなに澄ましていられんの?」
「えっ、別にそんなことないじゃん?」
彼はまず流行に流されるということがなかった。いつも自分の趣味に合う服装、音楽、そして課題を取っていた。周りのみんなに好かれながら、その周りを気にすることなくいつも自分を保てる人間だったのだ。
僕はこのいつも隣にいる友人に対して、どこか羨望と劣等感を抱いていたのかもしれない。彼の強さの源は何なのか。
大学の課題も山場を迎えた師走の終わり、身に刺さる寒さも極めてきた。僕達二人は銭湯へ行くことにした。彼に誘われた時、今日も脚にぴっちりとしている黒タイツのことがよぎったが、ズボンと一緒に脱いでしまえばいいとそこまで気にすることもなかった。
僕達二人はカウンターでお金を払うと、脱衣場へ入って服を脱いだ。僕が上着を脱ぐ中、彼がズボンを下ろすと予期せぬものが目に飛び込んできた。彼の大腿部をぴっちりと包む、黒いタイツが目に入ったのだ。
僕はつい声を出した。
「お前タイツなんて穿いてんの!?」
「えっ、だって寒いじゃん?」
驚く僕をよそに、彼はしごく澄ました顔をして服を脱いでいた。彼はやっぱり百点の男だった。
僕はベルトをはずし、ストンとズボンを落とした。
「俺も穿いてる。スポーツ仕様だけどね」
銭湯の脱衣場で僕達二人は笑っていた。
香港の貧乏アパートは、天井から写真に撮るとシングルベッド二台分の面積しかない。半分は二段ベッド、残りは床とテーブル物置に使われる。フライパンで炒めたスパゲッティは所々焦げていて、香ばしいのか不健全なのか判然としない。
扉が長辺の側に付いていると、住人は出入りに苦労する。洟垂れの少年はいつもベッド側に身体を逃がすことを忘れ、一気に開けては壁との間に閉じ込められる。彼の兄は苦笑混じりに廊下側から一旦閉める。弟をベッドないし部屋の反対側へ呼ぶ。再び開けて外へ出す。ため息を吐いては貧乏を嘆き、漕げたスパゲッティを食べる。
高層階の一室を店舗に使う按摩師のベッドはやはり二段で、客を一段目で癒し、自分は二段目で寝る。雰囲気作りのためかベッドは壁から離れた場所に置いてある。おかげで扉は全開できない構造だったが、路線バスを参考に、グライドスライドドアへと改造して事なきを得た。
貧乏アパートとは言え、香港の建物は例外なく二百階を超える。最上階は大体ヤクザ者が住み着く。ペントハウスの場合もある。屋上にはヘリポートが備えられるが使用頻度は極めて低く、大抵は企業広告で埋め尽くされる。
中央アジアの集合住宅にヒントを得たのか、アパート同士を簡単な橋で繋いで行き来した者達もいる。警察や敵対組織から逃げおおせるためだという。しかし、隣のアパートに移ったところで飛び立つヘリがないものだから、最後は地上に戻らなければならない。必死の思いでビル間を渡りきった者は捕えられ、バランスを崩した者は悲鳴を上げながらビルの谷間に落ち、ビル風に煽られ、迷惑な死に方をした。
この一件を皮切りに香港ヤクザの間で流行した拷問がビル渡りである。最初は目隠しで歩かせる、手を縛る、縄一本掴ませバンジージャンプを強要するなど一応の手心が加えられたものの、間もなく、渡らせながら銃弾の的にする死刑へ変わった。
おかげで、高層アパートの周囲を歩く際は誰もが安全のために屋上を見上げ、血や小便よけに傘を持ち歩く羽目になる。
住民は文句たらたらだったがヤクザ者に逆らう勇気はない。
結局、管理当局を経由し、屋上に立ち入れぬよう建物が改造された。建設会社の作業員は高所作業に疲れ果てて次から次へ按摩師を訪れた。
按摩師がさんざ儲けて高級アパートへ引っ越す頃、洟垂れ少年はこっそり屋上に上がれなくなったと知り、スパゲッティをすする兄の膝で泣いた。