第127期 #7

ほっぺた

 道端の、日陰の多い住宅街の隅を歩くのが好きだった。昼間の仕事とは別の夜の副業のアルバイト仕事からの冬の帰り道、うすくてひらべったい小石を拾った。
 最初踏んだ。踏んだ時ににゅぐっとした感覚があってこれはなにかあるなと直感した。拾う。手触りなめらか。氷のように冷たいのに指の温度でもけして溶けないたしかな硬度。家に持ち帰り、オトシンクルスの水槽の脇に置いた。写真も撮った。フリッカーにもアップした。三一〇、一八〇、二六〇の水槽の横に直径五センチの楕円形。合う。直方体の水槽との具合がいいなと感心する。思い立って台所に行き、しまってあった鎌倉の古道具屋で買った宝尽くしがモチーフの豆皿を小石の下に敷く。これまで二五〇〇〇円の無用として扱ってきた皿が日の目を見た。きれいだ。それにしても人生だいきらい。
 汚れものバスケットを持ちあげ、洗濯機に衣類を入れ、回し、脱水し、干し、恋人が忘れていった黄色いレース細工縁のキャミソールを畳んでいると、最中に母親から電話がかかってきた。一〇年ぶりの会話だった。

 あくる日に、駅のそばに、地下を降りたところにたいへんミートソーススパゲッティのうまい、たくさん粉チーズをかけてよく俺は食べている、若い無口な女性の店主のいる喫茶店があるのだが、そこで母親と再会した。
「こんにちは」
「さようなら」
 母親と言えども女なのだから、水に浮かせていつのまにか消えていったトイレットペーパーのような父親の話を最初そろそろと、末尾においては割合強烈に、話し、そして最終局面ではすくなくない金の工面を、俺は請け負った。
 夜には恋人が現れてキャミソールを丁寧に洗濯したことに感謝を述べてくれて、母親の話をすると、一〇も上に歳の離れた俺の頭を撫でて、辛かっただろうねとどこかのテレビドラマで覚えたような反応を示し、それから泊まった。
 朝には寝坊助の恋人のほっぺたを足の踵であまやかに踏みつけた。水槽の傍らの小石を踏みつけた時の感触と同様の刺激があった。まるでこの恋人の頬の感触を小石が媒介して予知させてくれたのかもしれない、とさえ思う。
 俺の拵えたハムエッグとわかめときゅうりとレタスの盛り付けただけサラダにごはんと味噌汁で恋人は胃を満たして、お仕事だからと世間に旅立っていった。
 幸い俺は今日は世間の人にならないで済む日だった。
 とにかく勇気が出ない。突きつけられた要求を断るすべを知らない。



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