第124期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 凍えそうな夜に 末真 999
2 みんな死ねば良いのに 藤舟 571
3 七面鳥から目を覚ます 豆一目 997
4 俺が悪いのか? 上村夏樹 998
5 だいちゃん 東頭太古 335
6 恐慌の町 白熊 1000
7 ただいまゲルマン移動中 ツチダ 1000
8 非常事態 岩西 健治 938
9 鬼は外 澄子 993
10 公園のこと tochork 976
11 終末の過ごし方 アンデッド 996
12 殺し屋がいっぱい yasu 670
13 2025年のちゃれんじ だりぶん 997
14 赤色の傘 こるく 1000
15 断崖の家 Y.田中 崖 999
16 ベンチ 那賀川和雄 967
17 まつ毛 qbc 1000
18 きおくぶく 伊吹羊迷 999

#1

凍えそうな夜に

 時計の針は、11時をさそうとしていた。午後の11時だ。あたりは当然真っ暗で太陽のたの字も見当たらない。
 そして寒い。とにかく寒い。顔にぶつかってくる向かい風(冷たいを通り越して痛い)にあらがいつづけ、やっと家の前までたどり着いた。
 耳の感覚は既にない。自分で見ることはできないが、赤くなっているだろう。
 これはもう北風小僧のかんたろうレベルではない。冬将軍の御降臨だ。将軍様の御前においては、コート1枚の防御など装備していないのと同義なのだ。
 今日がこんなに遅くなるとわかっていれば、なにか対策を講じたのに。後悔にさいなまれながら、耳と同じく感覚のない指でコートのポケットから家の鍵を取り出す。
「うううう……」
 悪いことに、夕飯を食べていない。腹に何も入っていないので体力的にも精神的にも余計に寒さが身にしみていた。とりあえず玄関あけたら炬燵はいって暖かいご飯が食べたい。
「ただいま」
「あ。お兄ちゃんオカエリ」
 やっと吹きすさぶ風の抵抗からまぬがれ、ほっとしながら室内に入ると、台所に向かっていた妹が気がついてうれしそうに続けた。
「ちょうどよかった! 見てみて。今完成したの」
 ヒロミが示した先にあるものをみたオレは絶句した。あやうく手が出そうになっておし留めた。
 すらりと脚のあるガラスの器。プリン。チョコレートケーキ。カットオレンジ。バナナ。ホイップクリーム。ぎっしりと詰め込まれたバニラ、チョコレート、チョコミント、ストロベリー各種アイスクリーム。仕上げに、真っ赤な双子チェリーと、チョコレートソース。極めつけはチョコレートがけのプレッツェル。完璧に完全に豪華極まりないパフェがそこにあった。
「なんでだー!!」
 オレは外で凍えてかじかんだ手を懸命に握って訴えた。
「なんで、どうして、こんな……、こんな芯から凍えてしまうような夜更けにこんな完璧なパフェなんだー! なんでお前はそうなんだ! ああ、やっぱり答えなくていい! もうお見通しだ。どうせ「食べたかったから」で済ます気だろう。冬将軍に微々たる抵抗もできず身も心も無残にやられた兄をいたわる気持ちがひとかけでもお前にないのは、もうわかっているんだ!」
「ちがうよ、お兄ちゃん!」
 ヒロミが悲痛な声をあげ、ゆっくり首を横にふって続けた。
「パフェじゃなくて、プリン・ア・ラ・モード」
「どっちでもいい!」
 オレは涙をにじませながら炬燵に直行した。


#2

みんな死ねば良いのに

本当に思う。俺の嫌いなやつが全員死ねば俺は幸せなのに。
そんなことはないよ自分の嫌な人を排除していったって結局孤独になるだけで一時的に気分が良くても幸せにはなれない、なんて言うやつは嫌いなやつを殺した事があるのか? そもそも君は幸せを、至福を知っているのか?
じゃあ黙って読んて居るかさっさとブラウザの戻るボタンを押してくれ。
実際のところ我々はこれまで我々のとっても嫌いな人間を継続的に殺してきた。我らが死刑制度である。
それは「嫌い」とは違うんじゃないかって?
「社会的に生存価値が存在しない」と、大勢の意志と社会と文化による揺らぎを内包した「倫理」によって判断される反社会的な存在に対して公権力がその意志を代行し死をもってその罪を償わせるのが死刑制度である。
個人的感情の一側面とはそのスケールが異なるがそうはいっても、社会を構成する1億数千万人の価値観と感情にその本質が依拠していることは間違い無い。我々はこの世から自分の嫌いな奴らを排除して幸せを保ってきた。
2014年1月31日現在の死刑確定囚134名の救われべからざる魂。
だが今死刑制度が廃止されるに当たって、法が施行されるまでの2ヶ月と13日、俺は134人を一人も漏らさず全員殺すだろう。
これまで第475条2項を腰抜け共が守ってこなかったとしても俺からは誰も逃げられない、とここに宣言する。


#3

七面鳥から目を覚ます

「そんならあんたは、七面鳥が原因だとでもいうのか」

 警官の言葉に対し、椅子に座った男は困ったように俯いた。
 平凡な顔立ちをしたその男は、クリスマスの夜に臓物を体中に巻き付けて歩いているところを捕まった。
 当初こそ人々はこの悪趣味な振る舞いを嘲笑いもしていたが、それもそれらの臓物に行方不明の肉屋夫婦が混ざっていたことが分かるまで。
 男の家は警察によって速やかに捜索された。台所の中、分厚いカーペットの下、きっちりと閉じられた地下室への蓋を開けると、おぞましい勢いで腐臭が吹き出し、死体慣れした警官でも倒れる者が続出した。
 そこは足の踏み場もないほどに腐肉と骨で埋もれた地下室で、膝ほどの高さまでが肉で溢れていた。
 この腐肉が詰め込まれた室内で男は「楽しいひととき」を過ごしていたらしく、テレビとソファが腐肉に埋もれるように置かれていた。

「あの中ではどんな番組でも楽しかった。私はあれにたくさん話しかけました。幸せでした」

 生まれた時からほとんど誰からも相手にされずに育ったこの男は、一昨年の新年に、売れ残った七面鳥を肉屋の店主の「親切で」大量に押し付けられた。
 男はそれを使っていなかった地下室にしまい込み、そして一日の大半をそこで過ごした。

「不思議な優しい気持ちになりました。確かに、少し臭かったかもしれないけど、それでも部屋を出て体を洗うのは悲しかった。私はお金を払わずに誰かに何かもらったのは初めてで、それが何でだか泣きたいくらい嬉しかったんです」

 やがて肉が腐り溶けて減ると男は急に「寂しく」なって、肉屋に肉を買いにいった。買う量はいつもたっぷりと両腕に抱えられる程。店主は意外な上客の出現に喜び、再び「親切に」おまけした。

 買っても買っても肉は溶け減り、その度に買ってきた時より少なくなる。寂しさを覚えた男が肉を購入する頻度は次第に頻繁になり、とうとう店が売る肉を切らした今年のクリスマスの一月前、肉屋の店主とその妻は体中を刺されて男の地下室に投げ込まれた。

「あの部屋に肉が増えるのが、ただただとにかく、幸せでした」

 そうしてたっぷりと肉が増えたことに満足した男は、その肉を体に巻き付けて聖夜に躍り出るという暴挙に出た。

「あれは、なんだか急に幸せな自分を皆に見せびらかしたくなったんです。でも、誰かに見せつけるものじゃなかったですね」

 照れたように呟いた、それが男の最期の言葉だった。


#4

俺が悪いのか?

 ――バンッ!

 死を想起させる、銃声に酷似した衝撃音。
 大地が大きく揺れた。
 かろうじてアイツの攻撃をかわした俺は、後ろを振り返り、全速力で逃げる。力強く地面を蹴り、風を追い越して、アイツとの距離を保つ。
 しかし、アイツの執念は生半可ではなかった。俺との間合いを素早く詰めては、何度も俺めがけて凶器を振り下ろす。そのたびに、振動が俺の体を伝い、胸の鼓動を加速させる。
 アイツは憎々しげに俺を睨みつけた――殺意を、たっぷりと含んだ双眸で。
 ――なんだよ……なんなんだよ! 死にたくねぇ、死にたくねぇよ!
 迫りくる死を振り払うように、疲労困憊した足を必死に動かした。それでもアイツは俺を追いかけてくる。死神の明確な殺意は、絶えず俺を襲ってくる。
 足が重たい。だが、俺の中に芽吹く生に対する執着心は、鈍る足を加速させた。
 俺は死角を探す。見渡した限り、都合よく隠れられそうな場所はない。悲鳴を上げる足の痛みに耐えながら、俺は死角を求めて狭い通路を目指した。
 ――見つけた! あそこを右に曲がろう!
 曲がった瞬間、身を潜めよう。息を殺し、アイツがいなくなるのを待つんだ。
 一縷の希望が見えてきた。不思議と足が軽くなり、疲労も痛みも和らいでいた。
 嬉々として、俺は右の道に入る。
 ――はあっ、はあっ……そ、そんな……。
 俺は立ち止まり、絶望する。
 眼前には白い壁。隠れる場所なんて、どこにもない。
 もう、逃げ場はない。
 後ろを振り返り、視線を上に移す。
 アイツが俺に凶器を叩きつけようとしているのが、視界に入る。
 終わった……俺の人生。
 思えば、いつも死と隣り合わせだった。
 だけど、今から死ぬ――死の臭いが纏わりついただけの、たったそれだけの、つまらない人生だった。
 どうして?
 俺が何かしたか?
 殺されるようなことを?
 死んで償わなければならないほどの罪を犯したか?
 俺の人生って、何なんだ?
 忌み嫌われて。
 何度も殺されかけて。
 死ぬために生まれてきたようなものじゃないか。
 誰か教えてくれよ。
 俺が悪いのか――

 ――バンッ!

 ――ぶちゅん。

「やっと当たった……って、うわっ! 床が汚れちまったじゃねーか! あーあ、これも汚れちまったな」
 若い男は、振り下ろしたスリッパを、まるで汚物を摘まむような手つきで、ゴミ箱へ放り投げた。
 ――床には、潰れたゴキブリが体液を撒き散らし、無残な姿で息絶えている。


#5

だいちゃん

 僕には兄が居て、両親からは「だいちゃん・けんちゃん」という愛称で呼ばれている。
 僕には癖があり、トイレにて用を足したときは、たとえ小便でも水を流す。
 そんなある日、学校から帰ると、自宅の居間にて兄が腹から血を流し、死んでいるのを発見した。
 死因は大量出血だと。
 犯人はまだ捕まっておらず、兄が亡くなったショックでだろうか。最近母の物忘れがひどくなった。点けているテレビの電源を消し忘れたり、携帯電話をどこに置いたか忘れたり、晩御飯を作っている最中、今自分が何を作ろうとしているのか忘れたり。正直、困っている。
 僕はため息をついて、小便をしようとトイレへと向かった。
 用を足し終え、母の元へ向うと、そんな僕の姿を見、一言。

「あれ?けんちゃんって、水流す癖無かったっけ?」


#6

恐慌の町

 廃壊し、人気のなくなった町の、砂塵が吹きつける中を、ケビンは歩いていて、この地を去る前に、彼は一本のギターを手に入れたいと思っていた。これからの、どこへ辿り着くのか知れない移動の先々で、彼は人々を和ますギターが欲しいと考えた。しかし本当は、自分が和まされたくてギターが欲しいと思うのだ。
 砂塵に塗れ、日差しと乾燥した空気にいぶられながら、一日働き続けても、その日を凌ぐには足りない賃金しか手に入らない。一言彼らに物云えば、代わりは他にも居るのだと胸を突かれ、その手を退ければ、何だお前は、赤か赤かと問い詰められ、赤ではないと答えれば、だったら働け、鍬を持つのだと急き立てられる。人々は仕事を求めて、家具をトラックの荷台に積んで、西へ西へと移動していた。
 人気のない町に、誰に乞うのか物乞いが、道路の脇で蹲(うずくま)っている。物乞いは砂塵に吹き晒された、黄掛かったシーツで身を包んでいた。地面に置かれた灰皿には、一セント硬貨が四枚と、五セント硬貨が二枚、埃と砂に塗れていた。横から見える老父の頬は、白い不精な髭に覆われている。
 ケビンが前を通り掛かると、男はむくりと顔を上げ、灰皿を掴んでは前に差し出した。
「じいさん、俺と一緒に西へ行くかい」とケビンは尋ねた。男の目はうつろ気で、暫く眼の前の彼の姿を見つめるが、彼の手がポケットへ伸びていかない事が解れば、また首を擡げてもとの格好へと戻っていった。
 路の前方から叫び声に似た物が聴こえてきた。
「神よ! 我を! 大地を! たァたァえたまえ!」
 鶏のような陰が、砂埃の向こうに見えていた。茫々に伸びた白髪頭と、頭上で合わせた両の手を、老婆は激しく振っていた。色褪せたスカートから伸びた脚は、常に着地点を見誤っているように、ふらふらと地面に落ちるため、今にも転びそうだった。
「神よ! 我を! 大地を! ……ううぅ」
 足を縺れさせた老婆は地べたで呻いた。
 物乞いは老婆をじっと見つめていた。老婆は目端に入った二つの陰と、壁の小穴から覗かれているような視線に気付くと、
「何見てんだい! この碌でなしの穀潰しの、エロジジィ!」
 と声をあげ、また祈祷を繰り返して歩いて行くのだった。
 物乞いは、何も聞こえなかったように顔色を変えず、もとの形に蹲っていった。物乞いの周りは誰も居なくなった。ケビンはどうしたかって? 彼は顔を赤くしながら既に去って行ってしまったよ。


#7

ただいまゲルマン移動中

やあやあ俺も突然過ぎるが、過ぎると言うならむしろ北村暁の短編の方が続き過ぎではなかろうか。なんとなく長く続きそうな人柄ではあったが、まさかここまで続けるとは。ここまで続くと初期のメンバー、何人か死んでないか? 久遠さんとか死んでるだろ肥満体だったらしいし。京木倫子とか黒木とかもきっと死んどる。妄言王なんか真っ先に死んどるだろうな自宅で首を吊って。

そしてゲルマン民族一同はただいま移動中である。一同、と言っても大半の者は血に染まるであろう今回の行軍に反対し残ったから、ただいま移動中なのはゲルマン民族総数のおよそ5分の1の武闘派集団だ。ちなみに残った者たちは、武闘派集団が集落を去った途端に周囲の潜伏民族に攻め込まれ、男は惨殺・女は姦殺の憂き目に会い全滅しているから、つまりはただいま移動中の一同が地球上に残るゲルマン民族全員だ。
しかし彼らの先行きは危うい。何しろ全員、イケイケの武闘派である。集団とはイケイケ3のマテマテ2、つまり三歩進んで二歩下がるといった具合でないと長続きしないものだが、このイケイケ10の御一行は、集落を見つけるや全員が我先にと襲撃し、命乞いしようが子供が泣こうが基本皆殺し。金品食料は徹底的に略奪。建造物丸焼き。若い女は連れ去られ延々と輪姦……と、思いきや御一行にはゲルマン女もいて、わざわざ敵の女を率先して刺殺撲殺絞殺してしまうから、結局草木一本残らない。
そんな後先考えぬ荒っぽい集団が、後の世に「大移動」と称される程の長期移動を無事故で成し遂げられる筈もなく、それはもう些細な喧嘩から全員参加の殺し合いまで、実にリーダーの首がすげ替る事100日で101回という有様の末、

今のリーダーはハーケン。

たまたまハーケンクロイツのハーケンだが、もちろんヒットラーが現れるのは1000年以上未来の話だ。ハーケンとはゲルマン伝統の惨殺用一本串の名称。吸血鬼ドラキュラのモデルとなった串刺し公が、酒の肴に美女を串刺したというひどいアレだ。
ハーケンは異例の長期政権を築いていた。ただいま五日目。過去約100人のリーダーは、ほとんど寝首を掻かれ殺されている。人間寝ない訳にはいかないのに、寝ている時が一番無防備という矛盾。丸三日ほど不眠で頑張った者も居たが、不眠を続けるほど反射神経も落ちてきてやっぱり殺されやすくなるというこれは必然の話で、ごめんな未だに尻切れで送信する癖が抜けなくてさー


#8

非常事態

 小川のバイト先では賞味期限切れになった食材の処理に困って、店頭に出せない有り余る食材をバイトや社員全員で分配して持ち帰ることとなっていた。
 二日前の避難勧告により食材の流通は既に全面的にストップしており、とてもひとりで食べきれる分量ではなかったのだが、廃棄するといっても既に廃棄処理用のトラックまでもが止まっている状態で、かといってこのまま店内で腐らすこともできず、それでも小川ひとりで運ぶといってもしかし量が多すぎて、まぁ、出所はさておき、ただ飯、ただ飯、焼き肉パーティーでもやろまいと、普段、小川とつるんでいた町田と加藤とが運び屋として呼ばれることとなったのだった。
 小川いわく、僕の家の冷蔵庫はデカイからと、そのとき僕は家にいなかったのだが、智子が景気よく冷蔵庫をあけ渡したおかげで小川と町田と加藤とが運び入れたダンボール箱に入った食材は、見事、我が家の大型冷蔵庫に保管されることとなってしまったのだった。
 その後、帰宅した僕に智子は、小川たちとのやり取りを身振り手振りを交えて話すのであったが、正社員の岡村さんがそのダンボール箱を自転車の荷台にくくりつけようとして、事務室のビニールひもを無断で持ち出し、しかも全て使いきってしまって、さんざん頑丈にダンボール箱を自分の自転車の荷台に結びつけた挙げ句、そのダンボール箱の重さにバランスをくずし、難なく転倒してしまったというのだから飽きれてしまうではないか。
 岡村さんが膝を少し擦りむいたのはいいとしても、アスファルトにまき散らされた食材をつぶれたダンボール箱に戻すのは無理な様子だったので、そこに居合わせた小川と町田と加藤とで食材を移し替えた手提げ袋を、その手提げ袋も実は事務室から借用したらしいのだが、岡村さんの自転車のハンドルに左右均等にひっかけ、もちろん、前かごにも食材を詰め込めるだけ詰め込んで、それでも溢れ残った食材は小川たちが引き取ることとして、結句、我が家の冷蔵庫に納められたという、僕にとってはどうでもいいような話をまるで智子が自分で体験したかのように話すのであった。
「岡村さん、岡村さんって、智子、岡村さんのこと知らんだろが」
「いいじゃん、そんなん。それよりいつやるのよ、パーティー、や・き・に・く」


#9

鬼は外

 ぼくの家には鬼がいる。鬼はいつもぼくをなぐる。蹴ってくることもある。
 ママは鬼になぐられて顔をはらしているぼくに驚くと、いつも優しくなでてくれる。
 鬼は優しいママの前ではいつも姿をみせなかった。だからぼくはそれが鬼だとは思っていなかったし、そのことをママにいうこともなかった。
 それが鬼だと知ったのは、二月三日の節分のときだ。
 学校で、先生がみんなに言った。どこの家にも鬼がいて、今日はその鬼を退治する日だって。
 あれは鬼だったんだ。ぼくはそう確信した。
 先生は、鬼を退治するためには豆をぶつけるのがいいといった。
 ぼくは先生が配った豆の入った袋を握りしめて、それで家にいる鬼をやっつけようときめた。

 家に帰るとママは家にいて、テレビを見ていた。 
 ぼくは袋に入っていた豆を取り出し、その背中にぶつけて鬼を退治しようと、手を振りあげた。
 鬼はママに化けているんだ。優しいママにとり憑いているんだ。
 鬼はそと。
 鬼はでていってしまえばいい。
 そして、ぼくに優しいママを返して。
「あら、こうちゃん。帰ってたの?」
 だけどママが振りむき、ぼくはその手をとめてしまった。
 今日は優しいママだった。その目に、顔に、表情に、どこにも鬼はいなかった。
 でも鬼はきっとママの中にひそんでいる。油断したところに、ぼくをいじめにくるんだ。
 今のうちに。ママがぼくに笑いかけているうちに。
 この豆が当たれば鬼は出ていって、ママは鬼を退治したぼくを、きっと抱きしめてくれるんだ。
 だけどそのとき、どうしてだかおそろしい考えが、ぼくの頭をよぎった。
 ――もし。もしも。
 ちがったらどうしよう?
 この手をふりさげて、それでもなにも変わらなかったら。
 ぼくは思いっきり頭をふって、その考えをふりきった。
 出ていってしまえばいい。 
 ぼくがママを信じられなくなる心なんか。
 鬼とともに、きえてしまえばいい。
 なのにぼくの手は、どうしても動かなかった。
 目の前にいるママが、小さく首をかしげた。
「なあに、宏太。どうして泣いてるの?」
 ぽたり。
 つよく握りしめていたと思っていた手から、豆がこぼれ落ちた。
 ぱらぱらと、落ちていく音が、ぼくの耳にとどく。
 だけどそのときいっしょに落ちたものが、なんだったのか。
 もうぼくにはわからなかった。
 ねえママ、鬼はどこにいるのかな。


#10

公園のこと

 もぐもぐ。
 んくんく。

 暗くなった公園で二人きり、絵理といっしょにシュークリーム食べているなんて、クラスの奴らに目撃されたら袋だたきにされそうだな。絵理はまるでアニメの中のヒロインみたい、口の端にクリームをつけていた。
 それだけでかわいさ二割増しなのに、それに気づかずシュークリームを食べ続けてるんだからいい。これでいま絵理の口に消えているシュークリームが四つ目でなければ、せめて三つ目なら完璧なんだけれど。そう思うと、教えてやるのもなんだかしゃくなので、放っておくことにした。

 絵理が五つ買っていたシュークリーム。ひとつしかもらえなかったから手持ちぶさたでしょうがない。くわえて、食べる量だけはそこらの野郎よりも多いくせに、その速度だけはしっかりと女の子なのはどうなんだろう。
 しょうがないので、僕は何とはなしに空を見上げた。
 ちょっと冷たい、夏だからこその心地よい風が吹いていた。僕の髪の毛が風でふわりふわりと揺れるのと同じリズムで、木の葉が上へ下へシーソーみたいにそよいでいる。その上には、お月さまと星。遠くでのんびりと光っている。目を細めれば、懐かしい世界を感じられる。
 ふと気づいた。地面と空のあいだに電線がない。
 はじめて知ったな。ここは、当たり前にある。だけれども珍しい、大切な場所なのかもしれない。
 風が吹き抜けていく。
 絵理のロングヘアがさらりとはだける。
「ん、どした?」
 視線に気づいたのか絵理が視線をぼくへ移してくる。やっぱりクリームがついている顔を、少し傾けて不思議そうにこちらを見つめている。
「いや、なんでも。ただ、この公園には電線が張ってないから。住宅街なのに珍しいよな」
「そう言われてみるとそうやね。電線があるのことがもう当たり前やから、意識していないことの方が多いかもなあ」
「ちょっといい場所なんだな、ここ」
 半分ぐらい独りごちるようにはき出すと「そうやなあ」と横から同意の声をもらった。
「身近にちょいとステキなところを見っけると穏やかなしあわせに浸れるよね。
 アタシも中学に入ってはじめての買い食いでシュークリームを食べたら感動したわ」
 僕は少しいじわるになったのかもしれない。
「それでクリームくっつけてるのか」
 折よくもたなびいた髪が貼りついていた。絵理に脇腹を殴られた。
 痛いけれど、それさえ悪くないとおもった。


#11

終末の過ごし方

 ここは妹の部屋だが、エロ漫画に囲まれた今の俺にはハーレムに等しい。エロの山を眺めては至福の気分に浸る。
 二次元は最高だ。多種多様であらゆる女が揃っている。好きな時に鑑賞し拒まれる事もない。
 ともあれエロ漫画は一日にしてならず。弛まぬ蒐集と研鑽あればこそ。そして妹の部屋は物置となった。
 俺は西日が差す窓を何気なく見る。窓際に女が立っていた。黒のニーハイと太股が目に飛び込む。
「笑顔は人間の特権だよ」
 女は笑顔で言うと周囲を見ながら近寄ってきた。薄紺の長袖ニットシャツの上から解る豊かな胸とハーフプリーツのミニスカが揺れている。
「こんにちはお兄ちゃん。漫画一杯あるね」
「先程の笑顔云々は人間だけ笑うって意味かい?」
「うん。漫画見ながら笑ってたから」女はニコっと笑い「読んでいい?」と聞いてきた。俺はどうぞと答えた。
 核爆発後おかしな人間が増えている。今朝は学校で女教師が突然乱交というニュースもあった。原因は再生目的で各地に設置された装置の影響、そんな噂もある。はたまたどこかに異能者がいて超常的陰謀の最中とか。ちなみに妹は核爆発で死んだ。エロ漫画を読んでいるこの子は妹ではない。
 いや本当に妹なのかも。俺の頭がおかしいなら女が正気なのか俺が正気なのか妹が誰なのか、そもそも何が正しいか判断出来ない。
 女は粛々とエロ漫画を読んでいた。女のVネックから覗く白いブラウスと柔肌を見た俺はふと思った。残った人間は幽霊なのかもしれない。自分達は世界の残響だと感じる。
 ――エロ漫画を閉じた女が俺を見つめて言う。
「ねえ、私達もしない?」
 女が体に纏わりつき手足が絡まる。匂いを嗅ぐかの様に背後へ回られ、大きな胸の感触が腕から背中へと移った。背後の女が耳元で囁く。
「辛い記憶でもないよりある方が良い?」
 俺は無言だった。答えは永遠に出ない。
「世界が消えても君は突っ立ったままだね」
 物悲しげな声。背中で感じていた重みがふっと消える。女は俺から離れて窓際へと立ち、窓を開けた。
 俺は喉の奥から必死に捻り出す。
「君の名は?」
 女は振り返って泣き顔で笑った。
「私の名前は愛。いつも側にいるよ」
 そして愛は窓の外へと飛んだ。
 俺は窓際に駆け寄る。愛の姿はどこにもない。あるのは四階から見える街並み。
 窓枠へ手足をかける。今ならまだ間に合う気がする。
 俺は叫びながら飛んだ。
「I Can Fly!」
 愛に届く様に。


#12

殺し屋がいっぱい

「本当に殺し屋なんですか?」
 目の前にいるこざっぱりした男が、闇社会で蔓延る裏稼業を請け負っているとは到底思えなかった。
「ワタシが手を下す訳ではございません。実行するのは、なるべくターゲットの近くに住んでいる一般の方です。当社の場合は、ペーパードライバーの主婦が多いですね」
「ペーパードライバー?」
 思わず聞き返したのは、あまりに殺し屋とは似ても似つかぬ単語が耳に飛び込んできて拍子抜けしてしまったのだ。
「当社は交通事故を装って、ターゲットを死に至らしめるのです。自動車運転過失致死傷罪なら七年以下の懲役、百万円以下の罰金で済みます。酷い過失を問われないように、事故後すぐに通報します。決して逃げたりしませんから逮捕されることもないので、略式起訴、五十万円の罰金になるはずです」
「そんなので大丈夫なんですか?」
「ええ。万が一起訴されて懲役刑が科せられては成功とは言えません。ですから、当社は主婦のお小遣い稼ぎの感覚でやってもらっているのですが、一人が実行するのは一回限りとしています。初犯になりますから、執行猶予が付くんです」
 小遣い稼ぎで人殺しをさせることに違和感はあったけれど、そもそも殺人を依頼しに来ているオレが言えることではあるまい。
「当社のシステムは御理解いただけたと思います。さて、御依頼主様のターゲットは何方になられるのでしょうか?」
「殺して欲しいのは、妻でして......」
 そう言いかけて、鞄から数枚の妻の写真を出してテーブルに並べ立てた。
「この方は!」
 妻の写真を見た男の顔からは、すっと血の気が引いていくのがわかった。


#13

2025年のちゃれんじ

 群青の海を白くかき分けながら、フェリーの船首は真っすぐと島を指して進んでいく。こうやって生まれ故郷の島を外から見ることがなかったから、海風に混じる潮の匂いに懐かしさを感じる一方で、自分のいた世界の狭さを改めて考えさせられた。
 人口は百人に満たない上に、その半分が六十五歳以上といういわゆる限界集落の島で、生まれてから中学生になるまでの十二年間を私はここで過ごした。小学校の生徒は六年間ずっと私一人きりだった。しかし、私は寂しいと思ったことはなかった。私には友達がいた。それは島の大人や先生ではなく、きちんと「同い年」の友達だった――。

 2025年、行政が過疎地に対して試験的に導入した「サポートアニマルロボット」政策。もはやこの国で減る一方となってしまった若者の代わりに、働き手や介護を必要としているお年寄りに様々な動物の姿を模したロボットを送り込み、その地域を活性化させる、というのが目的で、その実用性と運用性の調査も兼ねていた。そして、その一環として私の小学校にも三体のロボットが送り込まれた。虎型と鳥型に、そして羊型――。彼らは子供用にデザインされたらしく、とても愛くるしい姿をしていて、身長も小学校の児童と同じくらいだった。私は彼らと一緒に授業を受け、放課後も暗くなるまで遊んだ。そう、六年間ずっと一緒だったのだ――。
 
 ある日、小学校の恩師の先生から同窓会の案内が届いた。卒業して二十年が過ぎていた。私が最後の卒業生として島を離れた後、彼らも別の過疎地を転々と移動していたらしいが、それも技術の進歩に徐々に取り残されていくと、やがて旧式となっていった。そして何年も電源も入れられてない状態で、もう少しでお払い箱になるところを先生が引き取ったらしい。『久しぶりに電源を入れる事が出来そうだから、戻ってこないか?』とその短い経緯に添えて書かれていた。
 そして今、昔と変わらない教室で先生の前には三体のロボットが並んで座っている。綺麗に磨かれた後とはいえ、やはり時代の傷はあちこちに残っていた。
「メモリーが残っているかわからないけれど……」と言いながら、先生は電源を入れた。うーん、と伸びをするような起動音が聞こえた後、ぱちぱちとそれぞれが目を覚ました。三体はもう大人になってしまった私を見ている。しかし、とても優しい眼差しだった。そして口が開く。
「――やあ、久しぶりだね。元気だった?」


#14

赤色の傘

 凍えるような灰色の朝に、霧のように細い雨が降り注いでいた。仕事場の工事現場で、ヘルメットを濡らすその雨に男は空を仰いだ。空の一角に少しだけ明るい場所があって、多分その向こうには太陽があるのだろう。それは酷く幻想的な光景で、まるで古い映画のワンシーンのように男には思えたが、後ろで鳴り出した掘削機の無粋な轟音が男の空想を掻き消した。

 昼過ぎまでの仕事だったので、作業着から私服に着替えると男はその足で近所の喫茶店へと入った。珈琲と軽食を注文すると煙草に火を付け、ようやく人心地がする。窓の外は未だに雨が降り続いていた。
 隣席の消え入るような弱々しい話し声に男はちらりとそちらを見た。制服姿の華奢な女子高生と中年の男が向かい合って座っていた。こういう光景を見ると男にはどうにもやましい想像しか湧かなかったが、男が女子高生を呼び捨てで呼ぶことから親子であろうことが想像された。お前から母さんにどうにか頼んでもらえないか、と中年の男が続けた。どうやら金の無心らしい。
 女子高生は両手を膝の上に置いたまま、少し俯き、真一文字に口を結び、父親の話を聞いていた。その健気な姿にこれが一度や二度で無いことは男にも容易に想像が出来た。父親はお構いなしに話を続ける。時折見せる娘への見せかけの労わりや、自身の不甲斐なさへの言い訳が、父親を余計に小物に見せていた。恐らく父親がそれに気付く日は永遠に来ない。
 父親の話が一通り終わると娘は立ち上がり、学生カバンから茶封筒を取り出し、机の上へと置いた。はじめから男はわかっていたのかもしれない。申し訳ないな、と言いつつも素直にそれを受け取った。しかし、娘は冷えた目で何か言いたげに父親を見下ろしていた。
「それは」
 娘が口を開く。
「私が私を売ったお金です」
 ぽかんと口を開けたまま制止した父親を横目に娘は店を後にした。
 暫くして、我に返った父親は恐々と封筒の中に入った一万円札の束を確認した。そして、はじめは忍ぶように、次第に嗚咽を上げ、机に突っ伏して泣き始めた。店中の誰もが何事かと父親の方をちらちらと見ていた。
 ふと窓の外に視線を感じ、男はそちらを見た。先ほどの女子高生が物陰から父親の姿を見ていた。男と目が合った。彼女は困ったようにいたずらな笑みを浮かべて見せると、そのまま軽快な足取りで街へと消えて行った。灰色の雨の中で、遠ざかる赤色の傘だけがキラキラと輝いていた。


#15

断崖の家

 ストーブがぴーぴーと耳障りな音を立てた。灯油が切れたらしい。
「あたし入れるよ」
 妹の千代子がテレビに釘付けのままで言う。岩場で犯人が自らの罪を告白しているところだった。「まあええわ。炬燵入っとればそんな寒ないし」と言うと、そうねえ、と気のない返事をする。
 犯人が逮捕されて後日談が語られ、役者の名前が映される。千代子は欠伸をひとつしてから肩を抱えて震えた。
「やっぱり寒いわ。入れてくる」
 俺は冷めた茶に口をつけながら、立ち上がる千代子のうなじを眺めていた。灯油缶を片手に玄関へ向かう。「溢れさすなよ」声をかけると彼女は笑った。「子供やないんやから」
 千代子は実の妹ではない。母の従姉妹の義理の娘だと、先日聞かされたばかりだった。

 叫び声に居間を飛び出る。鼻をつく異臭。三和土が灯油まみれだった。だから言ったろ、俺は玄関のドアを開ける。夕暮れ時の冷たい風が吹きこむ。灯油はドアの下の隙間から外に染み出し、光を反射して虹色に輝いていた。
「流しちまおう」
 洗面器で水を汲んできてぶちまける。虹色が押し流され階段を下っていく。切り立った崖のような下り階段の先は、波しぶきを上げる海に飲みこまれている。夕日のせいか海は血のように赤黒く見えた。すると下っていく水も千代子の溢れさせた灯油もだんだん赤みを帯び、俺は自分が何を洗い流したのかわからなくなった。
 しばらく二人で茫然と外を眺めていたが、千代子がくしゃみをしたのでドアを閉めた。

 ストーブをつけて炬燵に潜りこむ。蜜柑を剥きながら「二人とも遅いな」と呟く。すると千代子は「二人て誰」と怪訝そうな顔をした。
「誰て、父さん母さん」
 途端に千代子の顔が引き攣った。視線を落とし、そうねと小さく答える。
 どうしたん、と言いかけて俺は目を見張った。彼女の不安げな横顔が一人の女のそれに変貌していた。短かった髪が伸び、瞳は艶っぽい憂いを宿している。柔らかく美しい体の線。やがて目元や口元に皺が刻まれ、頭に白髪がまじり始めた。背が曲がり、瞳が白く濁っていく。
「千代子」
 喉から出た声はひどくしわがれていた。蜜柑の皮を剥きかけた指が、丸めた紙のようにくしゃくしゃだった。
 千代子が顔を上げ、心配そうにこちらを覗きこむ。
「たか兄」
 その顔は元通り十二の妹だった。
「指、どうかした?」
「なんもない」
 変なの、と千代子は少し笑った。部屋が暖まってきても俺の震えは止まなかった。


#16

ベンチ

 ――文中の★印は、無視して読み進んでください――

 時は昭和から、平成の代へ移り変わる頃。場所は京都・洛北の紫野の一角である。某大学の若いA講師は、バス停でバス待ちに退屈をしていた。ところが、急に(おや★!)と目を見張った。
今どき珍しく着物を着た男性の老人が、杖を突いてよぼよぼと、近くの公園に現★れて来★た。一見、九十歳前後。体は大柄だが、ややガニ股で、少ない総髪風の白髪を秋風になびかせ、今にも倒れそうな格好で前かがみにや★って来る。
一向に進まぬ足を運びながら、老人は何やらぶつぶつと口の中でつぶやいている。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」と唱えているのだろうか。ここは一休禅師で有名な大覚寺にも程近い。元は出家か、悟りを開いた人なのかもしれない。が、★そろそろお迎えも近い人では?
老人の歩みは超スローペースだ。杖を頼りに、左右の足を交互に引きずり、少しずつ公園の落葉を移動させているような歩き方である。一体、どこへ行★くのか。目的地はまだなのか。見ているだけでももどかしく思われた。
老人が、公園★の一隅に置かれたベンチの方へ向かう。休憩をしようとするのか、そ★こには放置状態の、古い木製のベンチがあった。だが、まだかまだかと見ていても、なかなかベンチまでたどりつけない★。
腐りかけたベンチだ。付近には、雑草も★生き生きと繁茂している。しびれが切れる程の時間が経過し、やっと到着した。老人は早速、そのベンチにどっかりと腰を下ろした。途端に、大きな音と共に、一気にベンチが壊れた。尻もちをついた老人は、仰向けに倒れた。
二度と立ち上がれないかと見えた老人のどこに、そんな力が★蓄えられていたのか、彼は杖を頼りに立ち上がった。見事に立ち上がっただけではない。意外や、年齢に似合わず、壊れたベンチを蹴ろうとしたではないか。これは体のバランスを崩して失敗したが、続いて彼は手にしている杖を振り上げた。と見ている間に、腐ったベンチを思いっきり叩きつけた。同時に、大きな怒鳴り声を発した。
バス待ちのA講師は、その言葉を聞いてたいへん驚いた。一瞬、耳を疑ったのである。

〔作者注=ここで問題です。この老人は何と言ったのでしょうか? 当ててみてください。正解は、本文の終わりから初めへ、★印の次の字(計11文字)を拾い読みしていただければ分かります〕


#17

まつ毛

 美人がいる。きのこを採りにきた山男はそう思って草陰に隠れた。女は薄いシュミーズだけの姿で、胸や太腿の盛りあがりが見えた。山男は勃起した。
 しばらくすると女は姿が見えなくなった。山男は川縁に行って射精した。川下にはメスの狐が水を飲んでいて、折悪くその舌で子宮の入口を舐めたから妊娠して子供が生まれた。人間の子供だった。
 子供はみるみる成長して青年になり、腹を空かして山を下りて村に入った。小さな女の子と出会った。女の子が言った。
「困っていらっしゃる」
 飢えた人を見て救いの手を伸ばさない人などいない。女の子は青年を家に連れて行き、家の人は外の仕事で誰もおらず、自分で食事を作って青年に与えた。青年はありがとうと言ってそのまますぐ老人になって死んだ。
 女の子は悲しんだ。家の人が戻ってきて女の子の話を聞くや驚いたが、女の子の心に同情して異訪人を弔ってやった。火葬にする間際、女の子は亡骸から四本のまつ毛をはさみでジョキリと切り、それから母親からもらった赤いスカーフの隅もジョキリと切り取って、一緒に木綿の袋に詰めて口を麻糸で縛った。女の子は、自分の枕元にそれを置いた。三日三晩経つと、中から醜い蛙と若い男が出てきた。
 男は四本指だった。
「まつ毛を四本にけちるから」
 男に言われて、女の子は恐ろしくなった。女の子は慌ててまだ眠っている父親の所に行き、まつ毛を切って男の手に添えた。
 男の指は五本になったが、父親の金遣いの荒い性格まで男に移った。男は一緒に生まれた蛙に贅沢をさせて、たちまち女の子の家は貧乏になった。女の子は両親から叱られた。そこで女の子は川縁に男を誘い出し、男を川に突き落とした。蛙は踏みつぶした。
 川下の村には女の子の姉が住んでいた。姉は女の子とは父親違いで年が離れており、結婚して離婚してそのままその村にいた。
姉は、新品の靴を履いていたので、よく足元を見ていて、川の中に男がいるのに気づいた。
 姉は男の怖い話を女の子からの手紙で知っていた。姉は川から上がってきた男に言った。
「待っていてください」
 姉は、村中の人たちからまつ毛を切って分けてもらい、掌一杯ぶん集めた。そして男にそれを振りかけた。男からにょきにょき指が生え出し、すぐに男は倒れた。指は神経がとてもたくさん通っている器官だった。だから指がたくさん生えると体内のもっと大事な神経を働かせる力がなくなり、男は死んでしまった。


#18

きおくぶく

 九番ホームに北斗星がゆっくりと入ってくる。電光掲示板には「寝台特急」「札幌」の赤字。いかにもな人がいかにもなカメラで何枚も写真を撮った。ドアが開いたが誰も降りてこないし、誰も乗り込まなかった。北斗星はその古臭い青色をした身体を小刻みに震わせながら、出発を待っていた。
 乗っちまおうかな、といつも考える。詳しくは知らないけど、券なんて中でどうとでもなるんだろう。乗れば札幌に行けるのだ。きっとたくさん雪が降ってるんだ。こっちとは比べ物にならないくらい寒いんだ。普段から使っているホームから札幌行きの電車が出るというのはなんとも不思議な感じがした。乗っちまおうかな、とまた考えるけど、考えるだけだ。結局一歩も動かないままドアは閉まり、ゆっくりゆっくりと北斗星は加速を始める。半分くらいまで下ろしたカーテンの隙間から小学一年生くらいの男の子が手を振っている。小さく振り返すとお母さんが困ったような笑顔で会釈をしてくれた。目だけで会釈を返す。北斗星は速度を増す。どんどん見えなくなっていく。二人と出会って、別れた。
 北斗星は行ってしまった。残ったのはいつもの寒々しいホームだけだった。僕はまだ、時計台くらいしか知らない札幌のことを考えている。いくら丼でも食べてみたいな、とか。
 しばらくして進入してきた通勤快速の窓、真っ白に濁っていて中が見えない。僕はなんとなく理科で使った石灰水を思い出す。それと一緒に中学校の理科室、授業中に熱した試験管に水を入れて割ってしまったことも浮かんでくる。僕はわざと試験管を割ってしまったわけではなかったし、班員も先生もそれは分かっていた。だから特に責められるようなことはなかったけど、なんだか自分がもう二度と取り返しのつかないことをしてしまったような、大切な何かを駅のベンチに置き忘れてきたような、正体のない焦りが、後悔が、苦さが、なぜかこの思い出にはある。
 こんなふうに記憶のあぶくはいつだって急に意識の底から浮かんできてははじけて、ふんわりとした匂いをその場に残して消えていく。お風呂でするオナラみたいに。
 そういえばその日の給食にはプリンが出たんだった。じゃんけんに勝って、試験管割ったくせにと悪気なくチクリと刺されながらも二つ食べたからよく覚えている。あの蓋は開けるとき、ビビーッと独特な音がする。電車のドアが開く。今日はプリンを買ってきて早く眠ろう。そう思った。


編集: 短編