第123期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 はらから 乃夢 428
2 年賀状の作り方 末真 999
3 終わりの始まり qbc 1000
4 長蛇の列 霧野楢人 1000
5 面と向かって石を投げよ 豆一目 997
6 唐揚げ 岩西 健治 966
7 モノクローム 白熊 1000
8 ピンクのガーター・ベルト なゆら 809
9 月に泳ぐ だりぶん 938
10 天井わらし Y.田中 崖 1000
11 あなたはつけてあげない 朝飯抜太郎 938
12 こるく 1000
13 ストローベイルガーデン キリハラ 1000
14 『さよなら二十世紀くん』 吉川楡井 1000

#1

はらから

彼は窓もドアもないぽつぽつと散らかった部屋で目覚めた。
よう、やっと起きたか。傍らの猫が厭らしく嗤いながら言った。

「とは言ってもこれはお気楽長編小説ってわけにゃあいかねえ、しがない物書きの1000文字小説さ。アンタはそんな下らない物語の結の為に部屋に閉じ込められたんでさあ、同情するぜ」
猫はニヤニヤと笑んだ表情に悦を交えながら流暢に話した。
「すると俺がここから脱出することは」
「ああ、それなんだがなあ」
くいくいと、猫が顎で部屋の中央を示す。スイッチが二つ寄り添って落ちていた。
「あれは片方はアンタの愛する妻と子供を、片方はアンタを殺すスイッチさあ、まあ大体読めてただろう?好きな方押してくれや、どっちにしろわっちにゃ関係ねえ」
「…雌か」
「へえ、何の話」
無関心にそっぽを向く猫の横を通り過ぎて彼はスイッチを両手に構えた。
「最期に言いたいことはあるかい」
「だから俺は猫が嫌いなんだよ」
「そりゃあお門違いってもんさ」
「糞ったれが」
彼は二つのスイッチを同時に押した。


#2

年賀状の作り方

 ガシュガシュガシュガッシュ
「ヒロミ、もう年賀状書いたか?」
 炬燵に座る妹に、俺は声をかけた。
「んー、まだ。お兄ちゃんは?」
「俺もまだだ」
 ガシュガシュガシュ
「まあ年賀状の事はいいんだ。それより今、兄ちゃんが言いたいのはな」
「なに?」
 ガシュガシュガシュ
「このお鍋が嬉しい季節になんだってお前は、カキ氷なんて作ってるんだってことだ!」
「え? 食べたかったから」
 俺はありったけの理不尽を叫んだ。妹の返答はにべもなかった。出来上がったばかりの白を緑に染める彼女に、躊躇というものは微塵もなかった。
「今は冬だ!」
「その考え方古いよ。今は炬燵でアイスが常識なの」
「炬燵の上でガシュガシュかき氷作るほどは今の常識もぶっとんでねえよ!」
「お兄ちゃんはイチゴでいい?」
 いつの間にかカキ氷をもう一つ作り上げて、ヒロミが聞いてきた。これに俺は即答した。
「ああ。カキ氷はイチゴだ。他のフレイバーは言語道断だ」
「そーいうことばっか言ってるから彼女いないんだよ」
「か、関係ないだろ!? お前こそ、夏の主役を冬眠から叩き起こすなんて悪魔の所業をする女、彼氏できねーぞ!」
「そんなことないもん。いつかこのカキ氷の上に、ツリーの上の星みたいにキラキラの指輪をのっけて、メリークリスマスって言ってくれる人と出会う確信があるもん」
「さむ! いろんな意味で!」
「ひど! 乙女の夢を否定するなんて、聖夜にバチがあたるよ!」
「正直者にバチはあたんねーよ」
「配慮に欠ける人間に慈悲があたえられると思ってんの? そんなことよりさ、年賀状ほんとどうしようかな」
「そんなに悩むことか? ただの挨拶状だろ」
 さらりと痛烈なことを言われた気がしたが、とりあえずスルーする。ヒロミは眉根を寄せて年賀状について悩み始めた。
「もっと、こう、インパクトが欲しいの」
 インパクト。そんなのヒロミの季節感クラッシュで十分だ。年始の挨拶にまで衝撃を求めて一体何をどうしたいんだ。そう考えて、俺はふと思い当たった。
「コレ、写真とって年賀状にしろよ」
 炬燵の上のカキ氷機と涼しげなガラス容器に盛られたカキ氷。衝撃は俺が保障してやる。
「えー? インパクトあるかなあ」
「ある。間違いなく」
 少々納得いかないながらも一応デジカメを取りに行った妹を見送って、イチゴのカキ氷を食べながら。
「さむ……」
 もしもヒロミの理想の男が現れたら、全力で関わらないようにしようと誓った。


#3

終わりの始まり

(この作品は削除されました)


#4

長蛇の列

 十二時に始まる新機種の発売を行列の中で待っていると、前に立つオヤジのところに女の子がやってきて親しげに話し始めた。
「やあ、さっきはどうもね」
「お菓子おいしかったよ。ありがとうおじちゃん」
「お母さんは見つかったかい?」
「うん。お母さんも、ありがとうって」
 僕は彼らがどのようにして出会ったのかを察した。僕は寝坊したから列の最後尾に近い位置にいたのだが、前に立つ彼はそれよりも前からここに到着していて、本当はもっと先頭側にいたのかもしれない。迷子の女の子に敢えて列から外れて手を貸そうとしたのは、この長蛇の列の中でオヤジだけだったのだろう。
 子供は駆け去っていく。その先に母親の姿は見えなかったが、そのまま子供は雑貨店に入っていったので、きっとそこで待機しているのだと思われた。母親自身が御礼を言いにこないのはおかしなことだ、と思っていると、きょろきょろと周りの視線を気にするように首を回していたオヤジが僕を見る。
「おい、今のお嬢ちゃん、可愛くなかったか」
 そう質問を投げかけた事がすぐに恥ずかしくなったのか、彼はヒッヒと笑って雑貨店とは反対方向の雑踏に顔を背けた。街は冷えている。熱を奪われたというよりも、冷たさが沁みこんでいてどうにも寂しい景色だった。僕も所詮はその一味だから、無視しようと思えばできたのだろう。だがオヤジがそっぽを向いてしまうと、なんだか自分の寂しさを許せなくなった。
「可愛かったですね」
 そうか、とオヤジは嬉しそうに笑った。僕も彼と同じほうを向いてみるが、彼が何を見ているのかは分からない。何かを見ているわけではないのかもしれない。
「あの子、俺の子かも知れねぇなぁ」
 僕はオヤジの顔を見た。オヤジはまた恥ずかしそうな笑顔を浮かべていた。「顔、似たもんだなぁ」と、夢でも見ているように呟く。ただしもう、雑貨店のほうを振り向こうとはしなかった。そのうちに子供と母親は外へ出てきたのかもしれない。母親がどんな女性であるか、僕はとても気になった。知り合いでもなんでもないオヤジの、知り難い人生に触れられるからだ。だが僕も親父と一緒の方に向き直り、そのまま振り返る事はなかった。そのほうが、温かい気がした。
 十二時を回り、発売開始の号令が響く。頭がわらわらと動き出す。オヤジは新機種を買ったらまずそれを使ってギャルゲーをプレイするのだという。寄寓なことに僕も同じだった。僕らは笑い合った。


#5

面と向かって石を投げよ

 窓のない四畳ほどの狭い部屋の中で、中年女性がばばばばと言葉を捲し立てている。

「あのねあなたね私に悩みを解決してほしいのかただ悩みを聞いてほしいのかどっちなのよ私はあなたのママンじゃないんだから何もかもあなたに合わせてあげたりはしないしあなたがいつまでもそんな態度だからいつもあなたは30分しか面会時間をもらえないわけお分かり?」

「うふふ分かりました。あなたって素晴らしい肺活量お持ちですのね」

「馬鹿にしてんの!」

 怒声と一緒にきしゃんかしゃんぱこーんと音を立てて食器が飛ぶ。それらは全て軽くてぽたっとしたプラスチック製であり、思いきり叩きつけたところで鏡一枚にヒビすら入れられないものなので誰の心配にも及ばない。

 中年女性は床に落ちた皿を拾い上げ、再び目の前の相手を睨み付ける。

「あんたの悩みはなんなのよ聞くわよ聞きます私の仕事だものね嫌だけど仕事だからね仕方ないわねそれがねほらいいなさいよ早くさあ早くあともう5分しか残ってないわよ」

 いらいらと右手首の時計を眺める中年女性の動きに合わせ、相手も左手を口元にやってくすくす笑う。

「そんなぷんぷんしないでくださいな。同じことをお願いしてるのよ。私、ここから出たいの」

「無理ねあんたみたいなやつは世の中には出られないようになってんの世の中はね人並みの人のためのものであんたみたいにまともじゃない人間は自由なんかいつまでももらえないの、よ」

「なぜ、どうして。私が、まともじゃないだなんてあなたに分かるの?」

「なぜって!私に分かるかって?あんた馬鹿なこと聞くわねそれはあんたが」

 中年女性と、向き合う相手が一歩ずつ距離を詰めた瞬間、女性の背後で部屋の扉が開き、制服を着た若い男性と年配の男性が顔を覗かせた。

「はい、いいですか。30分経ちましたよ」

 年配の男性がそう告げた瞬間、中年女性はふっと気の抜けた顔になる。そのまま食器を持って踵を返すと、すたすた部屋を出ていった。

 若い男性はそれを呆気に取られたように見て、部屋の中を眺めて、それから救いを求めるかのように年配の男性に振り返った。

「なんか、すごいおばちゃんですね。一人で30分も捲し立てて」

「まあね。しかし君もすぐ慣れるだろうさ」

 年配の男性はそういって、中年女性が開けっぱなしのままにしていった扉を静かに閉めた。


 窓のない四畳ほどの狭い部屋の中には、古い姿見が一枚、しんと立ち尽くしている。


#6

唐揚げ

 彼女はお昼の唐揚げを僕の前に差し出した。
「まずいのか?」
 意図が分からず、僕はつっけんどんな言い方になってしまう。
「ううん、多過ぎ」
 彼女のお昼はおにぎり二個と唐揚げのパックだった。
 僕は透明パックに入った唐揚げをありがとうとも言わずにほおばった。可もなく不可もなくといった味がした。アブラが染み過ぎているのはいたしかたないだろう。
 減らすなら炭水化物かも知れなかったが、昨今のダイエットブームに流された意見のようで、何となく言い出しにくい僕に会話の糸口は見つからなかった。
「まずいのか?」
 彼女は僕を覗き込むような仕草で言い放った。
「まずくないと思う……」
 本当はこんなんじゃない。ありがとうとか、うまいとか、笑顔とかあるはずじゃないか。同じクラスなんだからもっとしゃべりたいんだよ。なにやってんだろう僕は。と、僕は僕を客観視して一人芝居を興じる準備をする。
「ほい」
 彼女は唐揚げの入ったパックをさらに僕の前へ突き出した。僕は無言のままで唐揚げをもうひとつほおばった。

「まじで?」
「ううん、何でもないから」
「とも子ってそんなん趣味だったっけ」
「ほっとけっつーの」
 自慰に似た僕の一瞬の高揚のあとも見ずに、彼女は何事もなかったかのように女友達との会話へ自然と流れていった。
 彼女とは席が前後であって、それ程長くはない彼女の髪からときどき流れてくる石けんの香りは気になっていた。この香りを嗅ぐと僕は、石けんに小型の洋式ナイフを刺したイメージを想像した。想像は一瞬で消える。このイメージに何のメッセージがあるのかは分からなかったが、映像がなくなったあと、僕は決まって股間がしびれて下腹に力を入れた。

 屋外に面した窓の外は雨だった。屋外といっても隣のビルの外壁が景色を遮り、見えるのは灰色のコンクリート壁のみだった。その壁に雨の筋が音もなく染み込んで、濃い灰色と薄い灰色の層を形作っていた。とても無秩序な灰色の層だったが見ようによっては髪の長い女の横顔にも見えた。
 一番後ろの開け放たれた窓からは押し殺された空気さえも入ってこない。立方体に充満した空気の固まりは行き場をなくして豆腐のようにプルンとしている。

 空の見えない教室はごったな匂いに包まれたまま、お昼休憩の終わりを告げるチャイムが鳴った。
 雨。体育祭中止。午後からは通常授業。


#7

モノクローム

 マイケルは白か黒かと踊り叫んだ。メディアは彼を黒に戻そうとした。彼は白でも黒でもないんだと答えた。赤は、色の無い世界では明るさによって白くも黒くも写る。
 華奢な体に大きな外套が合っていない。錆びれたカメラ屋の前で水溜りが乾いていた。煉瓦畳の隙間に、七角形の五十ペンスが立っている。それを見付けて拾い上げる。ブリタニアの顔に付いた土を拭う。カメラ屋のウィンドウにはライカが並んでいた。

 天国があったら目を細めて見てやるんだ。そうすれば眩むことなく真実が浮かび上がるだろう。

 地獄があったら目を開いて見てやるんだ。そうすれば暗闇の中でも確かな物語を見付けられるだろう。

 街にそびえ立つ塔は、何よりも暗い影を街に落としていた。平たく曲がりくねった赤煉瓦の道。影は霧の街を突き刺していた。
 外套とハンチング帽は亡くなった父の物だった。目深にかぶった帽子から赤い頬が覗く。その上に粉吹く白い跡。バラバラに伸びた赤毛の髪。

 “明暗を、穏やかなまでにたくましく捉えるそいつで、この世の全てを曝してやりたい。”

 ライカのウインドウに握ったコインを投げ付けた。「ガチッ」とコインとガラスのぶつかる音が響いた。ウインドウには、小さな跡を残しただけ。転がったコインが向けた面にブリタニアはいなかった。
 拾い上げた煉瓦をウインドウへ投げ付け、カメラとフィルムを奪い走った。誰も見ていなかった。人の手がすぐに今、どこからか伸びてくるような気がしてとにかく走った。
 路地裏に逃れて、手にしたライカにモノクロフィルムを装填する。白い息が掛かる。呼吸は収まろうとしない。寒さで頬が痛い。肺が痛い。頭が熱い。手が震えている。ぐるぐる、頭の位置が定まらない。足が浮いているようで、眩しい。何回か、両膝に力を入れる。
 音も無く、知らぬ間に近付いていた赤色。真っ赤なコートを着た女が立っていた。こちらに憂いの瞳を向けていた。
 瞳孔の開いた目に一面の赤は白く写った。女性の口元が動く。気付けば自分の方に手が伸びて来ている。その時、耳には何の音も届いていなかった。頭の動顛は抑えが利かない。
 のどを開く。のどの振動だけが体に感じる。肺をふり絞る。自分の声も耳に届いていなかった。拾った煉瓦で、伸びる手を振り払って、頭を殴り付けていた。
……顔色が悪いわよ。だいじょうぶ?……
 倒れた女。赤煉瓦に染みゆく黒い血溜まり。その中に雪は降っては溶けた。


#8

ピンクのガーター・ベルト

錯乱したのだ。
そして部長である自分の普段届かない心の奥の扉をノックしたのだ。
きっかけなど覚えとらん。少し飲み過ぎたことと、若い網タイツの女の足が太く、網が皮膚に食い込み気味だったこと。女の太ももを押さえつけているあのタイツの凶暴さがわたしに噛み付いた。何かがはじけとんだ。打ち上げ花火のようだ、と私は思ったよ。ひゅーっと小さな火種が上昇する、高いところ、私の中のかなり高いところで火種は炸裂した。光のパレードだ。赤や青や黄色、鮮やかな光が縦横無尽に動き回る。少し遅れて聞こえてくる炸裂音。私は七色に照らされ、鼓膜を破られ、脳幹をやられた。もうとまらない、とめられない。すぐにトイレの個室に駆け込んで、鞄の中からガーターベルトを取り出して、履いたよ。もちろん、ズボンを脱いだ状態で、少しきついぐらい、引っぱられたわけだ。ガーターベルトはね、常時持ち歩いている。いつ何時必要になるかわからないからね。現にこうして持っててよかっただろう?他にもちゃんと一式持ってるよ。ミニ・スカートも、ブラジャーも、ブラウスもね。次々取り出してはそれを身に付けた。夢みたいだったよ。口調もね、私、から、あたし、にかわってしまってね、あたし、きれい?なんて鏡に話しかけてみたりした。ああ、すでに個室はでているよ、私は共有スペースに出ていた。無意識のうちにね。鏡に映った姿は、お世辞にも綺麗とは言えなかったけれど、どこかしら可愛らしさがあった。ちょうどね、身に付けたガーターベルトはピンク色で、それが色白の私によく似あっていたんだ。自宅では何度も身に付けていたし、当然その姿を何度も見ていたわけだけどなにか新鮮でね、私は思わず微笑んでいたんだ。その時トイレに入ってきたのが、部下の野口くんで、私の姿を見て言葉を失っていたが、言い訳などせずにね、さらに微笑んでやった。野口くんも笑ったよ、それですっかり打ち解けてね、でその、野口くんが今の彼です。


#9

月に泳ぐ

 黄色い背表紙の図鑑を手に取れば、知らない世界が待っていた。
 シロナガスクジラの大きさなんてピンとこなかったけど、ゾウやキリンと比べられた絵を見ながら、体長三十メートルの大きさを想像してみたりもした。五十メートル走の白線を校舎の上から眺めて、あそこからあそこまでくらいかなって思い描いてみたけど、本当にそんな巨大な生き物がこの世にいるのなんて信じられなかった。星の図鑑もそう。肉眼では見えないけど、この空の上、そのさらに上には巨大な球体がいくつも浮いている。夜になれば、月を見ることは出来るけど、それだって遠い彼方にあるらしい。父親の天体望遠鏡をこっそり借りて星も覗いたこともあったけど、月よりはるか何光年先から青白い米粒みたいな光がやっと届いてきてるのが見えただけだ。図鑑にそう書いてあっても、本当は宇宙に大きな電球がたくさん浮いてるんじゃないかって疑いたくもなった。


 市の予算縮小で来月閉めることになった児童館の本を整理していた。ぼろぼろになった角やくすんだ表紙を手にとって眺めてみる。ここにいた子ども達と同じように持っていたはずの好奇心はいつの間に消えてしまったのだろうか? その代わりにこの歳になって新しく知りはじめることは、全てが細かくてシステマチックでつまらない。
「ちょっと休憩にしませんか?」
 一緒に作業していた同僚に言われ、児童館の狭いグラウンドが見える縁側に並んで腰をかけた。自動販売機で缶コーヒーとお茶を買う。
「ねえ、このグラウンドの端から端までどのくらいの長さかわかる?」
 冷えきった手のひらを缶コーヒーで暖めながら、同僚の彼女に聞いてみた。
「……さあ、三十メートルくらいですか?」
「そんなにはないな。多分、二十五メートルくらいだよ」
「どうしたんですか?」
「図鑑を見てたんだ」
 そう言って『水の生き物』と書かれた表紙を彼女に見せて、それを渡した。まだよくわからないと首を傾げながら、彼女はぱらぱらと図鑑をめくり始めた。
 冬の澄んだ空気の中、昼間なのに空には白く月が出ている。夜に見えるそれとは違って昼間の月は何だか抜け殻みたいだった。グラウンドから少しはみ出した尻尾を持ち上げると、そこに向かってシロナガスクジラがゆっくりと泳いでいくのが見えた気がした。


#10

天井わらし

 熱を出して学校を休んだ。ベッドに横になって天井を見ていると、薄闇の中にふっと白い顔が浮かび上がった。おかっぱ頭の女の子だった。蝙蝠のように逆さになって体育座りしている。右手をひらひら振ると、無表情で左手をひらひら振り返してくる。変な夢だなと思った。しばらく見つめ合っていたら消えてしまった。
 それから、たびたび女の子が現れるようになった。決まって私が部屋に一人でいる時だ。二度目に会ったとき裸でいることに気づいて、古い寝間着を恐る恐る差し出した。渡した瞬間ひやりとした冷気が指を伝い、思わず手を引っ込める。ピンク色の寝間着はみるみる灰色に変わった。
 私は女の子に色々なものをあげた。お菓子はチョコのかかったビスケットが好きらしい。マンガはぱらぱら捲っていると思ったらなくなっていた。座敷わらしという妖怪を知り、女の子に名前をつけた。「天井にいるから天井わらし。略して天ちゃん」。女の子は首を傾げた。

 私は夜が苦手だ。電気を消して布団にくるまると、ドアの隙間から大きな影が潜りこんできて私を押しつぶす。体は紙のようにぺちゃんこになって動かせない。目の前は真っ暗で耳も聞こえない。
 やがて、目が暗闇に慣れるように周りがぼんやりと見え始める。影はいない。時計の秒針の音が聞こえて、ようやく体が厚みを取り戻す。それでもまだひどくだるい。まるで自分の体じゃなくなってしまったみたいだ。
 私はベッドに横たわったままで右腕を持ち上げる。天ちゃん、と呼ぶと、暗い天井から白い腕がすっと下りてくる。手に触れる。指先から肌の色と体温が失われていく。じわじわ痺れるような感覚に安心して、眠りにつく。

 よく晴れた日の午後、私は窓から外を眺めていた。女の子が現れ、天井に膝立ちして窓を覗きこむ。
 遠くに校舎が見える。もう長いこと行ってない。一日に何度も眠るようになり、起きていても自分がぬるい膜に覆われていて、色々なものが遠すぎて掴めなかった。
 気がつくと私は窓枠に腰掛け、足を外に出してぶらぶらさせていた。風が冷たくて心地いい。女の子も逆様で隣にぶら下がった。手を繋ぐ。私の手は女の子と同じくらい白くなっていた。
 空には雲ひとつない。鳥が数羽並んで横切っていく。気持よさそうだなと思って、私は飛んだ。つられて女の子が窓枠から離れる。ぐんと上へ引っ張られ、私は体から剥がされた。
 二人はどこまでも広くて高い空へと落ちていく。


#11

あなたはつけてあげない

 君は、ぬか漬けが好きだったね。いつも君は台所に屈みこんで、黒く長い髪を邪魔そうにかき上げながら、嬉しそうに、キュウリや茄子を漬けていた。

 家中が臭かったよ。でも僕は君を愛していた。
 いつの間にか、台所も、リビングも、寝室も、客間も、僕の書斎さえも、家中の部屋の床下には、ぬか床があった。それを僕が知った時、君はいたずらっ子のように舌を出したね。それだけで僕は最高にハッピーだった。

 いつだったか、浴槽にぬか味噌を満たして、そこに首まで入ってたことがあったね。ぬか床風呂健康法なんて、出鱈目な名前をつけて。
 あのときは驚いた。だって、帰ってきたら君が脱水症状を起こして倒れているんだもの。体の水分がほとんど抜けるまで、ぬか味噌に浸かっていた君の、ぬか漬けへの愛には嫉妬すら覚える。

 それでも、ぬか床をかき混ぜている君は、子供のように邪気のない笑顔で、それでいて美しかった。その華奢な体には、信じられない程のぬか漬けに対するエネルギーが詰まっていて、それが眩しかったんだと思う。僕はそんな君をよく後ろから抱きしめた。君は驚いて、でも笑いながら僕の顔にぬか味噌を塗りたくった。僕は、それが君の最高の愛の表現だとわかっていた。

 君は言ったね。
「あなたは漬けてあげない」
「どうして?」
「私を漬ける人がいなくなるから」
 
 君の最後の頼み、僕は喜んで引き受けたよ。君が笑うのがとても好きだったから。でも、本当に哀しかったよ。とても、とても。とても、とても、とても、とても……。

 君が居なくなって、家は火の消えたよう。僕の心と同じでどこか冷えている。
 ぬか床も、今はこの一つだけになってしまった。

 でも君のいない長い長い夏が終わって、やっと秋になった。君に会える。

 蓋を開けると、プンとぬかの匂いがしたよ。君の匂いだ。懐かしくて、嬉しかったよ。
 僕はキュウリが嫌いだったけど、君の漬けたキュウリは好きだったよ。だから、もしかして、君の事をもっと好きになっているかもしれない。楽しみだなあ。

 ぬかを、掻き出して、掻き出して。子供の頃に戻ったようだよ。
 君と出会ったころのことを思い出すよ。確か、あのときは砂浜で、君を探しに行って……。

 ああ。

 ああ、見つけたよ。
 お帰り。


「ただいま、あなた」


#12

 帰省先へと私を乗せて走る列車の車窓から、街道沿いに植えられた木々の紅葉が見えた。そう言えば、もう秋も終わるのか。どうにも都心で過ごしていると季節の流れから取り残されているような感覚に陥ってしまう。季節という名前の艶やかな宝石が放つ、久しく知ることのなかった懐かしい眩しさをやけに新鮮に思う。

 三回忌だった。母の遺影を前に親戚たちが一同に会する。久しぶりに会った父や兄たちは少しも変わった様子も見えないけれど、挙動の端々に彼らを確実に捉えつつある老いの存在が見え隠れした。
「そう言えばえっちゃん、今四年生なんでしょう?働き口は見つかりそうかね」
 親戚の叔母さんが私に訊いた。思わず私はギクリとする。
「まあ、どうにかなるよ」
「お前のどうにかなるは一番信用ならんからなあ」
 既に赤ら顔の兄が笑いながら言う。つられて父も大笑いする。私は不貞腐れたように少し声を荒げて繰り返す。
「どうにかなるって」
 そう言ってから、その言葉を自分の中でもう一度、確かめるように小さく呟いた。

 座を抜け出し、幼いころに母に連れられてよく行った公園に一人出掛けた。人影は無い。小さな池の前のベンチに腰掛けて煙草に火をつける。
 昔、この池には大きな鯉が何匹もいて、食い入るように眺めたものだった。しかし、今見てみるとそこにはたった一匹の姿しか見えない。丸々と太った立派な鯉が悠々と泳いでいる。一体残りはどこに行ってしまったと言うのだろうか。
「あいつは残されちまったんだな、ここに」
 ふらりと背後からやって来た見知らぬ初老の男がそう言い、私の隣にどすんと腰掛ける。
「もうすぐ、冬が来る。その前にお役所が池の鯉を皆とっ捕まえて、どっかで冬の間保護しとくんだわ」
 と、男がこちらに手を伸ばして来た。説明のお礼とでも言うのだろうか。仕方なく煙草を一本渡して火をつけてやる。
 確かに言われてみれば、その池の鯉は何だかやけにさみしそうに見えた。私たちに気が付いたのか水面に顔を出し、一心不乱に口をパクパクとさせている。しかし、生憎私は投げ入れる餌を何も持ってはいない。このまま忘れ去られたこいつは冬を越せずに死んでしまうのだろうか。不安になった。
「まあ、姉ちゃんや」
 ふう、と美味そうに煙を吐きながら男が言う。
「どうにかなるんだよ」
 チャポチャポと鯉は水面を波立たせ続ける。私はもう一度、自分の中でその言葉を繰り返す。

 どうにか、なる。


#13

ストローベイルガーデン

 藁は年を越さない。
 モビールや帽子、衣服に仕立てて冬の収入に充てる地方が多いけれど、私の村は多少事情が違う。
 収穫祭が終わると、担当家の庭に藁が集まる。家長が門前に立ち、一人一人、丁重に礼を言っては、てるてる坊主形にまとめられた藁を受け取る。家人がそれらを庭の端から一定間隔で立てて行く。
「お母さん、重いね」私は言う。
「火をつければ軽くなるわ」
「煙臭くなるかしら」
 母はにっこりと被りを振った。
 庭の三分の一が藁人形で埋められる頃、私は季節外れの瑞々しい汗をかいている。藁の温かみか、儀式への昂りか。
 藁束には一本ずつ、魔除けの植物が入っている。ヒイラギもあればローズマリー、珍しいところではドラセナ・マッサンゲニアを使う人もいる。どこから持ってくるのだろう。
 私はシチュー用のローリエを多めに買っておいて、余った分を我が家の藁坊主に突っ込んだ。
 夕日は枯れた葉と共に落ち、夕飯のありがたみを増す。父は収穫期の鬱憤晴らしとばかり、毎晩飲みに出かける。朝方戻り、お土産の酒を藁の頭に掛け、軽く拝む。母も夜、自分のココアに一匙だけブランデーを混ぜる。
 秋から冬にかけては殆ど雨が降らない。畑は子供達に踏み荒らされながら土作りの冬を待つ。収穫祭で結ばれた男女は厩にこもる。
 冬至の日が暮れる頃、村人みんなが我が家の周囲に集まった。
「お父さん、みんな来たね」私は言う。
「こんなに集まるのは一生ないかもな」
「ちゃんと燃えるかしら」
 父は頼もしい手で私の頭を撫でた。
 村長から三本の松明を授かり、開始合図もないまま、私達は藁坊主に火を放つ。内側から始めて順々に外へ。母屋に火が移らないか不安もあったけれど、乾いた音が弾けるたび、少しずつ霧散する。
 煙の匂いは坊主ごとに異なる。最初は一つ一つを嗅ぎ比べてみるものの、五つめ辺りには全て混ざって訳が分からない。魔除けの匂いとしか表現できない。友達が言っていた通りだった。鼻が悪いなんて言って一昨年馬鹿にした男の子に、後で謝らなければ。
 村の人達が控え目にどよめいては何かに祈り、あるいは今年亡くなった人のために鎮守の詞を謡っている。
 やがて庭全体は燃える藁坊主で埋め尽くされる。煙と炎に取り巻かれた家は村の祝福を受け、新たな年の太陽となる。藁、酒、魔除けが夜空に上り、煤まみれの私は、巫女として次の一年を生きる。
 こっそり忍ばせた羊肉は良い燻製に仕上がるだろうか。


#14

『さよなら二十世紀くん』

 あの頃の僕ら三人、とても仲が良かった。
 テレビでは賑わっていたけれど、クラスでは学校の怪談だとか正義の味方だとかその手の話はだいぶ廃れてしまっていて、体育館に首のない少女がでたと吹聴したら、見に行くべと駆け出したものの実際いるはずもなく、まぁいねえよなそんなの、って隣のやつに言われたのが印象的だった。信じていないと言いながら気持ちの大部分では信じていたんだろう。そういうところ波長が合うんだなと思ったりもした。

 通学路の途中、稲荷神社の庭におおきな岩が転がっていて、夏休みだったろうか、古い布切れをまとったこどもが座っていた。舐める飴とか髪型とか、明らかに平成の趣きからかけ離れていたし、なにせ神社の敷地内だし、夏だし、ほんとうにあった怖い話のような話に出逢ったんだろうと友人界隈で騒ぎになった。おもしろいのは、ある友人は兵隊のカッコに見えると言い、ある友人は赤いちゃんちゃんこ、と見える衣装が違うのだった。
「うぬら、がきども。空は青いか、土は冷たいか」
 名付けたのは誰だったろう。いまとなっては自ら名乗ったようにも思えるぐらい、彼は普通にことばを喋った。神社を囲んだ杉の木がざわめく、ポケモン世代には古風すぎて笑えた。

 季節は一巡して、あの日が来る。
「うぬだけか。どうした、花の芽食うか」
 ひとりで訪れるのは初めてだった。砂埃が吹き舞うなかから伸びてくる手。まだ芽吹いたばかりの千切られた桜の芽、思わず飛びついてしまいそうになるくらい丸々と太っていた。
「食わんか。んだ、うぬはまだ食わん方がええ」
 手は下げられ、栗を転がせたような声は風に攫われた。
 彼とはそれっきりだった。近所の駄菓子屋で菓子パンを買って頬張った。曇りを溶かしたような味。あっという間に駄菓子屋も消えてしまい、神社の細道も舗装されて綺麗になった。あの日、春だった。その年、小学校を卒業したのだった。学区の違いで、他二人とは違う中学に進学することを、ずっと根に持ちながら過ごした世紀末の春だった。

 僕が見ている青空は誰かと同じ青空ではないのだし、ちんけな襤褸を纏ったこどものことも僕しか知らないはずで、どうしたもんかなと考えている。二人に連絡しようとも連絡先しらないし。だから今では芽を食らいつかなかったこと後悔してたりする。
 だなんて、今じゃそれすらも笑ってごまかせるから、もう二十一世紀なんだなぁって寂しく思う春がまた来る。


編集: 短編