第124期 #14

赤色の傘

 凍えるような灰色の朝に、霧のように細い雨が降り注いでいた。仕事場の工事現場で、ヘルメットを濡らすその雨に男は空を仰いだ。空の一角に少しだけ明るい場所があって、多分その向こうには太陽があるのだろう。それは酷く幻想的な光景で、まるで古い映画のワンシーンのように男には思えたが、後ろで鳴り出した掘削機の無粋な轟音が男の空想を掻き消した。

 昼過ぎまでの仕事だったので、作業着から私服に着替えると男はその足で近所の喫茶店へと入った。珈琲と軽食を注文すると煙草に火を付け、ようやく人心地がする。窓の外は未だに雨が降り続いていた。
 隣席の消え入るような弱々しい話し声に男はちらりとそちらを見た。制服姿の華奢な女子高生と中年の男が向かい合って座っていた。こういう光景を見ると男にはどうにもやましい想像しか湧かなかったが、男が女子高生を呼び捨てで呼ぶことから親子であろうことが想像された。お前から母さんにどうにか頼んでもらえないか、と中年の男が続けた。どうやら金の無心らしい。
 女子高生は両手を膝の上に置いたまま、少し俯き、真一文字に口を結び、父親の話を聞いていた。その健気な姿にこれが一度や二度で無いことは男にも容易に想像が出来た。父親はお構いなしに話を続ける。時折見せる娘への見せかけの労わりや、自身の不甲斐なさへの言い訳が、父親を余計に小物に見せていた。恐らく父親がそれに気付く日は永遠に来ない。
 父親の話が一通り終わると娘は立ち上がり、学生カバンから茶封筒を取り出し、机の上へと置いた。はじめから男はわかっていたのかもしれない。申し訳ないな、と言いつつも素直にそれを受け取った。しかし、娘は冷えた目で何か言いたげに父親を見下ろしていた。
「それは」
 娘が口を開く。
「私が私を売ったお金です」
 ぽかんと口を開けたまま制止した父親を横目に娘は店を後にした。
 暫くして、我に返った父親は恐々と封筒の中に入った一万円札の束を確認した。そして、はじめは忍ぶように、次第に嗚咽を上げ、机に突っ伏して泣き始めた。店中の誰もが何事かと父親の方をちらちらと見ていた。
 ふと窓の外に視線を感じ、男はそちらを見た。先ほどの女子高生が物陰から父親の姿を見ていた。男と目が合った。彼女は困ったようにいたずらな笑みを浮かべて見せると、そのまま軽快な足取りで街へと消えて行った。灰色の雨の中で、遠ざかる赤色の傘だけがキラキラと輝いていた。



Copyright © 2013 こるく / 編集: 短編