第123期 #9
黄色い背表紙の図鑑を手に取れば、知らない世界が待っていた。
シロナガスクジラの大きさなんてピンとこなかったけど、ゾウやキリンと比べられた絵を見ながら、体長三十メートルの大きさを想像してみたりもした。五十メートル走の白線を校舎の上から眺めて、あそこからあそこまでくらいかなって思い描いてみたけど、本当にそんな巨大な生き物がこの世にいるのなんて信じられなかった。星の図鑑もそう。肉眼では見えないけど、この空の上、そのさらに上には巨大な球体がいくつも浮いている。夜になれば、月を見ることは出来るけど、それだって遠い彼方にあるらしい。父親の天体望遠鏡をこっそり借りて星も覗いたこともあったけど、月よりはるか何光年先から青白い米粒みたいな光がやっと届いてきてるのが見えただけだ。図鑑にそう書いてあっても、本当は宇宙に大きな電球がたくさん浮いてるんじゃないかって疑いたくもなった。
市の予算縮小で来月閉めることになった児童館の本を整理していた。ぼろぼろになった角やくすんだ表紙を手にとって眺めてみる。ここにいた子ども達と同じように持っていたはずの好奇心はいつの間に消えてしまったのだろうか? その代わりにこの歳になって新しく知りはじめることは、全てが細かくてシステマチックでつまらない。
「ちょっと休憩にしませんか?」
一緒に作業していた同僚に言われ、児童館の狭いグラウンドが見える縁側に並んで腰をかけた。自動販売機で缶コーヒーとお茶を買う。
「ねえ、このグラウンドの端から端までどのくらいの長さかわかる?」
冷えきった手のひらを缶コーヒーで暖めながら、同僚の彼女に聞いてみた。
「……さあ、三十メートルくらいですか?」
「そんなにはないな。多分、二十五メートルくらいだよ」
「どうしたんですか?」
「図鑑を見てたんだ」
そう言って『水の生き物』と書かれた表紙を彼女に見せて、それを渡した。まだよくわからないと首を傾げながら、彼女はぱらぱらと図鑑をめくり始めた。
冬の澄んだ空気の中、昼間なのに空には白く月が出ている。夜に見えるそれとは違って昼間の月は何だか抜け殻みたいだった。グラウンドから少しはみ出した尻尾を持ち上げると、そこに向かってシロナガスクジラがゆっくりと泳いでいくのが見えた気がした。