第123期 #11
君は、ぬか漬けが好きだったね。いつも君は台所に屈みこんで、黒く長い髪を邪魔そうにかき上げながら、嬉しそうに、キュウリや茄子を漬けていた。
家中が臭かったよ。でも僕は君を愛していた。
いつの間にか、台所も、リビングも、寝室も、客間も、僕の書斎さえも、家中の部屋の床下には、ぬか床があった。それを僕が知った時、君はいたずらっ子のように舌を出したね。それだけで僕は最高にハッピーだった。
いつだったか、浴槽にぬか味噌を満たして、そこに首まで入ってたことがあったね。ぬか床風呂健康法なんて、出鱈目な名前をつけて。
あのときは驚いた。だって、帰ってきたら君が脱水症状を起こして倒れているんだもの。体の水分がほとんど抜けるまで、ぬか味噌に浸かっていた君の、ぬか漬けへの愛には嫉妬すら覚える。
それでも、ぬか床をかき混ぜている君は、子供のように邪気のない笑顔で、それでいて美しかった。その華奢な体には、信じられない程のぬか漬けに対するエネルギーが詰まっていて、それが眩しかったんだと思う。僕はそんな君をよく後ろから抱きしめた。君は驚いて、でも笑いながら僕の顔にぬか味噌を塗りたくった。僕は、それが君の最高の愛の表現だとわかっていた。
君は言ったね。
「あなたは漬けてあげない」
「どうして?」
「私を漬ける人がいなくなるから」
君の最後の頼み、僕は喜んで引き受けたよ。君が笑うのがとても好きだったから。でも、本当に哀しかったよ。とても、とても。とても、とても、とても、とても……。
君が居なくなって、家は火の消えたよう。僕の心と同じでどこか冷えている。
ぬか床も、今はこの一つだけになってしまった。
でも君のいない長い長い夏が終わって、やっと秋になった。君に会える。
蓋を開けると、プンとぬかの匂いがしたよ。君の匂いだ。懐かしくて、嬉しかったよ。
僕はキュウリが嫌いだったけど、君の漬けたキュウリは好きだったよ。だから、もしかして、君の事をもっと好きになっているかもしれない。楽しみだなあ。
ぬかを、掻き出して、掻き出して。子供の頃に戻ったようだよ。
君と出会ったころのことを思い出すよ。確か、あのときは砂浜で、君を探しに行って……。
ああ。
ああ、見つけたよ。
お帰り。
「ただいま、あなた」