第122期 #5
昨晩の雲が去るのは早く、放射冷却も長かったのだろう。水たまりに映し出された空は色が薄まって、感情のない金属のように広がっている。その冷たさは確かめるまでもなく、水の沁みやすい夏用のスニーカーを履いていた僕は距離的な余裕を残して幾つものそれらを飛び越えていく。
アスファルトは濡れた色をしていて、朝日にキラキラと光って見せている。アスファルト自体は黒くて、それ自体が光っているのではないはずだ、と思うと、その様子は止まった時間を連想させた。錆びた排水溝の柵も、枯れたコスモスも、対岸の歩道を歩く無表情なサラリーマンも、過去を集積した結果を示したまま「現在」に固定された標本であるかのようだった。しかしその標本一つ一つにはさまざまな経緯が内包されていて、現在においては無意味であっても、ある者に対してならそれはまだ大きな意味を示すのかもしれない。
ヨシノは今日も講堂に来ていた。彼女と同じ講義を受けるのは一年ぶりだった。栗色にウェーブした髪の毛を僕は遠くから見下ろしながら座っている。教授の声は遠い。それよりは近かった先週の出来事。あの教授に質問するべく講演台の前にできた列に加わった僕は、ふと前に立っているのがヨシノであることに気が付いた。彼女は耳を露出させるのが好きだった。その耳たぶに、僕は二年前ピアスをあけさせたのだった。その姿は今も僕の過去の中で微笑み続けている。春になったらタンポポのピアスを与え、夏にはシンプルなリング状のピアス。夏は服を脱がせてもピアスはつけさせる。秋は小さいけれど鮮やかな色をした飾りが彼女には似合う。これからの冬は金属部分が冷たくなるけれど、時々はダイヤみたいな石のついたピアスをつけてほしい。
過去の事実として僕が与えたピアスがどんなものであったかはもうあまり覚えていない。しかし懐かしんで思い出そうとする間もなく、僕はヨシノの耳たぶの穴が、殆ど塞がっていることを意識しないわけにはいかなかった。スレンダーで背が高い彼女の耳たぶは僕の目の前にあった。僕は過去のヨシノと、現在のヨシノがもう別人であることを知った。
講義は続き、その声は近くなる。群衆はどこかぼやけていて、改めて観察するととてもくだらない気分になる。視線を外して、僕は隣のヨシノにそっと微笑みかけた。スレンダーで、愛らしい横顔だった。僕はヨシノをとても好いている。彼女の耳たぶにはピアスが光っている。