第122期 #4

願い

 朝、目覚めると兄がいなかった。珍しく出掛けているのかと思ったが、台所で朝食を作っていた母に聞くと、あんたは一人っ子でしょ、と呆れたように返された。思いがけない言葉に、思わず私は母の顔を凝視した。確かに昨日まで、朝になればこの食卓にはいつも「兄」がいた。
 兄はもう三十後半だったが、無職だった。四流大学を卒業して、一度は就職をしたがすぐに辞め、しばらくフリーターをしていたがバイトも続かず、いつしか家にずっと引きこもるようになった。ずっとネットゲームをしているらしく、昨日の夜も、部屋にこもってパソコンに向かっていたはずだった。
 私は階段を上がり、自分の部屋の隣のドアを見た。ここは本来ならば、兄の部屋だ。いつも鍵が厳重に掛けられていて、もう何年も足を踏み入れたことはなかった。
 少しの躊躇のあと、ドアノブを掴んだ。いつも固く閉ざされていたそれは呆気なく開き、また当然のように、目の前には父の書斎が広がっていた。
 その後起きてきた父を問い詰めても、母と同じような反応をした。つまり本当に、「私には元々兄がいない」ということになっているらしかった。
 その後家族三人となった私たちは、何の違和感もなく変わらない日常を過ごした。それを不思議に思うこともなくなり、むしろ私はその環境の変化を喜んでさえいた。
 私はいい年になっても働かず、寄生虫のように家にいて、逃げてばかりの兄が大嫌いだった。だから心の中でいつも消えて欲しいと思っていて、いつしかこの現象は、そんな私の願いを誰かが叶えてくれたのだ、とすら思うようになった
 私の関心が薄れると同時に、兄に関する記憶というもののも消えつつあった。例えば兄の服装がどんなものであったか、どんな声だったか、そしてどんな顔であったのかも、もうほとんど思い出せなくなっていた。
 だけど何故か、あるときの兄の背中だけが、いつまでも私の記憶に残り続けた。
 あれは兄が消える一週間前の夜中のことだ。私は不意に喉の渇きに目を覚まし、水を飲もうと一階に降りた。すると兄が一人で台所で酒を飲んでいて、私は入るタイミングを逃し、入口で立ちすくんだ。どうしても喉が渇いていたので、入ろうかどうしようかと悩んでいたときに、兄が何かを呟いたのが耳に入った。確かにはっきりと、兄はこう言った。
「消えたい」と。
 果たして私と兄の、どちらの願いが叶えられたのだろうかと、私はふと疑問に思った。



Copyright © 2012 澄子 / 編集: 短編