第122期 #3

とある冬の日、とあるBARで

記憶は薄れゆくもの。だが、時としてそれが一瞬にして蘇ることもある。

粉雪舞う1月のある日。友人と合流した僕は、コートの襟を立て足早にとあるBarへと向かった。このBarへ行くのは半年ぶりだ。
『確か酒がうまかったよな?』
『あぁ、確かにそうだった。』
おぼろげな記憶を辿って、僕はそう答えた。
そして店に到着すると、一人の店員が僕らを出迎えた。


『いらっちゃいまちぇ』


ーーーーーお、思い出したぞ!


寄せては返してく波の様に、僕の記憶が鮮明に蘇った。

『2名ちゃまでちゅか?』
『キャウンチャーかチェーブルかどちらにいたしまちゅか?』
『キョートをおあじゅかりいたしまちゅ。』


想像を絶する滑舌の悪さと、印象的なアゴ。コードネーム、店員アゴ。
コートを預けてテーブル席に座るまでの数分間で既に、僕らの腹筋は限界に達していた。しかし、ここは雰囲気あるBar。真摯に振る舞わなければならない。
落ち着きを取り戻した僕らは、久々の再会に乾杯をし、気分良くアルコールを体内に流し込む。
が、しかし…


『お飲みものなんにいたしまちゅか?』


またもや奴がやって来てしまった。


『スモークサーモン。それと、シャンディーガフを2つ。』

『かちこまりまちた。チュモークチャーモン、チャイニーズパブでちゅね?』

『…え?あ、はい。え??』


もはや滑舌だけの問題ではない。まさかのチャイニーズパブだ。
それからというもの、アゴの発言が気になって気になって、僕らは客とアゴの会話を聞き続けた。

『俺、実家がうにゃぎ屋なんでちゅよ。』
『血液ぎゃたでちゅか?ビェーぎゃたでちゅ。』


…も、もうわからねぇよ。

アゴのクオリティーに完敗した僕らは、痙攣している腹筋を押さえながら、エレベーターへ逃げ込んだ。そしてその中で反省会が始まる。

『なんだったんだよ、この店。』
『何言ってるかわからなかったな。』
『アゴと客との会話聞いてた?』
『聞いてたよ。ほぼ聞き取れなかったけどな。』
『好きな芸能人だけ、ちゃんと発音出来てたな。』
『アゴ向きな発音だもんな。きゃりーぱみゅぱみゅ。』

エレベーターを降りると、雪は止み、冷たくも清んだ空気が流れていた。


人は何かを1つ覚える度に、何かを1つ忘れてゆく。再びここに来る時、僕らは今日の出来事をどれだけ覚えているだろうか。

しかし、忘れてしまったとしても、すぐに記憶は舞い戻る。彼が放つ、魔法の言葉で。






『いらっちゃいまちぇ。』



Copyright © 2012 あべちんすこう / 編集: 短編