第122期 #2

始まり

黒ヤギさんは恋をしていた。相手は白ヤギさん。
白ヤギさんの住まいは黒ヤギさんの住む丘陵地帯から川を2本超えて沼地をわたり更に峠を越えた牧草地帯。
なぜ、そんなに離れたところに住んでいるのかって、中世のヨーロッパ人はあらゆるところで馬鹿みたいにヤギを放牧していたのだ。
ヤギはもちろん草を食い木の葉を食うが、突き出た前歯で根こそぎ喰いつくしてしまうから、彼らが放牧された森は滅ぼされ、後には短い草しか生えない荒れ果てた土地しか残らない。
とうぜん、家を建てる木も無くなるし、たくさんのヤギたちを飼うのも難しくなってくる。
そうなると方法はいくつかしかないし、この時代は大体一つしか選ばれなかった。
あるディアスポラの家族は生活が苦しくなったので、もといた村を離れて新しい開拓地の丘陵地帯に向かうことにした。
親戚と一緒に所有していた家畜の群れを分けてもらい、出発した群れに黒ヤギさんはいた。
哀れな白ヤギさんが追い立てられて飛び出そうとする直前に柵は閉じられた。
けちな親戚が哀れな家族に群れを分けたくないと柵を早めに閉じたのだ。


長い長い苦しい旅の果てに辿り着いた丘の上で黒ヤギさんは白ヤギさんを想う。
どうしてあの頃自分は白ヤギさんと戯れて遊ぶばかりで、心の底で確かに芽生えていた感情からかたくなに目をそらし続けて居たのか。
四本の足が地面を踏みしめているのと同じくらいわかりきった事だったのに。
黒ヤギは思った。
僕は成長によって失う物を恐れていた。でもいくら恐れていてもそれはやって来たし、むしろ恐怖それ自体のせいで、得るはずだった物も何もかも失ったのだ。
黒ヤギさんは間違っていた。俺に言わせれば黒ヤギさんは恐怖に破れたとかではなく、ただタイミングが悪かったのだ。

黒ヤギさんは後悔しながら、あふれ出さんばかりの気持ちのやり場もなく、もうどうしようもなくなって白ヤギさんに手紙を書いた。
それは恋文だったが、さわやかな恋の思いを綴る文面はだんだん執着と怨念と妄執に満ちていった。
どうせ届けられないに決まっているのだからと黒ヤギはいっそう好き勝ってに書いた。

流しのポストマンが黒ヤギさんのもとにやって来て手紙を届けてやろうと言った。
もう諦めてやけっぱちになった黒ヤギさんは前足で手紙を蹴ってよこした。

白ヤギさんちに手紙が届いた。白ヤギさんは読まずに食べた。
黒ヤギさんに「おいしかったです」と返事を書いた。



Copyright © 2012 藤舟 / 編集: 短編