第121期 #5

空をながめる

 ぼくの住む町にはその地名を冠した小川がある。行政によって遊歩道が敷設されている。聞けばもう十年も前のことだそうだ。ぼくは十八になる。これまでこの町で暮らしてきた。

 かつてはあの川で泳いだものだ。いつも愛犬といっしょだった。水流の激しい地点に到達すると犬はきまって突進する。ぼくが手綱を離してやる。犬は足のつかない深さまでいきおい止まらず、時すでに遅し。あえなく水流に流されて、しばらく下流でぼくに捕らえられる。そんなことを懲りずに幾日も繰り返す。

 ある日。台風一過。天まで吹き抜ける夏風が吹く。ぼくらは快晴のもと川へ向かった。濁流である。水は土を溶かしても飽き足らず青葉も生枝も飲み込む。犬が例のごとく突撃してゆく。ぼくは犬があっけなく蹴散らされ流されてゆくのを眺めていた。その時のことだ。どうしてだろうか。ひどくやけっぱち、いいや素直な興奮にみまわれた。ぼくは犬と同様に濁流へ突進するしかしあえなく下流へ流される。犬コロが浅瀬で尻餅をついていたぼくに抱きついてくる。犬は尾っぽを振っていた。身体の暑さにあてられていたのが すう と遠のく。天を仰ぎ、深呼吸をすると、愛犬とおなじ泥水の臭いがする。

 さてぼくは町にいることが少なくなった。今は大学に通っている。しかし土なんぞはどこにだってある。そう、あるにはあるが、都心の土は雨上がりにただようホコリの臭いにまぎれているのだ。童心の記憶はそろそろ混濁をはじめた。

 犬は老いて庭先で眠っている。ぼくも犬の隣に寝そべる。仰げば空はやはり平和だ。あたたかい午後。休日の庭。身をゆだねる。



Copyright © 2012 tochork / 編集: 短編