第121期 #16
海辺はひっそりとしていた。人がいなくなりすっかり浜の空気がひらけて、波がさざめいているだけである。そこへ三つ歳の離れた妹を連れてやって来る若い男があった。男は十歳を過ぎた頃から、妹に「海に連れて行って」とせがまれる度、「俺は夏が嫌いだから」と言い張っていた。しかし、
「実は、お前に内緒でしょっちゅうここに来てたんだ」
と徐に、海の向こうに探し物をするような目をしながら打ち明けるのであった。
「何してたの」
「何もしてなかった」
「遊ぶ友達がいなかったのね」
兄が人付き合いの悪い人間であることを知っていて、妹はそんな憎まれ口をするりと嘯く。かといって「海にいたのは知ってたか」と言えば、そういうわけではないらしい。男が口篭り、いつものように悪口を言い返さないでいるので、彼女もそれきり押し黙る。と、ふた筋ほどのゆるゆるとした風の後で、男はわざとらしく胸を張り言った。
「昔、お前の大事にしてた縫い包み、持ち出したの、俺」
二人は依然並んで同じ水平線を眺めている。「海に捨てた」と言っても、妹はさして驚く様子なく「ふうん」と相槌を打つのみで、男はしょげた気分になった。その事に妹は気づかないが、兄にしても、妹の気分が僅かに張り詰めている事には全然気づかない。
決して稀な例ではないが、彼らの母親は兄より妹を可愛がっていた。また多くの者がそうであるように、男はやり場の無い不満の孤独を唯一人が背負う不幸と考え、己の環境を憎んで幼少時代を過ごしたのであった。妹を可愛がりたいという願望はあった。しかしその裏返しで意地悪ばかりをした。
ある日十歳だった男は、妹が母から貰ったテディベアを引きずって、波際に立っていた。誰かがとめるだろう、海に放してしまっても、きっとサーファーがいるから……等という勝手な期待は裏切られ、それでも意地が彼を追い立てた。縫い包みを放り投げた男は呆然と立ち尽くす。そのうちどこかから悔しさが襲い、一人泣き喚く男をよそに、波はひっそり、ひっそりと縫い包みを連れ去った。
一切を白状しようとしたが、言おうとして男は急に口を噤んだ。それは卑怯な行為だ、と漸く気づいたのであった。横を向くと目が合って、妹は整った睫毛を伏せ、考え、ふいっとそっぽを向く。
「貝殻拾って帰る」
そう言って駆け出す妹の小さな背を眺めながら、男は絶句していた。一方で妹は微笑んでいた。海は依然ひっそりと二人を包んでいる。