第121期 #13

まごころ

 世界のどこかの片隅で、靴の裏が石畳にねばつくような湿度の夏の夜、野犬の群れに襲われる。まわりに誰もいない。旦那さんと彼女の二人きり。咆哮があって旦那さんの喉笛が噛み切られ喰い殺される。
 彼女はでぶりの旦那さんがハッはハッはしまくってる野犬にめちゃくちゃ体を縦横無尽に貪り荒らされるのを見ながら、最初恐怖で、それから自分がだんだん不可解なほどに落ち着いてきたのに気づいたそうだ。夫の死を見る苦海から逃れるためか、発狂抑止のために脳に規制がかかったのか、彼女は「文明に略奪された自然が、今まさにまた文明から自然を取り返そうとしているのだ」と夫の死に際を、まるで現代社会の転換点にたまさか遭遇したかのように感じていた、という噂だ。

 ある女がこの夏に東京の高田馬場の都市公団に引越した。その女の隣に住んでいた奥さんが噂の中の彼女=奥さんだったが、奥さんには痩せた旦那さんがご存命だし、奥さんの溌剌さ加減からこの風聞は女には俄かに信じがたい。
 女の、新社会人になった息子が引越し祝いに来てくれて(と言っても引っ越してから二カ月経過していたが)、噂話を教えたら、人類最古のベストセラーと名高い旧約聖書みたいに自信ありげな顔をしてこう言った。
「噂はあくまで噂だろ」
「でもあのご夫婦しょっちゅう海外旅行しててリアリティあるんだよ」
「まことしやかに語ったら、点と点を結んだ線は全部真実かよ」
 その時、女の頭に「死を連れた奥さん」というフレーズが思い浮かび、前冬に未亡人となった自分にはお似合いだと取憑かれ、息子に喧伝したくなった。けど気味わるい母親と嫌まれるのも癪なので自制した。
 女は、あくまで噂だが子供はいつまでも母親の味を忘れないという流説に思い当り、塩むすびときゅうりのぬか漬けを弁当にしなよふえええと力の抜けた笑いを添えて息子に夕方、手渡して見送った。
 息子は今恵比寿の社員寮に一人住まいだった。
 娘は嫁いで大分に住んでいた。
「いいかい出世するんだよ」
 女は別れ際に息子に教えた。出世すると善い事が訪れるというのも、これも世間一般での噂だった。

 女は件の奥さんと他数名で駅前でボウリングした。
 件の奥さんが黒いボウルで渋いスプリットを決めた時、女は自分は「死を連れた奥さん」と言うよりも神道の霊璽に夫のミタマを入れたのだから、本来「タマを連れた奥さん」なんだと思い及んだ。別に猫飼っている訳でもないのにい。



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