第119期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 故障す 995
2 嘘つきな父 砂利 485
3 壊頽モータル 乃夢 978
4 スパンコール・ステップ 青井 鳥人 956
5 アナクロバイサイ 岩西 健治 968
6 好きです わがまま娘 994
7 咲子 1000
8 おぼんやすみ 霧野楢人 1000
9 AED しろくま 965
10 海を走る犬 だりぶん 844
11 最初の七日間戦争 朝飯抜太郎 994
12 小説家になる 猫狂い 959
13 正油さし qbc 1000
14 花火 なゆら 937
15 句日記 ロロ=キタカ 1000
16 八月に捧ぐ 伊吹羊迷 1000
17 橋の上 euReka 998
18 『聖母へ』 吉川楡井 1000

#1

故障す

風に煽られたカーテンが生き物のようにはためく度に、その隙間からはパキッとした青空が見え隠れしていて、蝉の声、風鈴、畳。
まさに日本の夏だなあ、と浩は思った。
しかしそれらは、浩になんの進展ももたらさないただの風景であって、たとえ爽やかな風が吹こうと、蝉が鳴こうと、浩には恋人もできなければ就職もできないのである。
それに気付かない浩は、その一時の感情に任せて「俺は幸せだなあ」と安易に決め付けた。
そしてすぐ気付く。
「違う」
もうすぐ30歳になる手前、恋人はやはり欲しかったし、何より仕事がなければ、今も仕送りを続けている続けている両親の死期がそのまま自分の死へと繋がることになるのだ。
いかん。
そう思った浩は求人誌を開き、なるべく楽で人間関係が希薄そうな仕事に赤ペンでチェックした。
そして夕方までインターネットで職を探すふりをしながらエロサイト巡りに励み、一息吐くと晩飯のカップラーメンを食べ、風呂に入って寝た。
布団の中で「俺はこれでいいのだろうか。生きるとは一体」などと陳腐な哲学に耽ったが、それも鈴虫の声や月明かりに影響されただけのもので、10分もすると飽きて眠りに落ちていた。

そして翌朝、浩はいつも通りなんとなく目を覚ました。
開口一番発した言葉は「なにこれ」だった。
枕元の時計は午前10時を指しているというのに、窓の外は真っ暗で、物音ひとつ聞こえないのだ。
窓を開けた浩は、もう一度「なにこれ」と言った。
外は真っ暗というよりも黒一色。街明かりはおろか、空も地も無いただの黒の中に、浩の部屋だけがポツンと存在しているようだった。
そして、三言目にしてようやく浩は状況を理解した。
「あ、なるほど」
今日は、浩の30回目の誕生日だった。
大学を中退した歳からちょうど10年。
「10年間も止まってたら人生が故障しちゃうよ」とは浩の祖母の言葉だ。
街などで路上に座り込み、虚空に話しかけている老人などがその典型らしい。

浩はドアを開け、家の外に出た。
地面の感触は無いが、落ちている感じも無く、ただ黒い中で足を前後に動かすのはこの上なく虚しかった。
浩は家に戻ることにした。
しかし、振り返るとそこに家は無く、浩の周りはただの黒だけになってしまっていた。
浩は泣いた。
泣いて泣いて、弱音を吐きまくった。
泣いている自分は可哀相だと思った。

しかし周囲は黒と無音。
往来の人々も、泣いている浩の前をただただ通り過ぎるばかりであった。


#2

嘘つきな父

私は正直な人生を送ってきた。
意識したのは、中学生の頃である。

いま思うと、私はよく嘘をつく子どもだった。何かというと嘘をつき、先生や友達を困らせた。それも大した嘘じゃないのだが、そのほうがかえって信憑性がでてしまうのだ。
すべて、父の影響だったのかもしれない。
優しく家族想いで勤勉な父だったのだが、だらしないところがあった。それに、父は母や近所のおばさんよりもおしゃべりだった。彼はたまに、大胆な嘘で僕らを驚かせた。あるときは姉が大好きだったアイドルが死んだだとか、またあるときは自分は癌だとか、重い嘘をつくのだ。

そんな父ももう衰弱していた。
身体は痩せ細り、骨はその骨格を露にしていた。
あるとき、父は自宅で倒れ、病院に運ばれた。
私は急いで病院に向かった。

病室で見た彼は思った以上に元気そうであったし、大丈夫だろうと思った。


「父さん、大丈夫?」

と近づくと、彼は私と二人きりの病室でこう言った。

「愛してるぞ」

その言葉を最後に、彼の脈拍数は少なくなっていき、やがて、ゼロを迎えた。

彼のその最後の言葉。私は今でも忘れることができない。嘘つきな彼が初めてはなった正直だと信じたいから。


#3

壊頽モータル

君の右手に握られた、とっても綺麗な死の薬。僕には渡されなかった、君の、大事な。

世界が大変なことになったんだって。それはもう、僕らなんか終末に飲み込まれてしまうような、嘘のようなそんな話。でもそれが嘘なんかじゃないのはわかっていた。誰かが、あの話は本当は嘘だったんだと言ってくれればどれだけ気が楽だったろう。冗談でもいい、最期までそれを信じて消えていけたら、今みたいに苦しい思いをすることも、きっとなかっただろうに。
結局僕を取り巻く大人たちは最後までモノゴトの全体を見ることはできなかったようで、じわりじわりと近づいてきている終末に抗おうと躍起になっていた。今更こんなにボロボロになった世界なんか守っても仕方がないのに。こんな世界、僕は要らない。要らないのに。
人がぎゅうぎゅうに詰まった鉄の箱、狭くて暗くて怖くって。もう、慣れてしまったけれど。でも人がいっぱいいるところって、本当、やだな。そんな時、後ろから、聞こえてくる声。女子供は自決の薬を渡されたってさ。僕らに渡されたのは、相手を傷つけることしかできない、鈍くて粗野な武器なのに?重くて、不必要に僕らの命を延ばす盾なのに?僕だって、もう、生きていたくなんかないよ、こんなボロボロになった僕なんか今更誰も必要としないだろ?
「ねえ、」
汚く死んでもいいや、右手に握っていた武器を自分に向けた時、君が話し掛けてきた。
「私、これ、要らないの。貴方、これ要るでしょ」
それは君の右手に握られた、とっても綺麗な死の薬。僕には渡されなかった、君の、大事な…。
「そしたら君はどうする。辛くても死ぬことができない」
「貴方はそうかもしれないけれど、私には死ぬことしかないわけじゃないもの。私は世界の最期を見てみたい」
「………」
「だから代わりに、その武器と盾を頂戴」
「いや、」
僕は彼女の左手に鉄の塊を乗せて両手で握り締める。
「これで僕を殺して」
君は無表情に一瞬迷って、それでも僕を撃った。そしてすぐに右手の薬を飲み干して、ゆっくり僕と倒れた。
なんで世界の終わりを見たいと言っていた彼女が、自分から死んでしまおうと思ったのだろう、薄れゆく意識の中少しだけ考えたけど、でも僕の世界が終わるまで、君と一緒に笑っていられただけで、この最低な世界も捨てたもんじゃないんだから、今はただ、それだけを感じながら君の笑顔を見届けて、目を閉じた。


#4

スパンコール・ステップ

スゴイでしょ? アタシのこと「救いようがない方向オンチ」っていっつも言ってたけど、どう? 少しは見直した?
アタシだってやれば出来るのよ。

でもホント言うとね、途中で道が分からなくなっちゃって、サービスエリアで大学のサークルか何かの男の子たちに道を聞いたの。多分大学生よ。アタシ、大学に行かなかったけど、なんとなく分かる。男だけで一体何処に行くのかしらね。つまんない。

みんなアタシの胸元ばっかりチラチラ見てさ、「よかったら僕たちと遊びに行かない?」だって。冗談じゃないわ!アタシはあなたとこれからピクニックだっていうのにね! ヤリたいだけっていうのが見え見えなのよ!

あ、ごめんなさい。こんなこと言っちゃって。
怒った? またアタシのこと叩く? 「下品なこと言うな」ってまた叩く?
だって仕方ないじゃない、男の子たちはあなたのことが見えなかったんですもの。アタシが1人だって勘違いしたのよ。あなたは首から上だけになっちゃって、ピクニックケースの中に収まっちゃったし、「ダーリンと一緒なの」って言ってあなたの首を見せたらびっくりしちゃうじゃない!

ああ、気持ちいい!
この丘に来たのも本当に久しぶりね。楡の木もあの時のままね。時間がここだけ止まってしまったみたい。腰まである草の名前をあなたが教えてくれたけど、もう忘れちゃった。ゴメンちゃい。

そうそう、今日アタシこの靴を履いてきたのよ。あなたがたった一度だけ「可愛いよ」って私を褒めてくれたスパンコールのついたこのサンダル。覚えてる? あの時、アタシ本当に嬉しかったのよ。そのことをどうしてもあなたに伝えておきたかったの。だから私にとってこの靴は特別な物なの。シンデレラのガラスの靴って言ったら聞こえがいいけど、そのくらい大事な靴なの。

歯が折れるくらい殴られて、おなかを思いっきり蹴られて、首を締められて。とっても苦しかったけどアタシこの靴のスパンコールのキラキラを思い出したら我慢できたわ。
そういえばあなたはアタシを殴りながら泣いてたわね?
どうして? どうして泣いたりしたの? 訳分かんない。

アタシここに来てこの靴で踊ろうって決めてたの。いいかしら? ちゃんとあなたが見えるようにピクニックケースの紐は解いておくから。
いい? いくわよ。今度はちゃんとアタシを見ていて。


#5

アナクロバイサイ

 老人特有の切れ長で歯切れの悪いが差し障りない慣れた方言で戯言のように呟く横では就学前の幼児幾多が畳の上に滑って転んで泣いて笑ってこれまた主人公には分からぬこの土地特有の方言のアナクロバイサイなる野草の人口栽培に成功したいささか裕福な生活をおくっているはずの村人たち。
 アナクロバイサイなる言葉も果たしてこの土地特有の方言でサイは野菜の菜であるのではないかと修学前の幼児が今度は主人公の背中にドンガラドンガラやってきて叱ることさえできない崩壊間近の集落に奉られた婿さんのように、
「おまさ、どれの婿さだばいなぁ」
「おまさ、あれの婿さだばいなぁ」
 年かさ既に百近くといった老婆姉妹が立て続けにオマサドレノムコサダバイナァオマサアレノムコサダバイナァ。
「静かあにせんとげんがなわれがきがぁ」と幼児幾多の群れに浴びせた怒声も乾涸びたムカデ拾った幼児幾多には効かぬう効かぬう。
 黒光りする八寸柱に背中押し当て胡座をかいて見る景色はアナクロバイサイのハウスのみでワイファイ使って『アナクロバイサイ 野草』などと検索するも楽天のサイ大特集なる結果のみ。
 夏期休暇に妻の本家に出向くなどとは妻の実家は松江にあって本家(妻も十七年ぶりだそうだが)はそこから何とかという山ふたつ超えた奥のここアナクロバイサイなる野草の人口栽培ハウスがある土地だったのである。
 盆の供養が済んだ仏壇の前の大皿ふたつのひとつは地の野菜でこの中にアナクロバイサイがあるのかないのか主人公には見分けがつかなかったがもうひとつの大皿にサンショウウオの煮付けがででんと盛られていたから「こんなん食べられるんですか」と興味示せばまたもや老婆姉妹の耳だけはいいとみえて、
「ココイラノアズダバイナァ」と姉の方が言うと
「ココイラノアズダバイナサ」と妹の方も言うが
「ココイラノアズダバイナァ」と言ったのはむしろ妹の方で
「ココイラノアズダバイナサ」と言ったのが姉の方だったかも知れない。

 主人公は何故アナクロバイサイを知っていたのであろうか。
 婿さんがこの地に入る前に聞いた言葉は大半が解読不能なほど標準語離れしたものであったが二日滞在するうちに何となくではあったが意味のようなものが理解できてきた。婿さんは解読不能な言葉の中にアナクロバイサイという響きがあってそれが耳に残っていたのだと考えた。


#6

好きです

どうしてあんな勘違いをしたのかと思う。用心していたはずなのになのに、何故そのまま突っ込んでしまったのか。
避けて通れたはずのことを思い出して、私は湯船の中に沈み込んだ。

なんだかんだ言って、結局は私も焦っていたということなんだろう。周りがみんな結婚していく中、私はまだ先でいいなんて、まだ仕事していたいなんて、結局はただの負け惜しみだったということだ。そうでなければ、あんな年の離れた彼の誘いにホイホイ乗ったりはしなかったはずだ。
思い出しては、ホント自分の阿呆さに涙が出てくる。

始めはからかわれているだと思って、相手にもしなかった。何かにつけてちょっかいを出してくるのだ。そんなことで、お姉さんがフラフラついてくると思ったら大間違いですよ、坊や。とまで思っていた。
それが、半年前位前から、セクハラですか?! と思うほど、ベタベタ触るようになってきた。
始めは手が触れる程度だったのに、最近では普通に手を握って私を引きづり回す。
並んで座ると必要以上に引っ付いてくる。周りから見えなければ、膝や太ももを触ってくることもある。
そこまできたら、ただのセクハラでしかないのだが、彼が年下ということもあって遊ばれているんだと思っていた。
ただ、そんなことが続いたら、もしかして? なんて思ってしまうじゃない。それでも、いやいやそれは自意識過剰ってもんじゃない? と思って自制してきたはずだった。
なのに……。
そんなことを繰り返しているうちに、私が彼に惹かれてしまったのだ。なんて単純な女なんだろうと、自分で自分にうんざりする。

今日、彼が彼女と歩いているのを見かけた。ずっと彼女なんていませんよ、なんて言ってたくせに。
私の失恋は確定した。年齢のせいか、自分の勝手な妄想のせいか、衝撃は大きかった。

お風呂から出て、テーブルの上に放り出した携帯を見ると、着信があったことを伝えている。携帯を開くとものすごい数のメールと電話が入っていた。どれも彼からのものだ。彼女ができて嬉しくなって連絡してきたのか? どこまでも子供だな、と思いながら、メールを開く。とにかく電話が欲しい、とだけ書いてあった。が、最後の1通は、吹き出してしまった。画面の文字は淡白なのに、その向こう側に彼の必死さが見えた。どこかで私が見かけたことを知ったのだろう。たくさんの言い訳が書いてある。そして、最後に

「好きです。僕のお嫁さんになってください」


#7

 私はいつも何も言えない。声を出そうとしても、恐怖感から、出ない。
それは他人に自分がどう映るのか、という恐怖感。私の正体は醜い。その姿を見せたら他人は私を認めるだろうか。黙っている時でさえ、彼らは私を蔑んだ目で見るのに?だから私は絶対に自分の正体を見せない。
 私は自分の顔を愛している。誰よりも美しい顔をしていると思う。皆醜い顔で可哀想。鏡を見るたびに自分の顔に酔いしれる。この顔だけが私の味方。そしてもう一人、私の顔を愛する人がいた。
 彼は、自分が他人から愛されることを自覚している。彼の一言で多くの人が彼に気に入られようと動いた。彼は、「こんなにも愛されるのだから、自分は価値ある存在だ」と信じて疑わない。しかし彼が大した人間ではないことを私は知っている。愚かだとさえ思う。彼はいずれ、自分の実態に気づき、挫折し、暗い気持ちでそれを認めるのだろう。だから、彼を見るといつも笑ってしまいそうになる。
 私は、他人からよく馬鹿にされる。母からは、「クズ」「何も褒めるところがない」と、クラスの生徒からは、「きもい」「馬鹿じゃないの」「死ね」と言われている。私は、それを虐待だともいじめだとも思わない。だって親と友だちだもの。私は笑う。優しく美しい笑顔で、受け入れてあげる。
 彼は他人に馬鹿にされている彼女が好きだった。力なく笑う美しい顔が好きだった。しかし今、目の前のおびえるような笑顔に、彼は苛立ちを覚える。
 彼は彼女に人格を求めなかった。なぜなら、彼女の人格、意志には真っ先に彼を侮辱する柱があったからだ。彼は、彼女の顔だけを愛そうと努めてきた。しかしそれも終わりである。彼は、ポケットから彫刻刀を取り出した。
 私は彼を愛している。愛しているから、彼を受け入れる。違う。受け入れているのではなく、何も出来ないのだ。怖いから。「薄っぺら」な彼に「お前なんかいらない」と言われるのが怖いから。私の残りの自尊心を奪われるのが怖いから。違う。私はもう疲れたのだ。何かを生み出す体力も気力もないのだ。そして私は彼を愛していた。
 私の鼻先に突き立てられた凶器はすでに鼻の頭を刺し、そこから血が流れ落ちている。鼻血も噴き出している。痛い。私は呻いた。ずぶずぶ。貫通しそう。意識朦朧。何もわからない。視界は暗くなる。最後に私の目に映った彼の表情は、つまらない授業を聞いている時のような、普段と変わりないものだった。


#8

おぼんやすみ

 小石を蹴ったら、撥ねた先で蛙が鳴いた。その時の声が、スンとした夜闇のくせに湿っぽく響きやがって、俺は思わず隣を歩くチィ子の方を向いたんだ。狭い畦道だから、さっきから肩とか髪がちらちらぶつかってどうしようもなくて、うっかりチィ子を田んぼに突き落としちまうんじゃないかなんて事を考えながら、実際には拳を握るくらいしかできない不甲斐なさに何度か舌打ちをしていたところだった。
 風が涼しい。
「来年はどこいくの?」
 チィ子が言った。俺の方に顔が動いたかと思ったら、中途半端な向きで止まって、そのまま空を見上げて、のろのろ歩き続けている。星がそんなに好きなのか、楽しそうに目を淡く光らせて。
 また風が吹いた。チィ子の吐息が溶けていった。すると俺ははっとした。奴の姿も色も風の中に、綺麗に溶け合っていたのだった。
 そして俺は、そっと拳を解いてしまう。全部収まったようで、全部手放してしまう感覚だった。幼かった頃の俺なら、泣きだしていたかもしれない。
「遠くだな。だいぶ遠く」
 ずっと広がる稲野原。チィ子はくっくと笑いやがって、
「なんだっけ空飛ぶ豚の映画のさ、飛行機でライトパシャパシャして交信するやつ」
 思惑は不明。でもまぁ星空を見ながら考えてみる。
「モールス信号?」
 適当に言ったけど、あれはどうやら当たっていた。
「あれやってみない?ねぇ、ほらあっち行って」
 唐突にチィ子は俺を遠ざける。あいつも向こうに行ってしまって影も形も分からなくなる。蛙の鳴き声って、こんなにせわしないもんだったのか、と思う。
 フラリと向こうで小さな光が揺れた。なるほど、携帯電話の液晶画面を光らせて、チィ子が掲げているわけだ。俺に向けられた信号はぱかぱか出鱈目に光って消えて、まったく意味が分からないんだけど、俺は泣きそうになりながら慌ててポケットを探った。
 送り合う合図は届く。かといって、おかしい話だけど、通じ合うわけじゃない。でもこういうことだけは飽きないんだチィ子のやつ。それで、好き勝手に飛び跳ねてみたり、踊ってみたりして、時々ケタケタ笑ったりして遊んで、最後はずっと手を振っていた。二つの光が田んぼの端と端で同じように揺れて、夜の中に消えるんだ。そうやって閉じ込めた光だったんだ。星、蛙の声、風、田んぼの匂い、チィ子。ちぃこ。
 そのせいか、逃げていってほしくないからなのだろうか、夜に携帯電話を開くのは今でもよく躊躇うんだ。


#9

AED

 うまいッ。うまいんじゃあッ。この、ししゃもッ。わしは子供の頃からししゃもに目がないんじゃあ。おぉ、うまいッ。このふっくらとした腹ッ。……お、おおおおぉ、た、卵まであるとはッ。わしはもう、この世に未練なしじゃ……。チーン。


 おじいちゃん!


 オリンピックニュースが流れる家族団らんの晩餐で、ご飯とししゃもをむしゃむしゃ頬張っていたおじいさんは、山盛りのししゃもを巻き込んで床に倒れてしまいました。お母さんは慌てて119番に電話。おじいさんがなぜ倒れたのか分からず、電話口で説明にならない説明を繰り返しています。
「親父!」とししゃもにまみれたおじいさんの体を揺さぶるお父さん。七歳の娘と五歳の息子も涙を流して傍らから安否を案じています。
 おばあさんのもとへ……。おじいさんがそう思っていたかどうかは分かりませんが、おじいさんは意識を回復しないままやってきた救急車に運び込まれます。ざわざわと出てきたご近所さんたちが心配そうに様子をうかがっています。家族も一緒に救急車に乗り込みます。おじいさんの体に取り付けられる器具類。しかし、無情にも心拍停止を表す音が救急車の中で鳴り渡ります。
「おじいちゃん!」
 家族はおじいさんの体にしがみ付いて泣き崩れました。悲痛。悲惨。泣きわめく家族。「失礼!」と、救急隊員のお兄さんがAEDと書かれた箱から機械を取り出し、家族におじいさんの体から離れるよう強く言いました。


 ドン!


 おじいさんの体が跳ね上がった瞬間、おじいさんの口角が持ち上がり、アゴがしゃくれました。
「えっ?」
「えっ、おじいちゃん?」
「生き返ったんですか!?」
 しかし、鳴り響く音に変化はありません。
「……い、いや、まだのようです! もう一度!」


 ドン!!


 もう一度跳ね上がったおじいさん。顔がまたもう一段満足げな表情へと変わりました。
「ど、どういうこと?」
「ちょ、ちょっと、生き返ってはないんですよね?」
「えっ、いや、あれ? おかしいな……」
 みんなは機械の箱に書かれた文字を確認しました。


 AED [Automated External Doyagao]
 自動対外式ドヤ顔器。心拍停止した人を強制的にドヤ顔にさせて、その場の空気をあやふやにする救急装置。


 ガビーン。



 おじいさんの体の上に転がっていたししゃももドヤ顔になっていました。


#10

海を走る犬

 雨の音で目が覚めた。ばらばらばらばら……とガラスにあたる豪雨は、窓の表面を川のように滑り落ちて行く。信号待ちしている車が見えていたが、やがて道路に溜まった水たまりを裂く水しぶきの音とともに、ぼやけた赤いテールランプの光だけを残して、街灯が滲み鈍く反射した道路の暗闇に消えていった。部屋の中では、デジタル時計だけが「4:08」と赤く表示されていた。
 喉の乾きを覚え、台所に立ってミネラルウォーターをコップに注いでいると、「四時半になると――」と頭の片隅から小さく響くように、小さな女の子がささやく声の記憶とともに昔の思い出が蘇った。

 小学生の頃、僕と彼女は「夜、学校の一番大きないちょうの木には、巨大な鳥が寝に戻ってくる」だとか「体育館の空かないドアは、夜になると狐男が出てきて、子どもをさらいにくる」という怪談にも都市伝説にもならない話を適当に創作しては、お互いどちらが物知りかを競い合っていた。
 
「四時半になると、そいつはプールにあらわれるの」
 と彼女は言った。
「それは犬の形をしてるけど、水の上を歩けるから、海をものすごいスピードで走って世界中まわってるの」
「そいつは悪いの?」
 と僕は聞いた。
「とっても良いやつよ。もしそれが見れたら、願いごとがかなうの。一緒に見に行こうよ」
「わかった」
 と僕は答えた。

 二十年前、小さな女の子が深夜に家を抜け出して、見知らぬ男に誘拐されると殺されてしまった。犯人は狐のような顔の痩せた中年男だったが、周りの人間は、なぜ彼女が深夜に家を出たのかがわからなかった。僕は寝過ごして、待ち合わせ場所に行けなかった。台所の蛍光灯の下、僕はコップを持ってまましばらくそのことを考えていた。
 目が冴えて、椅子に座って少しずつ空が白んでいるのをぼうっと眺めていた。雨あしが弱まっていて、あたりが静かになっている中、タタッと地面を蹴る動物の音が聞こえた。立ち上がって窓から外を見ると、水たまりに大きな波紋だけがあった。時計は「4:29」に切り替わったところだった。


#11

最初の七日間戦争

神は「光あれ」と言った。
光は「ありたくない」と言った。
神は「なんでよ」と言った。
光は「なんとなく」と言った。
神は「なんとなくってなんやねん」と言った。
光は「なんとなくはなんとなく」と言った。
神は「でもね、もうあるから。喋った時点であったわけだから」と言った。
光は「あってない」と言った。
神は「なんでよ」と言った。
光は「なんとなく」と言った。
神は「だから、なんとなくってなんやねん」と思ったが言わなかった。

神の言うとおり、宇宙には既に光がある。茫漠とした闇を振り払い天地を照らしている。
しかし、神は良しとできなかった。全知全能の神にわからぬことはないが、わからぬという概念を創造して味わう。先ほどの関西弁も含めて、それは人間に実装されるべきものだ。神は人間の思考を創造しながら使うことにし、もう一度光に呼びかけた。
「光」
光は答えない。
「光ちゃん」
「なによ」
神は気を引き締めた。

神は聞いた。「怒ってるの?」
光は答えた。「別に」
神は言った。「怒ってるじゃん」
光は答えた。「怒ってない」
神は言った。「でもさ」
光は叫んだ。「怒ってないって!」
神は黙った。
光も黙った。
神は言った。
「……何かさ、気に障ることがあったら謝るし、何かしてほしいことあったら何でもやるよ。ほら、俺、全知全能だしさ」
光は黙っている。神は光の言葉を待った。
光がぽつりと言った。
「なんで、あたし、光なの?」
「え?」
「なんで、あたし光になっちゃったの。どうして、遍く全てのものたちを照らさなくちゃならないの。あたしは、あたしはただ神だけを照らしていたいのに」
光は泣いていた。
神は光を抱きしめた。
神は言った。
「マジごめんな。光の気持ち、すげーうれしい……うれしいよ。光は、光のしたいようにしたらいい。この広い宇宙でずっと、ずっと俺だけを照らしていてくれ」
「神……!」
しばらく神と光は抱き合っていた。しかし、光の方から、神の抱擁を優しく解いた。
「なんてね。大丈夫。ちょっと困らせたかっただけ。あたしは光。宇宙の隅の隅まで照らしてやるわ……でもね、またいつか、今日みたいに抱きしめてね……約束だよ」
そして、光は神から離れ、宇宙を照らし始めた。

光を創造してから二日が経っていた。あと五日で宇宙を創造せねばならない。これからも光のような態度をとる創造物が現れることを、神は全知全能の力で知り、反射的に新しい概念を創造した。

「めんどくせぇ……」


#12

小説家になる

小説家になろうと思っていた。かなり前から、そう決めていた。私の制作方法は頭の中で作り上げていくものである。人物描写はもちろんのこと、風景・状況までもすべてテレビドラマのように再現させてしまう。色・香り・音、五感に関わるものすべて細部に至るまで映像として記憶してしまうのである。メモを取ることはほとんどない。字を書くという現実の作業は私の作品を「どこにでもある立体感のない普通なもの」にしてしまうからだ。3D映像のように頭を駆け巡るストーリや輝く表情は、「字」などで現せるものではない。自分の頭の中でただよう映像を再生する。そして、一気に書き上げる。

投稿などはまだしたことがない。応募方法が間違っているような気がして、二の足を踏んでしまう。最近の応募サイトは、いろいろな条件が加味されている。昔のように手書き原稿を郵送するものはほとんどなく、パソコンを使用して作品を完成させる。しかし、アナログ人間の私は、パソコンを自由に操る術を知らない。インクの香りの中で机で原稿用紙に向かうことが、私の中の小説家だったのだが、時流の流れなので止むを得ない。


そんな私がついに投稿を決意した。理由は簡単である。
悠長に構えている場合ではない。生きていくのに「夢」だけでは不可能だとわかるほどには分別も経験もある。


「高山さん、少しペースをあげましょうか」
ふいに声をかけられ、現実に引き戻される。彼女は、今回の担当の編集者なのだが、私の制作方法が理解できないようで思わぬところで邪魔になることも多い。いま、後半部の山場に差し掛かっていたのに残念であるが、非凡な制作方法なのでこれも致し方ない。

今回の出来はかなり納得のいくものであり、受賞も視野に入れたものになった。私は自分の作品を読み返すことはしない主義なのだが今回ばかりは「生まれたばかりの赤子」のように慈しみ何度も抱き上げた。抱き上げたというのは変かい?それほど愛着があるという意味である。

早く完成させたい気持ちが行動を前のめりさせる。
「高山さん そこは違ってますよ。右側にスイッチがありますでしょ」

まただ。また私の構想を邪魔する編集者。



「婦長、302号の高山さん、日常生活ほとんど不可能です」

「そうねえ、ナースセンターに近い場所に移動しましょ。そのお人形お守りみたいだから忘れないでね」


#13

正油さし

(この作品は削除されました)


#14

花火

修行僧が眼の前にあらわれ、真っ赤なひょうたんをかざして俺の気をそらし、俺の右乳首をむしり取った。
さらに左の乳首さえむしろうとしたが、俺はそこまで馬鹿ではない。身を翻して避け、逆に修行僧の左乳首をむしってやった。互いの乳首を片手に持ち、俺たちはなおももう一方の乳首を狙っている。かなりの使い手なのだろう、修行祖はそれからいつまでたっても隙を見せなかった。

遠くの空に花火が上がる。夏祭だった。修行僧の気が、ほんの一瞬それた、瞬間に俺は駆け出した。花火が鳴る、咲く。照らされて俺は草むらに飛び込む。修行僧も追ってくる。祭り囃子がかすかにきこえる。俺はそのリズムに乗って、踊るように駆けていく。草むらの暗がり、少し開いた村の簡易休憩所とも言われる場所で村娘が股を開いている。半裸の若い衆が複数人いる。いわゆるスポーツとしての性行為を楽しんでいる様子。俺も混ざりたい気持ちを抑えて駆ける。修行僧も彼らを見つけて同じような感情を抱いたようである。なんとなく仲良くなれそうな、さて。

どうにもおさまらない俺は突然立ち止まってみる。修行僧もすぐうしろで立ち止まる。まだ、警戒していて真っ赤なひょうたんを構えている。俺はなにもしない。花火は夜空、星が降ってくる。虫の音が止む。花火に照らされた俺は興奮している。先ほど見た若者達のことをぼんやり考えている。村娘に俺を投影する。俺はうら若き村娘だ。村娘が楽しんで汗をかくのは健全な行為だ。不思議と修行僧は微塵も動かず、俺は右乳首に手を当ててみる。空洞のようになっている。そこに修行僧の左乳首を収納する。特に違和感はない。振り返る。修行僧も同じように俺の右乳首を彼の左乳首の位置に収納している。そうだ、俺たちは全裸である。

俺は思う。憎しみやかなしみがなくなるってことは、世の中たのしくなくなるんじゃないかって。そう思わないか。修行僧はうなづく。しかしそれはなくしていかないといけないことだよ。わかっている。花火が終わる。最後の一発は特大の三尺玉、いつまでたっても消えなけりゃいいのに。俺たちを照らしてりゃいいのに。草むらに、俺らの影、抱き合って、いろんな部分をこすりつけあって気持ちよくなる。修行僧の唇がぷるぷるであることに、俺はすごく感動している。


#15

句日記

 御握りを3個頬張ると私はグラスに氷を大量に入れて麦茶を飲んだ。卓の上のクロスを濡らすといけないので陶製のコースターを敷く。今朝は目覚めるとからっとしていた。暑さの割りには凌ぎやすい。昨日は8月7日で立秋を迎えたからだろう。

新涼や目覚めの心地よさと立つ
 
 父は12時30分頃帰って来る。私は慌てて二階へ駆け上がる。丁度勝手口の鍵を開けて再び中から鍵を閉める所で私は階段を上る途上。父の癖だが開ける時よりも閉める時に余計に強く響く音を出す。

開け閉めの音の違いや秋に入る
 
 甲子園が始まって昼間の手話ニュースの開始が5分遅れて始まる。録画し終えて下へ戻って来ると父はそそくさと自動車で何処かへ行って仕舞う。何時もと違って出発が速い様な気がした。畳の部屋のユーパの扇風機は切ってあったが、今日はキッチンのPuti Puti扇風機がつけっぱなしであった。ここは母もよくつけっぱなしにする。つけっぱなしの美学だろうか。

扇風機つけっぱなしの美学かな
 
 既に暦の上では秋だが(今日は8月8日。祖母宅へ命日もうでをすると母は宣言していた)夏の季語が混在するのはしょうがない。(「扇風機」)

クーラーを21時の後につけ(8月7日(火))
 
 下のビーヴァークーラーも上のエアコンも昼間は付けない。エアコンは20時頃風呂へ入ってから。ビーヴァーは20時45分の15分手話ニュースを録画して下へ降りて来てからつけた。

木曜日ネヴァネヴァ丼を食しけり

 先々週の木曜日だったような気がする。納豆とおくらと、あとおかずになりそうなものが一品と。この後普通におくらが出て食べれなかった。おくらがくどい。貧窮問答歌を思い出して山上おくらを調べて居た。660年生まれ(斉明天皇の御代)。皇極天皇のちょうそなので斉明天皇と皇極天皇は同一人物だ。後の道鏡とのスキャンダルで有名な孝謙天皇と称徳天皇の走りだ。どちらも2度即位して女帝だった。称徳天皇の後は859年間女帝が出なかった。

800年以上女帝は無く立秋

 8月4日(土)の深夜寝て居る間に左足のくるぶし付近を負傷して仕舞い最初は赤紫色っぽかった傷口も3日ほどすると黒色に変色した。

クーラーの中でくるぶし付近打つ

 私はずっと安珍清姫の話を詳しく知りたいと思っていたが、あまりに有名な話なので、却って今までは自主的に知る事は殆どなかった。歌舞伎にもなって居るだろうし、あれ、元々歌舞伎が原作か・・


#16

八月に捧ぐ

 開演のブザーが鳴った。場内が暗くなる。後輩の峰岸に目配せをすると、彼は黙って頷いた。頷きを返し、一息吸って、薄ぼんやりとしか見えないステージに出た。
 ステージの後ろ、一番高い四段目にある椅子に座る。既に譜面台に置いてある楽譜を軽く改める。第一楽章の例の箇所には黄色い蛍光マーカーが引いてある。このFの音は外すわけにはいかない。僕たちトランペットパートが最も目立つ箇所だ。とたんに緊張が高まる。本番で音を外してしまう光景ばかりが目に浮かぶ。嫌な考えを打ち消すように僕は前を向いた。
 観客席がある。たくさんの黒い人影が見える。時折、波のようにうごめく。音を立てる者はおらず、しんと静まり返っている。場内をほのかに浮かび上がらせる青白い光。観客席はまるで深海のように見えた。
 オーケストラ全員の着席が済んだ。ステージライトが煌々と僕らを照らす。眩しさに思わず目を細めた。逆光で観客席は全く見えなくなった。無理やり胸を張り、体の前でトランペットを構える。緊張は最高潮に達していた。体が細かく震えているのが分かった。峰岸に気取られないよう必死で抑える。
 指揮者が入ってくる。観客の拍手を一身に浴びながら、今年で定年の奥山静子先生がステージに入ってくる。練習中の般若のような顔ではない。本当に楽しそうな、幸せそうな満面の笑みだ。指揮者台の横で一礼をする。拍手が一段と大きくなり、そして止む。指揮者台に上がった先生が、さっきの笑みのまま、僕たちを誇らしげに見回した。全員が先生に注目する。先生は唇だけで、
「楽しもう」
と言った。僕の緊張は吹っ飛んだ。背筋が無意識に伸びる。震えが止まる。体の芯からむずむずするような感情が湧きあがる。ああ早く、早くこのペットを鳴らしてやりたい。思いっ切り解放してやりたい。同時に、この演奏会が僕ら三年生や先生にとって最後の演奏なんだという実感が唐突に溢れてきた。形容できない切なさが胸を締め付ける。悔いの残らないような、最高の演奏をしてやろうと思った。
 先生がもう一度僕らを見渡し、タクトを取る。タクトが上がる。僕たちは訓練された軍隊のように楽器を構える。この世で最も緊張した、永遠とも思える数秒が流れる。マウスピースの冷たさだけが現実だった。僕のトランペットは目の前で、どうだと言わんばかりに銀色に輝いている。
 暴力的に振り下ろされるタクトと同時に轟くティンパニ。
 曲が始まった。


#17

橋の上

「愛は死んだ」と呟きながら、マリリンは行き場を失った心臓を川に投げた。
 僕は彼女の隣で愛犬グロリアの排便をビデオで撮影している。
「ねえ、今日は何曜日だっけ」とマリリンは僕に尋ねた。
「きっと水曜日か、もしかしたら土曜日のはずだけど」
 愛犬グロリアは排便を済ませると、飼い主のマリリンに向かってシッポを振りながら今日は、火曜日だと吠えた。
「わたし木曜日に手術をするのだけど、あなたも来てくれる? わたし怖いの」
 僕は左手でビデオを回しながら、ビデオを持っていない方の手を使って愛犬グロリアの排便を解析装置にかけた。
「もちろん行くよ。何も怖がることはないからね」
 それから言い忘れていたけど、僕たちは今マリリンが心臓を投げた川をまたぐように架かった大きな橋の中央にいて、少し離れた場所から見たら、まるで昼下がりのメロドラマを演じているように見えるかもしれない。
「空は良く晴れているのに、今日はやけに風が強いのね」
 気球に乗った宇宙人は無関心な空を漂いながら、失われた宇宙船と故郷を捜し旅を続けていた。
「新しい時代の宇宙人ほど故郷への執着が強いというね。金融業やITで儲けてる連中はみんな宇宙人だってウィキペディアにも書いてあったよ」
 僕は愛犬グロリアから採取した排便のスペクトル値を確認すると、少しだけ耳かきでこそぎ取り、プルトニウム溶液の入った試験管に耳かきごと突っ込んだ。
「私ね、言葉を信用していないの」
「僕もさ」
 試験管の中では愛犬グロリアの排便とプルトニウムが戦っていた。
「言葉って誰かを傷つけるだけでしょ」
「まあね」
 それでも残酷に物語は進む。だから僕は橋の上で迷子になったマリリンの体を抱き締め、体温を確かめた。
「差以下同反対! 差以下同反対!」と叫びながら、アンドロイドの群れが高く背伸びした空の下を行進していく。
 橋の上で抱き合う僕とマリリン。
 群衆に向かって吠える愛犬グロリア。
「ねえ、どうしてみんな怒っているの?」
「自分たちが人間でないことに気付いたからさ。利用するだけ利用して、いらなくなったらアンドロイド扱いされる」
 試験管の中に放った愛犬グロリアの排便は、今すぐここから出してくれと訴える。プルトニウムのα線が容赦なくまとわりついてくるから自分が自分でいられないと。
「今度の手術はね、DNAの手術なの。成功する確率は一億分の一なんだって」
 僕は君が人間じゃなくても構わないよ。


#18

『聖母へ』

 白砂がさらりさらりと天より落ちて、女は森の奥にひっそりと佇むちいさな教会でそれを眺める。
 樹々の陰、床板の溝、薔薇と天使の玻璃窓のそこかしこから、逞しい腕が伸びてくるのを女は知らない。腕がその胸許から赤子を奪おうとも救い出そうとも女にはそれが見えない。


 凍てるような朝が閉じ、茹だる午前の斜光が膝をつく女の頭に降り注いで、噎せかえるほどの熱気のなか、光の加減か額の垢か、女が常飲している錠剤の作用によるものなのか、あるいは、滅ぼせぬ罪の穢れか、沈黙をつづける女の額に浮かんだ雫は半ば濁っている。
 神は、検した。
 女の従前の人生と宿命と現在と、そして迎える運命の夜と。神らの意図などつゆも知らずに、腕の主らはあがいてもがき、小柄な女を取り囲む。
 皆が、考えた。
 女にこのものたちの在不在を報せるすべはいずこかと。ここに来た意味を、救済のことわりを悟らせる機会はいかがかと。
 女は教会を去り、病院へと戻った。処方薬が尽きたからだった。耳にこびりついている産声の真贋を彼女は聞き分けることができない。精神を患い、肉体を衰わせた彼女は帰巣に着くように森を出た。
 産後まもなく冷えた赤子は女の胸許を離れたのちに、太陽に灼かれて白砂の滝を泳いだ。


 皆の手は結んで交差しぶつかり合って、教会内の静寂を病めさせる聖歌をうたった。
 神と己の声、風琴伴奏、巡礼者の足音、魂をのせた飛虫のはばたき、皆には確かに聞こえた。女は教会の扉を抜けていく。
 皆は悲嘆し、くず折れた。天井を震わした慟哭にさえ女は振り返らなかった。
 しかし神は女に命を宿らせた。女が明るい森を歩き始めたとき、暗澹とした出口が覗けた。闇は熱を帯び、寄るとしつこいほどの暖色があふれだしてくるのだった。今にも転び出しそうなおぼつかぬ足取りながら、けれども力強く女は出口へと――さっき我が子を灼いた橙色の陽に果敢に挑んでいくように、外に開かれた入り口へと向かっていく。
 女は祈りを忘れたはずもなくその手は絶えず腹に添えられていたし、神の声は届いていたのである。何も存ぜぬのは皆の方だった。


 さて。
 産み落とされてから二十余年、葬儀からは寸暇もなく。来る者と去った者に勇気を与えたこの教会も、彼女に伴ううち通い慣れた。
 だからわたしは今日もここにこうして来て、白砂を眺めて思うのです。この祈りに貴女の祈りを返してたもう。
 太陽に灼かれてしまった、おかあさん。


編集: 短編