# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 遥か | 霧野楢人 | 1000 |
2 | 青い自転車 緑のアンブレラ | Puzzzle | 803 |
3 | 木枯らし | 椿すみれ | 994 |
4 | 病床 | 山本高麦 | 1000 |
5 | 老人と少女 | 乃夢 | 950 |
6 | 小指 | 岩西 健治 | 827 |
7 | 幸せは苦しみとともに | 村山 | 955 |
8 | 彼女たちの戦い | わがまま娘 | 916 |
9 | あたしのち | 金武 | 767 |
10 | 週末、河原でキャンプでもしようか | さいたま わたる | 1000 |
11 | かすみ草を折り畳む | なゆら | 831 |
12 | Egg Separator | だりぶん | 1000 |
13 | 夜 | わら | 1000 |
14 | 彼について | 朝飯抜太郎 | 993 |
15 | 十万億土の彼方にて | 志保龍彦 | 993 |
16 | 水またはお湯とともに | 戦場ガ原蛇足ノ助 | 965 |
17 | 紙片 | qbc | 1000 |
18 | 沼原 | しろくま | 523 |
墓場の縁には唐松が植えられている。黒い枝枝が高く、遠景の山々を隠している。何年そこに生えているのかは分からないが、何度訪れても、僕は「彼ら」をあまり好きになれない。ここは彼らの「故郷ではない」どころか、「彼らの存在しないこと」が本来あたりまえなのだ。けれど、未だ融け残る雪のためだろう、景色にはよく馴染んでいる。
息の根を押しとどめていた季節が終わる。来る途中、路肩に露出した地面で福寿草が咲いていた。黄色い花弁の器に降り積もるなごり雪を、僕は払わなかった。冷たそうではあったが、雪の降る場所に、特別な場所などはないから、代わりに僕は、活性を奪っていくその冷たさを愛でた。僕はまだ、確かに冬を望んでいる。
父の墓は、普通の墓石と違って横長の形をしている。両端に薔薇の彫刻があって、近代的で、初めて見た時は、少し恥ずかしかった。十年経った今はもう、父以外の何ものでもなくなってしまって、あの唐松のように、まだ好きにはなれずにいるが、やはり同時に、僕の意識には馴染んでしまっている。
雪に埋もれているが、祖父が頑張ったのか、墓に至るまでの道は、きちんと踏み固められていた。僕は駅前で買ったカップ酒を供え、一人で「父」と向き合いしゃがんでいた。法事とか、供養とか、そういう形式に従いに来たわけではない。実家から大学の街に戻る途中、その真ん中あたりで特急を途中下車して、ふらりとここにやって来たのだ。雪が降っていたから、そんな形式とは関係なく、不意に「父」に会えるような気がした。そう「誤魔化せる」と思った、といってもいい。
手を合わせたあと、カップ酒を手にとって一口含む。アルコールの香りが、酒の温度と一緒に意識の中に流れ込む。飲み込んで息をつくと、あの黒い枝枝が目に入った。僕はしばらくそれを眺めた後、不作法な事を思いついてにやりとする。
立ち上がり、周囲に誰もいないことを確かめ、僕は瓶を傾けた。艶やかな液体が墓石を濡らす。雪を融かし、彫刻の上を撫でていく。そうして僕は初めて、父と酒を一緒に飲んでいた。酔狂だ。しかし不作法は、むしろ僕と父の「秘密」を僕の中で正当化していた。
まんべんなく「父」に酒を飲ませてから、僕は残りを一気に飲み干す。それから墓石の前で胡坐をかき、目を瞑る。雪は僕らを覆っていく。
遠景の山々でクマゲラが春を呼ぶ。長い時間が在ったようだ。僕は目を開け、冷たくなった尻を上げる。
青い自転車のサドルの後ろに緑のアンブレラを突き刺して、出発の準備は整った。
自転車の漕ぎ方ならば昨日身につけた。傘の差し方だって一昨日覚えたよ。
ペダルを踏めば青い自転車は出発する。ハンドルを捻ればそっちへ曲がる。ブレーキを握れば自転車は止まる。そこが下り坂ならばちょっとペダルを踏んでブレーキをギュッとすればいい。ちょっと進んでギュッ。ちょっと進んでギュッ。そこが上り坂ならば無理せず自転車を降りればいい。ハンドルを握って自転車を押すと、ペダルが足にぶつかって痛いじゃない。左手はハンドル、右手はサドルだって?そんなややこしい押し方をすれば、自転車は右にクルリと一回転。いつまで経っても進みやしない。俺は自分の身体に見合った坂の上り方を考え出す。押して駄目なら引いてみな。簡単なことだよ。俺は自転車の前に立ち、カゴを引っ張りながら後ろ向きに進んでいく。
この辺はやたらと坂道が多くていけないね。ようやく買ってもらった青い自転車。漕ぐ時間と同じくらい、押したり引いたりしなくてはならない。俺はようやく坂の頂上にたどり着く。見渡す限り曇天。でも、大丈夫。俺には緑のアンブレラがあるからね。
一昨日は雨だった。そこで俺は何度も練習をしたんだ。アンブレラを握ってアーケードを歩く。その先っぽは真っ直ぐ下に向けてね。周りの人にぶつからないようにね。そして、アーケードの終点にたどり着いたら柄の部分の黒いボタンを押せばいい。バサッと音を立てて緑の屋根が広がる。何度も図鑑で眺めたお気に入りの通勤電車と同じ色。鮮やかな緑のアンブレラ。そいつを掲げて雨の空へと踏み出していく。水溜まりを見つければ飛び込んだ。カタツムリを見つければしゃがみ込んだ。雨には雨の楽しみ方がある。
やぁ、曇天。
この辺では一番小高い坂の上、俺は自転車の脇に立っている。そして俺は待つ。辺りにたくさんの水たまりができる程の大きな雨を待っている。
「寒い!」
屋上から里香先輩が叫んだ。僕は、制服姿で屋上の手すりにもたれかかる先輩を見上げた。
「そんな格好しているからですよ」
「そんな格好しているからでしょ」
僕の隣に座って携帯をいじっていた、同じく三年生である敦子先輩は、僕とほぼ同時のタイミングで突っ込みを入れた。
里香先輩が振り向き、薄い眉がひそめられる。
「カーディガン着てくればよかった。敦子はちゃっかり着込んじゃって」
「もう11月なのに、薄着をしているあんたが悪い」
「風邪ひきますよ、先輩。上着、貸しましょうか」
そのとき、強い風が吹いた。うわっと里香先輩が声を上げる。
「強い風。こういうの、何ていうんだっけ」
「木枯らし?」
敦子先輩が応える。
「ああ、そうだ。で、一番最初に来たやつのことを…」
僕はその答えを知っている。
木枯らし一号。
だけど僕はその答えを口に出来なかった。どうしても声が出ず、すぐに閉じた。
そうこうしているうちに、里香先輩は自力で思い出したらしい。
「あっ、木枯らし一号だ」
里香先輩は一人で声を上げ、そして遠い目をして、空を見上げた。
「今年も来たのねえ」
そう呟く声に、僕は思わず立ち上がり、言っていた。
「先輩、僕も来たんですよ」
「ああ、でもやっぱり、寒いなー。誰か上着を貸してくれー」
「里香、さっきからうるさーい」
携帯をいじっていた敦子先輩が、わずわらしそうに抗議の声を上げる。
「さっきから何一人でぶつぶつ言ってんのよ」
「だってー、寒いんだもーん」
里香先輩は頬を膨らませ、僕は自嘲的な気分になり、俯いた。
僕は寒さなんて感じない。寒いといっている彼女に、上着をかけてやることもできない。
僕もこの木枯らしになれたらいいのに。
そうしたら、貴方の柔らかい髪をなで、頬に触り、貴方を抱きしめ、そして。
ここにいることを教えることが出来るのに。
「……先輩」
彼女の横顔を見ながら、言う。
「ずっと、好きでした」
びゅうっと、風がなびき、ふわりと先輩の髪が上がった。
「……ねえ、今なんか聞こえた?」
「えー? 風の音でしょ?」
「ううん。誰かの声が…」
僕は風と同じ。貴方を見ている。だけど貴方には僕が見えない。
だけど確かに、あなたの隣にいるんです。
出来ればそれを、受け入れてほしい。来年もきっと、風とともに、貴方に会いに来る僕を。
「お盆の時期は海に入ってはいけない。足を引っ張られるから」という祖母の口癖を妄信しているわけではないが,海水浴に興じる若者の頭が波間からふっと見えなくなると,一瞬どきりとする。海草にでも足を絡ませたのだろうとの推測は容易だが,整備された海水浴場に足を引く海草があるものか。
陸に上がって久しい祖父の,陽に焼けた肩の張った体躯は漁師そのものだった。寝たきりになり木偶の坊のように言われて,乞うような眼差しを見るのが嫌で,僕は滅多に見舞いには行かなかった。背中にはたるんだ刺青があった。逝って五十年以上が経つ。
祖父の死後,祖母は長く生きた。湿布薬をよくもここまで細かく切れるなと思うくらいの小さな正方形に切って,いつも両方のこめかみに貼っていた。TVの時代劇のテロップが読めなくなると母に電話をかけてきた。「この男前の俳優は誰なの」。異性への興味を失わなかったことが長生の秘訣かもしれなかった。
母よりだいぶ若い,年の離れた姉のような看護婦がときどき様子を見に来てくれる。丁寧に清拭し,下の世話までしてくれる。初めこそ抵抗があったが,体が自由に動かないのであれば抵抗する術もない。異性への興味なぞ僕はとうの昔に失ってしまった。
いったい,この人生はなんだったのだろう。誰かを激しく愛した記憶はあるが,誰だったのかが思い出せない。誰かに愛された感触はあるが,あの身体に名前はあったのか。誰かと激昂して議論した口酸っぱい思い出はあるが,何のことであんなにムキになれたのか。いまや,耳の周りで羽音を立てる蚊すら振り払うことが出来ないというのに。
音楽に,文学に,涙を流すほど感動したこともある。出会いの喜び,別れの悲しみに忘我して徹夜したことすらある。曲の名前,小説の題,誰が僕と出会い,誰が去ったのか。まったく思い出せない。思い出そうとしないから,思い出せなくなったのか。
あれは,川を流れる水だったのだろう。水は川の形に沿って流れているように見えるが,実は,水が川の形を作っていたのだ。長く,とても長い時間をかけて川が作られてきた。
時は流れる。そして僕の時間を容赦なく潰していく。病院の窓からは,海水浴に興じる若者の嬌声が入ってくる。まだ日が暮れる時間ではないが少し暗くなってきたようだ。寝入るときにいつも思う。このまま醒めなければよいのに。夢の中で死ねればいいのに。夢で死ぬように死ねたらいいのに。
あるところに一人、老いて、片足の自由が利かない男がいた。
男の頑固なことは、有名だった。それを知らない人が周りにいないほどに。
彼はずっと一人だった。
「わしの若い頃には鉄砲の音が響いて…」
今日も彼の話を聞く者はいない。
子供は笑って指を差し、犬も猫も彼に近寄らなかった。
今日も彼は一人。
やがて彼は杖をつき家路をヨタヨタと歩き始めた。そんな彼を人は遠くから馬鹿にした。
「わしの若い頃には食べるものもなくて…」
ある日のことだった。
「それで?」
一人の少女が、彼の前にやってきた。
「お前に話とらん、関係ないからどこかへ行け」
「じゃあ一体誰に話しているのさ」
「誰のためでもない」
「じゃあ聞いてても良いじゃないか」
少女は微笑み、彼の隣に座った。
彼は何か言おうとしたが、また前を向いて話を始めた。
彼の声は普段よりも空に響いた。
それからというもの、彼女は毎日彼の隣で彼の話を聞いた。
彼のためだけに在った声は、次第に彼女のための声になった。
彼女は目を閉じ、彼の話を聞いた。
彼は、日を追うごとに優しくなっていった。遠くから馬鹿にしていた人々も、彼の近くへ行くようになった。
「わしの若い頃には、断首台に上る仲間を助けようと…」
やがて彼の話を周りの人は聞くようになった。彼の話が終わると拍手が起こることもあった。
ある日の夕方、誰もいないいつもの公園で彼は彼女に言った。君のおかげだ、ありがとう。
彼女は微笑み、彼に言う。
それなら一つ、お願い事をしてもいいかい。
彼は頷き、それに続いて彼女は、
彼を、刺した。
驚く老人を余所に、彼女は言う。
「こういう愛の形もあるのを教えてほしい。さあ、答えを。」
彼は息も絶え絶えに、優しさを失くした微笑みを浮かべる彼女に告げる。
君が来てから、毎日が少しずつ楽しくなった。君のおかげで、人の暖かさを知ることができた。
もしこれが愛だというのなら、君に殺されて死ぬのも悪くはないかもしれないな。
彼はそう話を締めくくると優しく綺麗に笑いながら、やがて熱を失っていった。そうしてあとに残るのは、少女のため息と、少しばかりの、
少女はそのあと、これが愛だというのなら、私の行為も愛なのか、と、誰に言うでもなく問い、もう動かない彼の隣であの日のように目を閉じるのです。それはこの空間に冷たく寂しい風が吹いた後のお話です。
小指で今までのこと全部チャラにしちゃってもいいよ。
「こゆび?」
「そう、小指」
化粧をしてこなかったわたしはユニクロのフリースにジーパン、素足にサンダルという格好でサトシの前に座った。店内はしんと静まりかえっていて、わたしの座ったビニール椅子の間抜けに抜ける空気音だけがやけに響いて聞こえた。わたしたち以外ほかに客はいない。店の外からは雨を切り裂き踏みつぶす車の音がある一定の間隔をもって聞こえていた。夕方から降り続いたままの雨が九月だというのに少し肌寒さを感じさせた。
深夜の店内は原色に近い色の照明が灯っていた。人工のオレンジ色はわたしの左頬だけを強く照らしていて、まるでそれが血に染まった心霊写真のように雨を遮るガラス窓に映り込んでいる。
向かいに座る右頬を照らされたサトシがタバコに火を着けた。手慣れた動作の後、吸い込んだ煙りを静かに口から吐きそれを鼻の中に戻す。煙りはサトシのまわりに充満して空気の中で微かに揺らいで見えた。その揺らいだ空気の中でサトシは煙りの輪っかをいくつか作って吐きだしていた。
(サトシが怒ったときの仕草だ……)
わたしは出されたホットをブラックのまま啜り左腕をさすった。指先に触れたフリースが何だか弱々しくて、テロンテロンって何だかおかしな響きだな、などと思った。
(小指をどうするんだろう?)
サトシの言葉が頭の中でまとまらないでいた。確かにわたしが悪いのだろうし、まさか、ヤクザ間の抗争じゃあるまいし、小指を切断してそれでチャラってことでもないだろう。
「小指をどうするの?」
吐ききらないタバコの煙りがサトシのまわりに充満している。サトシは無言のまま三穴コンセントを上着のポケットから取り出してテーブルの上に置いた。
硬質で油の染み込んだテーブルは、人工のオレンジ色をいい加減に反射させながらその三穴コンセントを受け入れた。ゴトンと店内に高音が短く響き渡る。その音でわたしの身体がビクンとなって顔が熱くなるのが分かった。
中年の男性は、黙々と小説を書き続けた。雨の日も、晴れの日も。
彼は誰か。一人の小説家でそれ以上でもそれ以下でもない。
他に仕事なんてしちゃいない。
「次はこんな作品を書こう。」
物語は、あるカップルの恋愛。事故で、言葉を一つ発する毎にその言葉の意味を忘れてしまう障害を脳に抱えてしまった男を支える女。筆談で二人は暮らしていたが、どうしても口で伝えなければいけない事がある。
『ねぇ、愛していると言ったら、君の事も忘れてしまうのかな、愛。』
その小説は売れた。
『また僕は誰かを好きになるかもしれない。例え忘れる事になっても、君の為に愛しているという言葉を、気持ちを捧げられるのならそれは本望だ。』
移ろいやすい人の気持ち、しかしそれでも一人の女性を愛したいという気持ちを病気から受けるマイナスの要因をプラスに変える男の行動が世に感動を与えたから。
「次はこんな作品を書こう。」
男は気づけば涙を流していた。自分の小説に感動した訳ではない。辛くて泣いた訳でもない。気づけば涙が出ていたのだ。
「なぜかはわからないが涙がでる。これは困った。小説が書けない。」
しかし、ここで男はある事に気づいてしまう。
「なぜ、私は小説を書いているのだ。」
男は忘れてしまっていた。いつしか小説を書く事が目的になっていた事に。初めは手段に過ぎなかった事にも関わらず。振り返ってみれば、大量に積まれた男の小説。何十種類も書いてきた。どの小説も結末は同じ、悲しい物語。恋愛小説で最後は男が振られてしまうもの。どれだけ愛しても届かない小説。
彼は何を伝えたかったのだろう。
数十年前、ある大学生のカップルがいた。
どこにでもいるカップルであった。
大切に、大切に愛した彼女。お互い初めての相手だった。これ以上のパートナーなんていない、心から愛し合っていた。しかし、苦しみとは幸せに比例して大きくなるもの。幸せな日々だけではなかった。少しの衝突、少しの価値観のずれが、愛しているからこそお互いを苦しめた。その結果、二人は嫌いにならないよう離れてしまった。
男は約束して彼女の元を去った。
『ぼくは遠くに行くけど、きっと二人が上手くいく為の答えを見つけて迎えに行く。その答えを、僕は小説にしてきみに届けるよ。』
男は、なぜ小説を書いているのか忘れたまま、また新しい小説を書き始める。
片思い中の女の子は何故にあんなにパワフルなのか。理由は意中の彼しか見えないからだと思う。彼に気付いて欲しいと思う故に、きれいになりたいと思い、自分を磨き始める。大半は外見を磨くわけだが、それには並はずれた努力をする。
肌のお手入れは、産毛一本でさえも妥協はない。というか、そんなものあってはならない。目指すは、ツルツル、スベスベのきめ細やかな白い肌。入浴剤にローションに、あらゆるツールを用いて彼女達はお肌を磨く。
男の人はみんな大きな胸が好きだから、きっと彼も大きな胸が好きなんだと思って、毎日せっせとバストアップマッサージも行う。彼に、大きくて柔らかいね、って言ってもらえる日を夢見て。
唇のお手入れも欠かしてはならない。カサカサのくすんだ色の唇なんてありえない。プリプリ、ツヤツヤの唇を目指してクリームをつけて、十分に潤す。時には、ローションパックだってする。唇は特に重要なのだ。いつも服の中で誘っている胸なんかより、キスしたいって思わせる妖しい唇のほうが、彼には何倍も効果があることを知っているから。
瞳だって、大きいほうがかわいい。カーラーでまつ毛をしっかりカールさせて、瞼も二重に。それでも足りないようであれば、付けまつ毛をしてボリュームをかせぐ。
服のセンスも、髪型さえも彼の好みに合わせて変える。もちろん、シャンプーもトリートメントもフレグランスも彼の好きな香りのモノを使用する。
そんな彼女達を見ていると、恋は盲目、というのも頷ける。盲目中の彼女達には意中の彼しか見えず、それ以外の何物も何者も視界には入らない。ただひたすら、意中の彼に向かってまっしぐらだ。
そこまで努力して、万が一意中の彼に実は彼女がいたり、好きな人がいたりしたらどうするのだろう? 彼を奪い取るつもりなのか?
もちろん中にはそんな女の子もいるだろう。でも、大半はきっと努力したぶん、時間を費やしたぶんだけ、絶望して、泣いて、泣いて、泣いて、泣いて……。涙が枯れ果てて、もう恋なんて二度としないと心に誓う。
それでも、新しい出会いから再び新しい恋に出会う。一瞬の躊躇いが生じる。しかし、彼女達は再び彼一色の日々に戻っていく。
次こそは、幸せになるんだと心に決めて。
あたし?
アダ名は下山総裁。
そこ!みなまで言うな!キャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャーキャー
昔あるところに青年がおりました。青年はとても暇を持て余していたので、近所の川へ釣りに出かけることにしました。十間ほどの川幅に、水が囂々と流れています。爽やかな五月晴れの中、早速岩場に腰をおろし釣り糸を垂れました。しばらくすると、上流から派手な色のカヤックが一艇やってくるのが見えました。女性のようです。彼女は、華麗なパドリングでエディをつかまえ艇を止めると、青年に声をかけてきました。
「こんにちは」
「こんにちは」青年と同い年くらいでしょうか、見るからに活発そうな女性です。
「何が釣れるんですか」
女性の問いに、青年は思わず口ごもりました。釣れるもなにもありません、そもそも餌どころか、針さえつけてなかったのです。青年が窮していると、突然、ビビビと竿が振動しました「うわっ」
次の瞬間、青年の両腕はものすごい力で引っ張られました。川に引きずりこまれそうになりながら、青年は必死の形相でカヤックの女性に助けを求めます「何かがかかったようです、すみませんっ手伝ってくださいっ」
青年の叫び声に、慌てて女性も岸に上がり駆け寄ります。そうして青年を支えるため、背後から両手を体に回しました。
「すごいですねー」
「はい、すごいです」
ふたりが、渾身の力を込めて竿を引くと、釣り糸の先に地面のはじっこが引っ掛かり、徐々にめくれあがってきました。めり、めりめりめり。ふたりは後ずさりました。めりめりめりばりばりばり、ごごごごご……竿に導かれ、巨大な土の壁が眼前に立ち上がります。めくれ上がりできたくぼ地に、どどど、どっと川の水が浸入しました。
「どんどん下がってくださいっ」「了解ですっ」
ふたりは竿をかついだまま後ろ向きに小走りとなって、阪神方面へ下がっていくと、めくれ上がった地面はその勢いで、ふたりの頭上百八十度きれいに半孤を描いて越えて行き、そして、ばっしゃんとその身を瀬戸内海に打ちつけたのでした。
「その時にめくれ上がった地面の痕がこの琵琶湖で、釣り上げ落ちた塊が淡路島だよ」
食卓に地図を広げ、わたしは膝の上の息子に語りかけた。息子は頬を紅潮させ「それ、本当なの」と首を傾げる。
すかさず台所から妻が「あら、本当よ、それがママとパパの出会いなの」
部屋の奥からでてきた娘が「そしてこれが、その時の釣竿」と息子に竹竿を手渡す。
すげえ、息子の目ん玉は、地図と私と妻と釣竿の間をぐるぐるといつまでも回り続けた。
空に口を向けている女が一人、私は彼女に聞く、
「どうして空に口を向けているのですか?」
女はその体勢のまま応える、
「雨を飲んでいるの」
やがて女は喉を鳴らすごくごくごくごく。
雨が止んでもう数年経ったはずだ。すでに雨が降っていた記憶もない。けれど、女は雨を飲んでいる。つまり彼女は虚空を飲んでいる。雨の記憶を飲んでいる。
「美味しいのですか?」
「美味しいわけがありますかいなあなた、雨は無味無臭です」
「そうでしょうね」
と言ったものの女があまりに美味そうに飲んでいるのでうらやましくなる。
「私も飲んでいいですか?」
「雨はみんなのものです、遠慮なく飲んでください」
それでは、と私も空に口を向けてみる。思い切り吸い込んでごくごくと喉を鳴らしたい。もちろんそう簡単に鳴るわけがない。雨は実際に降っていないのだ。必死で私は雨の記憶を追う。私の中の脳幹の隅に存在するであろう雨の記憶を手探りで追っていく。闇雲に追ったせいで、私の記憶のうちの父の部分がぐちゃぐちゃになる。
ふいに浮かんできた私の父はバニーガールである。聴衆に笑顔を振る舞うがてら、バニーガールの丸い尾はむくむくと隆起している。男性である証拠だ、と私は自分を納得させる。むしろいつまでも若々しい父を誇らしく思う。彼の尾ははち切れんばかりである。その先をつついてみる。丁寧にゆっくりとつつくと、父はわけのわからない叫び声をあげ、なにか白い液体を放つ。尾から四方八方に飛び出すその液体は地面にふりそそぎ、地中深くへしみ込んでいく。緑の生物郡が瑞々しさを取り戻す。瞬間、私は雨の記憶をつかみ取る。なんという、甘み、苦み、渋み、辛み、酸味、旨味、もう、すべてがつまっている。私は夢中で喉を鳴らす。雨の記憶を夢中で貪る。腹が膨れてくる。もう限界が近い。
苦し紛れに女を見る。隣の女は下を向いている。裏切り者、と私は思う。女はかすみ草を丁寧に折り畳んでいる。私の視線を感じたのかこちらを向き、かすかに歪んで言う、
「冬将軍がやってきます」
大鍋に水を張り、コンロの上に乗せて強火にかける。まな板を用意し、玉ねぎ一個を半分に切り、半分はみじん切り、半分をくし切りにする。それをまとめてフライパンに流し入れてエクストラバージンオリーブオイルをたっぷりかけ、中火にかける。コンロに乗せた大鍋の水が沸騰するまでの間、フェットチーネのパスタを一握り掴み、冷蔵庫から卵一個とパンチェッタを取り出しておいておく。玉ねぎをゆっくり炒めながら、パンチェッタに1cm幅にスライスして塩こしょうをまぶす。玉ねぎが少し透明になってきたところで、パンチェッタをフライパンに入れて合わせて炒める。
イタリア人の友達のレシピによると、イタリア式のカルボナーラは生クリームは使わないし、卵黄と卵白わけることなく両方使う、とのことだった。パンチェッタをわけてもらい、簡単だから試しに作ってみろ、と言われたので作ることにした。
フライパンの様子を見つつ、大鍋の水が沸騰したのを確認し、水が少し白く濁るくらいに塩を入れる。取り分けておいたパンチェッタを鍋の真ん中に垂直に立て、鍋のふちで均等に開くように、時計回りに少しねじり離す。鍋に全て沈め、時間を計る。パンチェッタに焦げ目がついたのを確認し、フライパンの火を止めた。
一段落して、確かに簡単だなと思いながら、一息ついていると、そんな様子をエッグセパレーターが見ていた。彼は陶器製で、頭が極端に大きい鶏の姿をしているが、その頭はおでこの上で水平に切り取られ、脳があるはずの部分は空洞で、その空洞は彼の口と繋がっていた。彼の役割は、その空洞に入れられた卵を卵白と卵黄に分け、口から卵白のみ吐き出すことだった。
彼は「おいしそうだね」と言い、「それが本場式ってやつなのかい?」と続けた。うん、そうらしい、と答えると、
「ところで、カレーライスは和食に入ると思うかい?」
と急に尋ねてきた。ちょっとわからないな、と答えると
「元々はイギリス料理だけど、でも日本で独自に改良されてきたものだ。そういう意味では、今では和食と言えるだろ?」
そうだね、と答えると
「卵黄と生クリームを使うカルボナーラはどうなんだ? 本場ではそうやって作らないんだろ? そう意味では和食だよな?」
ちょっと違うんじゃない、と答えると
「俺はずっと日本の為に働いてきた。日本が好きなんだ。俺は、俺を必要としている場所を探しに行くさ」
と言って、台所の窓から旅立っていった。
速達の必要はないが午前の集積に間に合わせなければならないという、厄介な書類を作り終えたのが午前四時。郵便局が開くまで起きているのは論外だ。しかし封筒を軽く放り上げながら、はかりを買おうと思ったのはこれで何回目だろう。重さに不安がある。九十円切手を買えば確実だが、十円が惜しくて逡巡する。財布とライター、切手の貼られていない封筒を手に外に出る。鍵はかけない。
寝静まった住宅街は、適切に配置された街灯のおかげで明るくも暗くもない。コンビニまでは徒歩一分。よく見る店員が菓子を補充している。客は若い女が一人。すごい露出。エロい。雑誌コーナーへ回るが、素通りする。アイスを物色しているエロい背中に視線を投げてレジに向かうと、急いで補充から戻った店員に切手の値段と煙草の銘柄を告げる。夜勤は大変だ。頭がうまく回らないのか、切手と煙草で混乱している。釣り銭を受け取りながら礼を呟く。店員は黙って補充に戻る。
店を出ると煙草に火をつけて歩き出す。道を渡ればポスト。コツコツと耳慣れない音がして振り向くと、老人がひっきりなしに杖をついて歩いている。盲の人だと気づく。さらに振り向くと、エロい背中はまだアイスを決めかねている。煙を吐くと同時に向き直り、道の真ん中で左右を眺める。車が来ていたら轢かれている。遠くで信号が変わる。
ポストに封筒を投函し、手を合わせる。祈るような類のものではないのだが。思えばメールが主流の今、ポストに投函するのは多くが祈るような類のものかもしれない。
煙草がまだまだ長いから、帰りは誰も使わない歩道橋を渡ることにする。普段使わないだけに、歩道橋の上から見る景色は新鮮だ。東の空が微かに明るくなっている。歩道橋の壁面はずいぶん錆びている。蹴ってみる。間抜けな音が響く。
降りるとさっきの老人とすれ違う。煙草を手にしている手前、距離をとって道を譲る。それで歩き煙草の罪悪感が贖われるでもなく、そもそも実は罪悪感もない。振り返ると、ゆっくりだが慣れた足取りで老人は歩道橋を上っている。この歩道橋がなければ彼は道路を渡れない。こんな時間でなければ彼は散歩を楽しめない。不意に老人の実感のようなものに触れた気がして立ち竦む。
指をはじいて灰を落とすと、煙を口に含みながら再び歩き始める。コンビニの前を通るついでに灰皿に煙草をねじ込んで、はかりを買おうと呟く。向こうから微かにコツコツと音がする。
「まず彼の異常な性的嗜好について述べましょう。彼は低年齢の女子、つまり幼女にしか興味を持ちません。成人女性のポルノグラビア、ビデオ、それらの類が彼の興味をひく事はありません。実際、彼は半裸の私を見ても顔色一つ変えない。彼が現在興味を抱いている女子も把握しています。もちろん小さな女の子です。彼は彼女を遠くからずっと眺めていたり、時には近づいて悪戯に及ぶこともあります。私達は出来る限りそれを防ごうとしていますが、四六時中見張るわけにもいきません。彼の毒牙にかかった女の子はたくさんいます。私達は、彼女たちの涙を拭いて慰めることしかできません。
彼の類まれな残虐性についても触れておかねばなりません。彼は自分より小さい生き物を虐める事にこの上ない喜びを覚えるようです。小さな箱に生き物を閉じ込めて死ぬまでうっとりと眺めたり、大量の生き物を集めて水で溺れさせたり、直接手で握りつぶしたり、行為は日課のように続けられています。私は一度、彼が踏みつけて生き物を殺そうとしたのをたしなめた事があります。すると彼は最初きょとんとして、そして笑ったのです。誤魔化すでも怒り出すでもなく、ごく自然な笑顔で……。私は生まれて初めて笑顔が恐ろしいと思いました。
最後に彼の特異な独占欲について。彼は、時折自分で制御できないほど感情を爆発させることがあります。それは『自分のもの』が誰かにとられそうになったときです。彼は『彼のもの(ほとんどの場合、彼の勝手な思い込みで決まる)』を誰かが勝手に触ったり、持っていこうとしたとき、突如泣き喚き、暴力を振るうのです。そうなると彼が持っていたわずかな社会性すらも消え、周囲の人間を巻き込みながら爆発するのです。私には彼につけられた傷がいくつもあります。
その傷を見るたび、私は確信するのです。彼の異常な『独占欲』がやがて、いたいけな『幼女』へと及び、おぞましい『残虐性』を発揮することを。私は彼が恐ろしい。凶悪な犯罪者の資質を持つ彼と日中一緒に過ごすことなど、もはや、できないのです」
「それは幼稚園児としては普通なのでは……」
「普通? 普通って何だ! これだからゆとりはッ!」
「先生」
「戦争を知らない子供たちは帰れ! 休みたいっ! 子供なんて嫌いだっ!」
「先生、落ち着いてっ……!」
「若さって何だ! 平成生まれは死ね! 結婚したいっ!」
とりあえず、休暇はもらえた。
操縦席は狭かった。外から見ると球形をしたその中に入っていると、窮屈さと同時に、安心感も覚えた。一種の胎内回帰願望によるものだろうか。だが、この場所は母の子宮とは真逆の性質を持つ場所だった。僕はこの鉄の棺桶の中から反物質兵器を操り、敵と戦わなければならないのだ。非情なる他星系からの侵略者、異種知性体と。
彼等が奇襲攻撃をしかけてきたのは、僕がまだ十二歳の頃だった。突然の攻撃に為す術もなく、世界各地の主要都市は破壊されてしまった。彼等が友好的な存在でないことは明白だった。それでも僕達の代表達はなんとか彼等と接触をはかり、戦闘を中止させ、交渉のテーブルにつかせようとした。何故なら、彼等はれっきとした知性体であり、大まかな生体組織が僕達のものと相似していたからだ。同じ知性体同士なら解り合えると僕達は信じていた。だが、その期待は彼等の第二次総攻撃によって裏切られた。そのとき、僕が住んでいた街も爆撃を受けた。通っていた学校も、思い出深い公園も、そして僕が好きだった女の子も、全部焼き尽くされた。戦闘員、非戦闘員の区別なき虐殺に到り、ようやく僕達は気づいた。彼等の目的が奴隷を必要としない先住民絶滅後の植民地化であると。
そして、僕達の反撃が始まった。幸いにも科学力のレヴェルでいえば、僅かにこちらの方が上回っていた。僕達は彼等を押し返し始めたのだ。戦闘は地上・空中から宇宙空間へと移動した。そこで五年以上も一進一退の攻防が続いた。その間に僕は適性年齢に達し、軍人になった。自分が想像していた以上に才能があったらしく、初陣で初の撃墜を達成すると、その後も戦闘に出る度に撃墜数を伸ばしていき、何時の間にかエースと呼ばれるようになっていた。
最初の奇襲攻撃から七年の月日が流れ、僕達はついに敵を本星まで押し返すことに成功した。僕達の大艦隊が今彼等の星へ総攻撃をかける為の最後の準備をしている。
手元のスイッチを押すと、眼前のディスプレイに笑顔を浮かべた少女の映像が浮かんだ。僕が好きだった女の子。彼女の為にも、僕は勝利しなければならない。「絶対に勝つよ」と呟き、彼女の姿を消した。代わりに敵の本星が映し出された。僕は憎悪を抱きながら、それと相反する感情を抱いていた。自分でも不思議だったが、この感情は本物である。敵の本星を見る度に僕は感動してしまう。
なんて青くて美しい惑星なのだろう、と。
わたしには、足りないものがある。
失われていくものがある。
余計なものもままある。
日々の暮らしはままならない。
スイカのチャージ画面の一万という選択肢にタッチしたい衝動が北方騎馬民族の視覚的イメージを伴って肘のあたりまで駆け下りてきたのを感じて、わたしは慌てて手を引っ込める。それがどこで生じたものなのかまるでわからないけれど、二の腕がむずむずしているから、そこに落ち着こうとしているのかもしれない。少なくとも、身体から出ていこうという気配は感じられない。
一万どころか五千にすら触れたことがないのだと言ったら、きみは笑うかもしれないけれど、千円札が何枚か飛び出してくるところが、実際どうしようもなく、わたしは好きなのだ。
これは戦いに備える行為だから、月曜日では遅過ぎるし、休日には血生臭い。人との距離が少し離れて感じられる、金曜日の夜にこそふさわしい。
いつもよりどこか優しく響く自分の足音を聞きながら長い坂を下りるとき、わたしはまさに坂を下りることを考える。踵を打つアスファルトの感触や視線の上下動、髪と空気との接触といった微細な感覚を楽しめるようになったのは、つい最近のことだ。
坂を下りきると、コンビニが視界に入る。次善の厨房、次善の冷蔵庫、次善の倉庫といった具合に活動範囲を広げていって、いつしか最善の施設のような顔をするようになったコンビニは、ままならなさの象徴のようであり、わたしはちょっと苦手だ。
しかし、いやしくも現代人を名乗る者が、利便性を否定したところで仕方がない。仕方がないと思うこともまた、仕方がない。
暗い駐車場の明るい自動販売機の前を通り過ぎれば、きみの待つ家はもう目の前だ。
沢山の葉酸、目がくらむほどのクロム、ふんだんなマンガン、倦むほどのカルシウム、盛り沢山のパントテン酸、夥しいナイアシン、無尽のセレン、山盛りのモリブデンといったようなものよりも、ただきみがそこにいるということが、わたしの一日に張り合いと規律をもたらしている。
それは悲しい規律かもしれないけれど、わたしはきみを飲まずにはいられない。決まった時間に、決まった量。
鍵穴に鍵を差し込むハンドアイコーディネーションが最近衰えた気がする。自分の家の玄関先でもたつくのはしかし、それはそれでいいんじゃないかという気がしている。
プラスチックの白い、絵の具の筆洗いの容器に筆先を落とす。筆先から落ちた絵の具が、円く紫のクラゲの糸のように水を漂う。混ぜると形を失って攪拌する。
透き通った水の底の空に浮かぶ、無数の泡が瞬く。水面(みなも)の上に流れ星が薄く二本の線を引く。新しく引かれたその上で、くすんだオレンジ色の二両の電車が汽笛を鳴らす。十字星が信号を模る。遠くの満月が暗い光を伸ばしている。
車掌のいない車両に、表情の見えない乗客達が動かず腰を下ろしている。子供の影が膝を立てて外を覗いている。時折踏み切りの音が水の中で振動する。電車が音を生んでは消し去ってゆく。
水平線上にある彼方に燈る黄色い光。浅く顔を出した地面の上に、四棟の四角い家が建っていて、自分達のための光を漏らしている。その光が消えると、一瞬辺りは暗闇へと変わり、そして空と水面は更に青みを増し、色彩をも感じるまでに、家と島と雲の影を浮かび上がらせた。
知らずに夜も更けていた。彼女だけの美術室の後ろで、耳の垂れた茶毛の子犬が、片付けられず残っていた刷毛で遊んでいる。
洗われて、置いてあった色を作るステンレスの灰皿に、彼女は鞄からミルクを出して注ぎ、子犬に与えた。彼女はその犬を、一人内緒で飼っていた。