第119期 #16

八月に捧ぐ

 開演のブザーが鳴った。場内が暗くなる。後輩の峰岸に目配せをすると、彼は黙って頷いた。頷きを返し、一息吸って、薄ぼんやりとしか見えないステージに出た。
 ステージの後ろ、一番高い四段目にある椅子に座る。既に譜面台に置いてある楽譜を軽く改める。第一楽章の例の箇所には黄色い蛍光マーカーが引いてある。このFの音は外すわけにはいかない。僕たちトランペットパートが最も目立つ箇所だ。とたんに緊張が高まる。本番で音を外してしまう光景ばかりが目に浮かぶ。嫌な考えを打ち消すように僕は前を向いた。
 観客席がある。たくさんの黒い人影が見える。時折、波のようにうごめく。音を立てる者はおらず、しんと静まり返っている。場内をほのかに浮かび上がらせる青白い光。観客席はまるで深海のように見えた。
 オーケストラ全員の着席が済んだ。ステージライトが煌々と僕らを照らす。眩しさに思わず目を細めた。逆光で観客席は全く見えなくなった。無理やり胸を張り、体の前でトランペットを構える。緊張は最高潮に達していた。体が細かく震えているのが分かった。峰岸に気取られないよう必死で抑える。
 指揮者が入ってくる。観客の拍手を一身に浴びながら、今年で定年の奥山静子先生がステージに入ってくる。練習中の般若のような顔ではない。本当に楽しそうな、幸せそうな満面の笑みだ。指揮者台の横で一礼をする。拍手が一段と大きくなり、そして止む。指揮者台に上がった先生が、さっきの笑みのまま、僕たちを誇らしげに見回した。全員が先生に注目する。先生は唇だけで、
「楽しもう」
と言った。僕の緊張は吹っ飛んだ。背筋が無意識に伸びる。震えが止まる。体の芯からむずむずするような感情が湧きあがる。ああ早く、早くこのペットを鳴らしてやりたい。思いっ切り解放してやりたい。同時に、この演奏会が僕ら三年生や先生にとって最後の演奏なんだという実感が唐突に溢れてきた。形容できない切なさが胸を締め付ける。悔いの残らないような、最高の演奏をしてやろうと思った。
 先生がもう一度僕らを見渡し、タクトを取る。タクトが上がる。僕たちは訓練された軍隊のように楽器を構える。この世で最も緊張した、永遠とも思える数秒が流れる。マウスピースの冷たさだけが現実だった。僕のトランペットは目の前で、どうだと言わんばかりに銀色に輝いている。
 暴力的に振り下ろされるタクトと同時に轟くティンパニ。
 曲が始まった。



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