第118期 #7

幸せは苦しみとともに

中年の男性は、黙々と小説を書き続けた。雨の日も、晴れの日も。
彼は誰か。一人の小説家でそれ以上でもそれ以下でもない。
他に仕事なんてしちゃいない。

「次はこんな作品を書こう。」
物語は、あるカップルの恋愛。事故で、言葉を一つ発する毎にその言葉の意味を忘れてしまう障害を脳に抱えてしまった男を支える女。筆談で二人は暮らしていたが、どうしても口で伝えなければいけない事がある。
『ねぇ、愛していると言ったら、君の事も忘れてしまうのかな、愛。』

その小説は売れた。
『また僕は誰かを好きになるかもしれない。例え忘れる事になっても、君の為に愛しているという言葉を、気持ちを捧げられるのならそれは本望だ。』
移ろいやすい人の気持ち、しかしそれでも一人の女性を愛したいという気持ちを病気から受けるマイナスの要因をプラスに変える男の行動が世に感動を与えたから。

「次はこんな作品を書こう。」

男は気づけば涙を流していた。自分の小説に感動した訳ではない。辛くて泣いた訳でもない。気づけば涙が出ていたのだ。
「なぜかはわからないが涙がでる。これは困った。小説が書けない。」
しかし、ここで男はある事に気づいてしまう。
「なぜ、私は小説を書いているのだ。」
男は忘れてしまっていた。いつしか小説を書く事が目的になっていた事に。初めは手段に過ぎなかった事にも関わらず。振り返ってみれば、大量に積まれた男の小説。何十種類も書いてきた。どの小説も結末は同じ、悲しい物語。恋愛小説で最後は男が振られてしまうもの。どれだけ愛しても届かない小説。
彼は何を伝えたかったのだろう。

数十年前、ある大学生のカップルがいた。
どこにでもいるカップルであった。
大切に、大切に愛した彼女。お互い初めての相手だった。これ以上のパートナーなんていない、心から愛し合っていた。しかし、苦しみとは幸せに比例して大きくなるもの。幸せな日々だけではなかった。少しの衝突、少しの価値観のずれが、愛しているからこそお互いを苦しめた。その結果、二人は嫌いにならないよう離れてしまった。

男は約束して彼女の元を去った。
『ぼくは遠くに行くけど、きっと二人が上手くいく為の答えを見つけて迎えに行く。その答えを、僕は小説にしてきみに届けるよ。』

男は、なぜ小説を書いているのか忘れたまま、また新しい小説を書き始める。



Copyright © 2012 村山 / 編集: 短編