第117期 #16

落としもの

 埃ぽくて薄暗い喫茶店の観葉植物のあいだを、彼女はねずみみたいにチョロチョロと通り抜けてゆく。僕はそれを急ぎ足で追いかける。一足先に奥の席に腰かけた彼女がこちらを振り向いて手招きしてくれた。今日初めて見るワンピース姿がまぶしい。
 シートが少し破れ、黄色いスポンジが覗いている一人がけのソファに、彼女と机を挟んで座る。喫茶店なんて初めてなのに、なぜだかとても落ち着くのだった。店中を満たしているコーヒーの香りのおかげなのかもしれない。
「ごめんね、わざわざ来てもらったのに、こんな天気になるなんて」
人生初デートにタイミング悪く近づいていた台風は昨日通り過ぎてくれたはずだったのに、今日はあいにくの雨だった。
「それは根岸くんのせいじゃないでしょ?」
それにさ、と彼女は続ける。
「雨は嫌いじゃないから」
小さな窓を見上げる彼女につられて僕も外を見る。鈍色の空、けだるい水滴が一定のリズムで軒先から落ちる。
「……ここへは、よく来るの?」
「うん、この席で本読んだりぼーっとしたりするの、好きなの」
マスターらしき渋いおじさんがやってきて、一杯のコーヒーを彼女の前に置いた。頼んでもいないコーヒーとは、やはり相当な常連なのか。僕は少し嫉妬した。僕もコーヒー、とだけ言う。
「台風は雨雲を全部さらってくものだと思ってたんだけど、そうでもないのかな」
僕の記憶の中では、台風の次の日はいつもスカッと晴れていた。彼女は考え込むように視線を泳がせた後、呟くように、
「台風も、忘れられたくないんじゃないかなぁ」
と言った。
 僕がなんだかその言葉にやられてしまって、うまく返事が出来ずにいると、
「虹! 根岸くん、虹が出てる!」
いつかドラマで見たように千円札を机に置き、あわてて彼女を追いかけた。

 雨上がりの歩道橋から見る夕方の空は赤や紫や青や橙や灰をぐちゃぐちゃに混ぜたようなすごい色で、それに向かってくっきりとした虹が地面からぶっとく伸びている。彼女は柵から身を乗り出してはしゃいでいて、僕はすぐ前でぶらぶらと揺れる彼女の左手を握ってもいいものか逡巡する。何してんだ、ほら握れ、さあ、早く、男だろ!
「ねえ」
彼女が不意に振り返り、僕は伸ばしかけた手をあわてて引っ込める。虹の色がいっそう濃くなった気がする。いたずらっぽく彼女が笑う。
「言い忘れてたけど、さっきの、私のお父さん」
僕は小さな嫉妬と恥ずかしい千円札を思い出し、両手で顔を覆った。



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