第115期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 算術 かみつれ 458
2 多機能傘 ロルフィア 803
3 11,38 レインボウランナー 深山 1000
4 私と貴方と時間と地下牢と。 乃夢 957
5 六畳一間のハウスロッカー Puzzzle 852
6 壊れたラジオを傍らに 八海宵一 1000
7 とある日常の一場面 作楽幸綴 994
8 青春 しろくま 443
9 魔王 なゆら 999
10 三浦 1000
11 しなぷすくん 金武わかち宗基 437
12 きのこ 能見煌兵 1000
13 キルト 皆本 1000
14 マスターベーション とげとげシープ 1000
15 世界遺産 qbc 1000
16 思い出の海 わがまま娘 888
17 サイレン Y.田中 崖 1000
18 『さらば、愛しき火星床の軍隊よ』 吉川楡井 1000
19 さばくの鯨 euReka 1000

#1

算術

 娼婦の娘はよだかと言う。安達よだか、苦労人の響きがある彼女は、まるで恥じなく不幸人の癖(へき)がある。制服に着られている小さな体も、言葉を失くした白い喉も、片方しか持っていない上靴も、あれは全部、母親がああなので仕様が無いのです。
 僕は彼女が好きなのかもしれません、いや、しかし。
 半透明みたいな彼女を一目見たくて、僕は足繁く図書室へ通っています。今日の図書室は、僕と安達の二人分の影しかないようで、なにやら心がざわめきました。出入り口付近の本棚に紛れて、僕は隙間からちらちらと、ひっきりなしに覗き見てはいつもと同じに彼女の読書を観察します。
 彼女は今日も、宮沢賢治の「よだかの星」を空で言えるんじゃないかってくらいに随分と読み込んで、読み込んでから茜の図書室をするりと本棚まで歩いて行った。
 僕はあくまでさり気なく彼女を尾行する、暫く、彼女が席に戻ったのを視認してから、ポケットをまさぐって栞を取り出した。カモミールの模様の、小さなその紙を僕はそっと「よだかの星」に滑り込ませる。
 窓には一等星が張り付いていた。


#2

多機能傘

目の前のテーブルに置いてあるのは飲みかけのアイスコーヒーとストロー。そのそばには、目立って面白くもない短編小説。ページに挟んだ芸者が写っているカラフルな栞から、3分の1しか読んでいないことが分かる。

町の住民を牛耳る夏の蒸し暑さから逃げ、この喫茶店に入った。遠くからピアノで弾かれたジャズ曲が流れてくるが、お客さんの話し声をかき消すこともできないくらい微かである。僕は入口のところにある大きな窓をじっと見る。外は、タクシーがまるでレースに参加しているように高い速度でアスファルトの上を走り、バスが停留所に止まり汗と雨に濡れた乗客を拾う。梅雨はピークに達した。

右側にあるテーブルに二人の老婦人が向かってくる。一人は顔全体を紫色のデザイン・メガネのでっかい丸いレンズで隠している。もう一人は、鮮やかな青いワンピースに黄緑色の花パターンのベストを着ている。

「おいとこうか」と、デザイン・メガネの婦人は椅子にドサッと腰を下しながら、花パターンの婦人が右手に持つ傘を指さして聞く。

「ううん。私、とりあえずトイレに行ってくるわ」と、花パターンの婦人は真剣な顔で答える。僕はその言葉を聞き、少し混乱する。何げなくトイレに行き、入ろうとした時に傘を忘れたことに気づいて困ったことがこれまでにあるだろうかと、思い出そうとするが思い出せない。水道が故障した時のため、ワンピースが濡れないように持って行くとでも・・?

婦人は傘を杖のように頼り、ゆっくりとカフェの向こう側に歩いて行く。「なるほど。多機能傘なんて便利だね。」僕は一瞬そう信じるが、次の瞬間に、もし急ににわか雨が振り出したら婦人はどうするかを考えてみる。洋服が濡れることを気にせず、傘に頼って急いで近くの店に入るか。それとも、雨が止むまで動けなくなることを気にせず、路上で傘を差すか。やはり多機能傘はそれ程便利ではないかもしれない。

そういうことを考える僕は、少し微笑む。


#3

11,38 レインボウランナー

 先の見えない社会に放り出された『私達』は、どこまで歩いていけばいいのだろう?
 そんな話を、いつかした。
 高校の……卒業式が終わって、下校中だった気がする。嗚咽と寒さで赤くなっていた、私の鼻をそっと触って、“後輩”はこう答えた。
『じゃあ先輩。毎年この日、一緒に走りましょう。晦鳴線の……レインボウライナーでしたっけ? あれ、仙田から小鶴青台まで、11分ぐらいで3kmのペースランに丁度いいんです』
 だから。
 もし私達が、地元を走る虹色の列車より、遅くしか走れなくなったら。それを「大人になった」証にして、子供時代を卒業しようと。
 そんな話を、いつかしたのだ。

「いくね、忍足」
 私の呟きは、3月頭の寒気に冷やされ、白く染まって空に消えた。
 現在、午後5時50分。太陽は彼方に沈み、僅かな赤さだけを、線路の向こうに見える水平線へ吐き出している。
 嗚呼、鉄のレールが震えている。
 虹色の列車が、仙田駅を出発すると同時に、私も地を蹴って線路沿いを走り出した。

「はっ、はっ」
 高校時代、陸上部で蓄えたスタミナは、年を追うごとに減っていった。私も今年で24歳。正直、しんどい。
 わざわざ代休を取って役所を休み、埃を被ったスニーカーの紐を締め、電車と並行して3kmを走る。
 何やってんだろ? と思う時はある。でも、欠かしたことはない。
 約束したから。たぶん、学生時代は好きだった、同性の後輩と。
 誓い合ったから。部でライバルだった、県内随一のエースランナーと。
 託されたから。去年、若くして癌で死んだ、たった一人の親友に。

『私きっと、先輩のことが好きでした。たぶん今も……。でも先輩は違う。好きに“なろう”としてただけ。だから行ってください。逃げるためじゃなく、進むために前へ』
 恋人でも理解者でもあった後輩は、そう言い残してこの世から消えた。
 あの生意気な横顔も、透き通った声も、二度と聞けない。
「忍足。私は」
 全て、後輩の言った通り。
 私は多感な思春期に耐えきれず、安易な逃げ道を見出していただけ。
 でも……
「私はまだ。まだ、走れるから!」
 それでも。止まれないのはなぜだろう?
 嗚呼。虹色の列車が、夜気を震わせて背後から追ってくる。
 私は最後の力を振り絞り、視界に入った小鶴青台駅を目指す。
 まだ、“大人”にはならずにすみそうだ。
 心の中で安堵すると、思い出の中の後輩は、困ったように首を傾げ、けれど笑った。



#4

私と貴方と時間と地下牢と。

私は、アナタのそばで眠りに落ちる幸せを、確かに感じた。それが私の感じた初めての、幸せだった。

『入ってきた奴は全員殺せ』
そう言われてからずっと私は牢屋に閉じ込められていた。
今まで何人もの人が牢屋に入れられた。私は、それを。
牢屋に入れられるのは、死刑になる人じゃない。私にもよくわからないけど、秘密を知ってしまっただけなんだとか、あいつを本当に心から愛していたのにとか、最期の言葉にそう言った人たちもいた。
知ることや愛することは、それだけで殺されなくちゃいけないのか、殺さなくちゃならないのか。
疑問を感じたこともあった。けれど、なんて思えばいいかは分からなかった。

そんなある時だった。彼がこの牢屋にやってきた。牢の端から、彼は聞いた。
「君は、いくつなの」
とっくに時間なんてものがどうでもよくなっていた私は、自分が何歳かだとか、分からなかったし、どうでもよかった。
「どうでも、いいかな」
「そっか、そうだね」
「…おかしいとか、思わないの」
「例えばどこが」
「知りたいことがどうでもいいってところとか」
「そうかもね、………。」
それきり彼は何も喋らなかった。私もそれきりにして、ただ二人で座っていた。

私、時間なんてものがどうでもよくなっていたの。アナタがくるまで。
「僕はね、」
アナタはふと、まるで大切なことを忘れないように話し始めた。
「国にさ、言われて。沢山のことを調べてきた。僕にとってはどうでもよかったことばっかり。僕はね、今まで自分が知りたいことなんか、分からなかったし、どうでもよかった」
二人きりの暗い暗い地下牢で、私たちはただそこに居た。水のように、錠のように、骨のように、袖のように。握り締めた手はいつからだったろう。
「でもね、」
「君のことは、知りたいと思う」
「…、」
「……わたし、も」
こういうのは、なんて言うのだろう、ずっと動かなかった歯車が、今。軋んで音を立てながらも少しずつ、確実に、動きだした。
ああ、これが、そうか。
罪、かも、しれないね。

やがて、外の人がやってきて、一言、遅い、と言い放ち、私たち二人を躊躇いもなく撃ちます。私は、アナタのそばで眠りに落ちる幸せを、確かに感じた。それが私の感じた初めての、幸せだった。そして私たちはまるで嘘のように、沈むように、消えるように微笑むのですが、それはこれからほんの


#5

六畳一間のハウスロッカー

 弾けないギターのネックを握り、ツルコケモモに吠えてみる。
 うらぁぁぁぁぁぁ!
 小さな赤い実がちょっと揺れた。いいんでないの。今日は、なんだかいけそうだ。ギターをスタンドに戻し、油にまみれユニフォームを詰め込んだバックパックを背負って、家を出た。
 「1、2、3、」
 アパートの階段を駆け下り、自転車のスタンドを蹴り上げる。
 「15、16、17、」
 前かごにバックパックを突っ込んで、サドルにまたがった。
 「20秒ルール!」
 長時間地面に触れていると死んでしまうのだルール。
 ペダルを踏み込むと、車輪がキコキコ音を立てる。服にまみれた油を塗り込んでやりたいと毎度思う。自転車がスピードに乗ると、キコキコが正確なリズムを生み、脳味噌の中でオリジナルナンバーが流れ出す。
 ♪俺は下町少年 未だ大きな夢は見ないけんど
  廃屋の天辺で 見渡せる限りが 今僕の世界
  昨日川原の土手で 君を泣かせて 僕も家で泣いた
  だけど下町少年 いつか大きな夢が見れるから♪
 六畳一間のハウスロッカー。スリーコードが循環するこのナンバーは、まだ誰も聞いたことがない。
 加速して、加速して、キコキコがコキコキになったところで、急ブレーキ。ゴムタイヤが地面を削り、ブレーキの悲鳴が夜空に響いた。
 「ガソリン満タン!」
 「馬鹿言ってないで、早く、支度しろ」
 そりゃ、ないんでないの。
 弛んだ皮膚まで油がしみこんでいるおっさんに顔を背け、斜向かいのファミレスに目を向けた。ミニスカートの彼女は、今日もこっちに尻を向けてテーブルを磨いている。
 ガスボーイとウエイトレスの恋なら上手くいくだって?そんな馬鹿なこと言ってるから、旦那に自殺されるんだよ。あの子はこっちに気づきもしない。センスも将来も感じさせない小汚いおっさんと、無意味な会話を繰り返して、朝までやり過ごすのが関の山だ。
 「おっさん、俺、一抜けた」
 「馬鹿言ってないで、早くしろ」
 オリオンに向かって、俺は吠えてみる。
 うらぁぁぁぁぁぁ!
 三ツ星がちょっと揺れた。
 「早くしろ」




#6

壊れたラジオを傍らに

 六畳一間には何もない。テーブルもなければタンスもない。皆が持っているテレビもなければ、ゲーム機もなかった。
 それが祐樹の家だった。
 ただラジオはあった。
 毎日、家にいる父親と一緒にラジオを聞いて育った。4時の時報で始まるAM番組が好きで、祐樹は学校に行くようになってもその番組を聞き続けた。
 父親はFM派だった。しかしFM波はまわりの建物に遮蔽され、うまく入らないのが常だった。FMを聞くときは誰であろうと窓際に行き、ラジオを天井にかざすという儀式を必要とした。
 ある日、祐樹が学校から戻ると、父親がラジオを天井にかざしていた。
「もうすぐ4時だよ」
「ああ。だがスペシャルウィークだ」
「ずるいよ。約束したじゃん。家の手伝いしたら聞いていいって」
 祐樹は父親に飛びつき抗議した。と、その拍子に父親の手からラジオが落ちた。
 鈍い音がした後、つまみがずれノイズが響いた。父親はすぐにラジオを拾い、つまみをもどしたが、ノイズは止まなかった。
「困ったことになったぞ」
 父親の表情に祐樹は早くも涙を浮かべていた。怒られるにちがいない。そう思い、身を固くした。
 だが父親は委縮する祐樹をしばらく眺めた後、ふっと肩の力を抜いて言った。
「どうやら宇宙人のラジオ番組を受信してしまったみたいだ」
「え?」
 聞き返えすと、父親は大笑いでラジオを渡してきた。
「ほら、ピューピューいってるだろう? こりゃ、ピューピュー星人の番組だ」
 確かにノイズには強弱があり、何か喋っているようでもある。だが、どう考えたってウソだ。困惑の表情で父親を見ると、父親は祐樹の頭を撫でて言った。
「ラッキーだな。ピューピュー星人のラジオなんてそう聞けるもんじゃない」
「これってノイズでしょ?」
「聞く人が聞けばそうかもな、でも、こいつはピューピューラジオだ」
 父親のとぼけた口調に、祐樹はなんだか楽しくなってきた。そして本当にピューピュー星人のラジオを聴いているような気がしてきた。
 今度は祐樹がつまみを回してみた。
「これは、ぐりゅぅぴぴー星人ラジオ?」
「レアだな」
 父親の応えに悪ふざけはエスカレートしていった。ラジオは壊れてしまったけれど、とても楽しかった。

 やがて仕事から帰った母親に二人とも叱られたが、父親はピューピューラジオだと言い張った。終いには母親も笑い出した。

 翌日、新しいラジオを家族で買いに行った。だが、壊れたラジオは今も家にある。


#7

とある日常の一場面

 彼女――琴吹は朝のHRの最中、教室の片隅、窓際の一番後ろの席で項垂れていた。その原因はつい先程、いつも仲良くしていた友達との間にあったいさかいだった。
 発端はとてもつまらないものだった。彼女が好きなアーティストを、その友達はあまり好きではなかったという、意見の食い違い。しかしあまりにも、言うなれば狂信的なまでにそのアーティストのことが好きな彼女にとっては、それだけで事の発端足り得たのだ。
 けれど、今考えてみればどうしようもなく大人気なかった。物の良し悪しの受け取り方など千差万別なのだから、自分の考えを押し付けてもそれは無理強い以外の何物でもない。
 そのことに思い至った彼女は、しかし素直に謝ることは出来ないと思っていた。それは、ただの意地でしかないのだが。
 逡巡しながら退屈なHRを過ごした琴吹は、一限目の授業の教材を取りに後ろのロッカーに向かった。
 そこで、同じく教材を取りに来たのであろう、榊と出くわした。隣りの席になって長く経つが、特に関わりがなかったので今まで殆ど話したことがない。あるとすれば、落としたペンを拾ってもらった時にお礼を言った時くらいだろう。だから彼女は特に反応も見せず、そのまま彼の隣りを通り過ぎようとした。
「……琴吹さん、なんか元気ないね?」
 すれ違いざまに彼は、首を傾げてそう言った。話しかけられるとは思っていなかったので、少し驚いて声を漏らす。
 それを見て、彼はおかしそうに小さく笑った。
 その笑顔が何となく癪に障った琴吹は、少しばかり不機嫌そうに眉根を寄せて短く言葉を返した。
「別に、そんなことないよ」
 少し、素っ気無かっただろうか。けれど、今は誰彼構わず愛想よくできるほどお気楽な心境ではないのだから――そう、自分自身に言い聞かせた。
 気づいていないのか、気にしていないのか図りかねるが、彼は微かに笑みを浮かべて、
「まぁ、それならいいけど。でも、無理はしないでね」
 そんな風に柔らかい声音で言って、笑みを深くした。
「……心配してくれてありがと」
 相変わらず声音は無愛想なままだった。しかし、あまり面識もないのに気遣ってくれる彼は、もしかしたらいい人なのかも知れない。――今度はもう少し、愛想よくした方がいいかな。
 それを今すぐ示すことが出来ないのは、素っ気無く接してしまって気まずかったこともあったが、結局――ただのつまらない意地に違いなかった。


#8

青春

 体育館で行われた体育のサッカーが終わり、恐ろしくおんぼろの校舎の横を通って、教室に戻る。入学後、初めての体育の時間に行われたサッカーは、ひと学年全員参加によるもので、授業が終わっても生徒達は、入学時期独特の弾む雰囲気に包まれていた。
 テーブルの上にこぼされた水は、表面張力で丸く膨らみ、小さな水は近くの塊に吸収される。間の空間を詰められない、離れた所にいる水は、塊に入る機会が無いまま、憂鬱な気持ちで取り残されていた。
 教室に戻るまで、話し掛けてみようかと思い横を見ると、そこに歩いていると思っていた、男の姿がいつの間にか消えていて、知らない女が一人歩いていた。
 人の塊の向こうで、違うクラスに入学していた幼馴染だった友人が、「あぁ、これが自由なのか」と、顔の皮一枚の所まで高揚を膨らませた表情で言っている。小、中とサッカー部だった彼は、同じくサッカー部に入るのだろう、新しい友人達のグループに入っていた。校則の厳しかった中学時代を抜けて得た、感慨から出た言葉なのだろうと僕は思った。


#9

魔王

馬が怯えているので「おい、馬よ」と私はやさしく語りかけた。
いったいなにに怯えているんだい?

「しげる様」と馬は私のことを名前で呼ぶ。
どうして怯えないでいられましょう、ほれそこに魔王がいるよおいらの魂を狙っている。

オーケー馬よ、それは木の枝だ。魔王のように見えるだけだ。だいたいね、魔王など夢の国の生き物だよ。マクドナルドのドナルドと同じだよ。現実社会には存在しない。馬よ、落ち着くのだ。私は急いでいる。私はあるご夫人に会いにいく。ご夫人に会ってセックスをするの。さあ急ごう。

いやだ!帰る!ほら今にも魂を吸い取られてしまうよ!

そんなことはない。だいたいよく考えてごらん、魔王がまず狙うのは、私だろう?どう考えても人間の方の魂を狙うだろうよ、つまり、私の魂を吸い取った後に、お前の魂を吸い取る。私が倒れたら、一目散に逃げればいい。ほら馬よ、ご夫人の館が見えてきた。あの館の中で私はご夫人とセックスをする。ああ思い浮かべるだけでぞくぞくしてくる。さあ、急ごう。

ときにしげる様、しげる様がご夫人とセックスしてる間、おいらはどこでなにをしていればいいのですか?

馬よ、もちろん外の馬小屋の中で干し草を食っていてもらう。大丈夫、ご夫人は最高級の干し草を用意しておいてくれる。なにせ、捨てるほどの財産があるからね。お前は遠慮なく干し草を食えばいい。

いやいやしげる様、外やったら魔王に狙い撃ちされるじゃない。わ!わわ!しげる様!魔王が今おいらの肩に手をかけた!

馬よ、馬よ、我は魔王、ちょっと聞いてほしんやけど。

しげる様しげる様!魔王がぼくに語りかけてくる!

馬よ、その魔王の声は、風の吹く音、お前は怖がるあまり風の吹く音を魔王の声だと勘違いしているの。だいたいね、魔王なんて幻想に過ぎないのだよ。マクドナルドのドナルドみたいなものだ。

しげる様、それ、さっき聞いたよ、でもたしかにおいらには魔王の声が聞こえるんだ。

馬よ、馬よ、我は魔王、落ち着いて聞いてほしい、我は今は魂を吸い取らない。なぜなら、魂を吸い取るためのストローを自宅に忘れてきて、魂は吸い取れないんで、ってことを、伝えたいのよ。

しげる様、しげる様!魔王がなんかストローとかわけのわからんことをいうとる!怖いよ怖いよ!

ご夫人の館にたどり着く頃、馬は錯乱してるし、魔王は馬の背に乗って、はいどーはいどー!言ってるし、私はご夫人との行為のことを考えて心ここにあらず。


#10

「“夏を爪で貫き蔦に覆われた大空を大鷲が渡っていった。暴かれた秋はすまし顔で丘の長閑な農園の木に綺麗な黄色を着せていた。”」
 男はタイプされた紙片から顔を上げ照れ笑いを浮かべたが、上唇が上の歯に貼りついてしまい齧歯類の下手な物真似のようだった。
「いかがですか」
 女は男の様子にも男が読み上げた自作の詩にも注意を向けていなかった。男とは二時間ばかり前にカフェテラスで出会ったのだが、そもそもどうしてそんな男を自宅に上げることになったのかまるで憶えがなかった。
「……表現が少し硬いように感じますわ」
「それで構わないのです。この頃は分かりのいい平明な言葉が流行りですが――」
 男の声が、消えていくという意識もなく消えていく。女は一週間前の嵐を思い出していた。渦巻く枯葉、ひと気の無い大通り、傘が飛んで、それを掴んだ太く長い指、低く控えめな声、白まじりの髭。男は車を呼んで来るといって女を物陰に連れていった。風に乗っているように軽やかな歩みだった。女は息が上がっていた。そしてその息が落ち着く頃になっても車はやって来なかった。女は一人で帰り、傘を失くした。初老の紳士が首を折られて殺された。この頃流行りの犯罪だった。この二つの出来事を女は今はじめて結びつけた。
 男の顔が間近にあった。手の届く距離にティーカップはなかった。女は背の力を抜き、顔を上げた。
「“手巾。白い端と端を縛って仕上げた私たちの小さな臥所。”」
 男が置いていった紙片には香りがつけられていた。窓を開けると、海底の貝のように黙り込んだ闇から雨の匂いが立ち昇った。千切った紙片を受けた両の手をそこに差し出すと、風が逆巻き男の詩をさらっていった。
 女はペンを取って机に向かった。あぶくのように詩想は現れては消えていった。椅子に沈み込むようにだるく、眠るように女は嵐の男を紙に現し出した。
“灯りがついて目がともる。わたしはあなたの猫になってそれを見ていた。”
 髭面と手の大小まちまちが埋め尽くしたその紙の端っこにようやく現れたのがそれだった。その時、擦れ違いざま首を落としにかかる馬上の騎士の一振りのように侵入して来た風が女の紙の縁を浮かし、男の描かれた魔法の絨毯を乗せ、ご丁寧にも窓を閉めて去っていった。直後、石のような雨が窓ガラスを叩き、この部屋を雨に染め上げた。
 女は湯に浸かった。何もかもが濡れて重々しい夜に、女の体だけが軽く浮かんでいた。


#11

しなぷすくん

「山本君、お茶を入れてもらえないか。」


‐お茶給湯室葉っぱ冷蔵
庫部長息臭い息子慶応金
曜日ファイルコクヨエク
セル部長息臭いフラボノ
カテキン給湯室雑巾ドコ
モ部長ハゲラーメンタバ
コ味噌冷蔵庫玉ねぎニラ
美子ドトールピアニシモ
成城金曜日東京メトロ部
長ハゲ男女雇用機会均等
法派遣塩ラーメン秀夫軽
井沢白樺ハゲ水泳部ラン
ゲルハンス島川嶋あいあ
いのりハゲおじいちゃん
島根スイカ塩川魚エビ中
野先生カテキンセクハラ
吉田君陸上部アシックス
お茶ファックスコピー男
女水泳オリンピックデジ
タルツーカー日産フェア
レディZ応仁の乱石川県
ファックス注文ドトール
anan1998ハゲデ
冷蔵ニフラカテキボ慶応
ドコ吉陸野おハンスねぎ
レディファオピピシック
クレデデレレクハンハレ
デデクレハハレレクレデ
ドドレドレハハハハハレ
デデレクレハハレハレレ
ハレハハハハレレレレレ
ハハハハハハハハハレハ
レレレレレレハレレレハ
ノハノレレレハハハハノ
ノノノハレハハハハハハ
ノノノノノノノノノハハ
レレレレレハドトール‐


「あっ、お茶ですね。」


#12

きのこ

 ……肌にきのこを植えたの。……心配いらないわ、表面の、老化したとこだけを食べてくれるのよ。食べきったら、ぽろっと取れるの……
「おい」同僚のバンカラ声で、居酒屋に引き戻される。「飲みすぎだ」
「……すまん」
「最近妙に付き合いいいじゃねえか。何かあったか?」
 ……身体をおおうきのこ。半透明の軸、暗緑色の傘。なめこを思い出させるぬめり。……酒を飲み下す。
「妻の手に、できものがな」
「それで、料理できないのか? カミさんは何食ってんだよ」
「俺が、色々買ってた」グラスを机に叩きつける。「……でも、治ったんだ」
 その日ドアを開けると、新聞紙の上で、裸の彼女が身体を曲げ、背中のきのこを取ろうとしていた。
「やだ、帰ってきちゃったの」
 彼は動くことができない。記憶の湖から、出会った頃の妻を引きずり出したような感覚にとらわれて。
「ねえ、背中の、取ってくれない」
「……いやだ」
「けち」
 彼女は頬をふくらまして立ちあがり、孫の手どこかしら、と棚をあさり始める。目が離せなくなる。不自然なほどの白さから。艶から。……振り返った彼女の唇を食む。離された唇から、唾液が糸を引いておちる。菌糸、と刺激に酔った頭の奥で思う。彼女が首を伸ばす。鋭い痛みを感じる。首筋にやった手に血が付く。彼女は顔をあげてくすくす笑い、彼の胸に顔をうずめる……
「治ったなら、帰ればいいじゃねえか」
「……ない」
「は?」
「帰りたく、ない」
 咬まれた首筋がじくじく痛んだ。「きのこ 美容」で調べてみると、顔にきのこを生やした女の絵が出てきた。アジアの何処かで描かれた、古い医学書の図だった。画像の元サイトは削除されていた。……どこで処置を受けたのか覚えていないの。泥酔してて。茶色い棚の並ぶ店だったわ……あはは、もしかしたら夢だったのかもねえ……
「……分かった」同僚が立ち上がる。「次。行くぞ」
 ポケットの携帯が震えた。病院からだ。
「シイナさまでしょうか? 」声は震えていた。
「はい」
「奥様が……」
「……エリが、何か」
「……身体中から……その……皮膚の下から……きのこが」
 手から携帯が滑り落ち、お冷やのグラスに沈んだ。透明な糸が視野を蝕んでいく。幾重にも重なって白い層となって……揺さぶられて、目覚める。おい、と呼びかける声が遠くから聴こえる。いつのまにか、床に倒れていた。
 同僚の首筋が、眼の前に見える。
 唇から、粘っこい液体が、糸を引いて落ちた。


#13

キルト

 死体に、寒そう、なんて言うと妹に笑われるかもしれない。口の端を上げて、鼻を鳴らすように。妹は普段から皮肉屋を気取る性質なので、その表情は想像しやすかった。
 見つけた死体は二本の太ももだった。線路沿いの歩道に並べて捨てられていた。太ももには女性の柔らかな丸みがある。地面に当たっている部分がひしゃげて平べったくなっていて、椅子に座るミニスカートの女の子が浮かんだ。この太ももは体と繋がっていない分、ひしゃげ具合も少ないのだけれど。
 いつも鞄に入れているビニールバッグを取り出し、死体を詰めると帰路を急いだ。バッグを胸の前に持ってきて、ビニール越しに死体を触る。まだ温かかった。僕は地面に横たわる自分の姿を思い浮かべ、寒そうだったのですぐに打ち消した。

 リビングにいた妹に防腐処理を頼むと面倒くさそうな顔をされた。最近生意気になりつつある中二の妹は、死体の防腐処理がとても上手い。小学生の頃からの経験によるものだ。
「あ、そだ、兄貴」
 リビングを出たところで呼び止められた。
「ん?」
 僕は立ち止まって顔だけを向ける。
「ヨリちゃん憶えてる?」
「ああ、うん」
 幼馴染だ。ただ小学校を卒業したと同時に引っ越して、以来四年間会っていない。
「ヨリちゃんのお母さんから電話があって、死体になったんだって」
「……へえ」
「んで、死体分けしたいから連絡してって」
「ん、わかった」

 死体組みは接着剤とホチキスを使うのが簡単だけれど、僕は糸で縫い合わせるやり方を好んだ。糸の柔らかさや、ある程度手間がかかる、その手作業感がよいのかもしれない。縫い目が少し盛り上がるところも好きな要素だ。
 死体分けでは頭をもらった。頭はお墓に入れるか親族が所有するのが一般的だけれど、僕の持っている死体に頭がないことを知ると譲ってくれた。断りはしたけれど、そのほうが頼子も喜ぶだろうと押し切られた。きっと親しかった誰かに死体組みの一つとして使ってほしかったのだろう。そうした考えの人も最近は少なくない。
 ベッドに置いていたヨリちゃんを持ち上げる。面影はあるものの、四年分だけ大人っぽくなっていた。もう少し連絡を取り合っていたらよかった、などと思うのはただの感傷だろうか。
 ヨリちゃんの首の端に糸をつけるところを想像した。ヨリちゃん、どんな声してたっけ。どんな表情浮かべてたっけ。僕は思い出しながら、小さなヨリちゃんを死体たちの上にそっとのせた。


#14

マスターベーション

『あなた、童貞でしょう?』
 画面の中であられもない姿をさらした彼女はそう言って笑っている気がした。通知表に「5」をずらりと並べた女学生がするような笑顔だ。その声なき言葉にマウスを握る手が凍りつく。背筋をすうっと、イヤな汗が伝っていく。肝心のモノに至ってはもはや目もあてられない程に縮みあがり、まるでルネサンス期の高名な陶芸家が気まぐれで作り上げた箸置きの如きみすぼらしさだった。
 それでもなお、ディスプレイの向こうの少女は無言で僕に訴え続ける。穏やかな微笑みを浮かべる口元が徐々に凶悪に吊り上がっていくような錯覚。その無垢な双眸が、僕の心の奥底を無遠慮にねめつける。やめろ。そんな風に微笑みかけるな。そんな目で僕を見るな。やめろ。やめろ――
「やめろッ!!」
そう叫ぶと同時、画面がスクリーンセーバーに切り替わり暗転する。漆黒の闇の中を跳び回るメーカーロゴをしばし呆けたように目で追った後、僕はようやく深い息をつき椅子の背にもたれかかった。
「くそっ!」
握りしめた拳を己の太ももに思いきり叩きつける。一体なんだって、よく知りもしない東方キャラのエロ画像スレなんて開いてしまったんだろう。一気に全身を倦怠感が襲う。いや、違う。倦怠感なんて生易しいものじゃない。身体を蝕まれるようなこの感覚は、そう、虚無感だ。丹念に焼き上げやっと食べ頃に焦げ目のついた特上の牛タンをふとした拍子に網の隙間から炭火の中に突き落としてしまったかのような虚無感。
 無機質な蛍光灯の光を見つめながら自問する。どうしてこんなことになってしまったんだろう。確かに僕は童貞だ。だが時は平成、金さえあればそんなものいくらでも捨てられるではないか。それなのに、そんな安易な道に逃げた腰抜けでさえ童貞を卒業すれば一人前として讃えられ、あえて貞操を守っている僕は疎まれ、罵られる。理不尽だ。僕は戦わねばならない。社会の不条理と、飽食の時代と、僕を蔑む蒙昧な輩と、戦わねばならない。貞操を守り続けなければならない。正義の徒で、居続けなければならない。
 未だ黒に染まったままの画面に映る僕の眼は今や、どこか遠い国で曇天の下、点呼を待つ囚人のそれではなかった。圧政の限りを尽くす帝国の軍勢にたった一人で挑むべく剣を掲げた革命家の眼だ。その瞳に宿る強い意思を確かめると、僕は聖剣を一閃するようにマウスを振るった。
 視線と視線が交錯する。僕は静かに射精した。


#15

世界遺産

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#16

思い出の海

思い出に浸りながら生きていくことなんてできない。
そんなことはわかっているのに、心にポッカリと空いてしまった穴を埋めるため、私の心は思い出の海に行きたがる。
あなたを探して……。

あなたが居なくなって3年になる。その時間が、もう3年なのか、まだ3年なのか。

あなたとの出会いは、クライアントとしてだった。会ったことも数回しかない。それ以外はメールしかやり取りをしたことがない。
初めはクライアントとしてのつながりがあったこともあり、メールは頻繁にやり取りをしていた。仕事に真っ直ぐなあなたは、わからないところはわかるまで確認してきた。最近は担当があなたから別の方に変わったためか、あなたからのメールは殆どなかった。それでも、私はあなたを忘れたことなどなかった。いつも心のどこかで、あなたを支えにしていたのだと思う。
真っ直ぐに仕事に打ち込むあなたを見習いたくて。

ある日、携帯メールにあなたからメールが届いた。珍しいこともあるものだと思い、メールを開いてみた。あなたではない別の人が書いた文章だった。あなたのお母さんがあなたの携帯を使って打ったのであろう。その事実を伝えなければならない思いと、その事実を受け入れられない思いとの間で、必死に。
その事実は私もはじめはうまく理解できなかった。時間が過ぎ、その意味が理解できたころ、私はただ涙を流していた。あなたが居なくなった。その事実に心にポッカリと穴が開いてしまった。

あれから3年。
お葬式で見た遺影があなたの最後の姿だった。その姿以外、あなたの声もしぐさも思い出すことなどできないのに、私はあなたのことを思い出すことが多くなった。それでも、あなたはもう居ないと思うと、忘れていた心の穴が大きく広がる。まるで、恋人が死んでしまったかのような。
そう、もしかしたら私はあなたのことが好きだったのかのしれない。最近になってそう思う。ずっと理想の働き方をする人だと思っていたけれど、実は違っていたのかもしれない。
今となってはもう自分の気持ちですら確かめる術はないが。

ただ、私はポッカリと空いた心の穴を埋めるために、今日も思い出の海にあなたを探しに行く。


#17

サイレン

 低く太い笛の音で目覚めた。
 下着姿だった。脱ぎ捨てたままのジーンズは湿り気を帯びていて、足を通すと腿がひやりとした。アパートの一室から眺める街並みが生ぬるい午後に浸されている。
 薄暗いキッチンに女が立っていた。水色のスカートに白いシャツ。ウェーブのかかった長い髪が濡れて顔に貼り付いている。うっすらと笑みを浮かべ、ひたすらに何かを刻んでいた。
 女の隣では薬缶が蒸気を吐き出しながらけたたましく鳴っている。
「何切ってんの?」
「魚」
「火、止めるよ」
 俺がコンロの火を消すと同時に女が勢いよく包丁を下ろした。まな板の上にはぼってりとした白い腹が横たわっている。胴体から切り離された頭は船員帽を被っていて、握り拳ほどの大きさしかない。
「それなんていう魚?」
 返事はなかった。大きな換気扇がぶおんぶおんと回転し、俺の言葉を外に放り出しているようだった。
 冷たい感触に足を上げる。床に水溜まりができていた。女の足元で雫が滴る。見ればスカートが股間のあたりからびっしょりと濡れていた。俺は思わず顔をしかめたが、次第に頬がむずむずして引きつったような笑みを形作った。
 スカートを掴もうとすると中から石ころのようなものが転がり落ちた。それは口を閉じたアサリだった。やがて大量の二枚貝や巻貝が、泡立つ水と共にばらばら降り出した。生臭いにおいが鼻を突く。
 降り止むと女はようやく俺の方を向いた。切った首を摘み上げて「これ、船長よ」と言う。
「この船はもうすぐ沈むの」
「船?」
 俺は窓の外の光景に目を見張った。広がる黒い海原、ガラスを叩く灰色の波しぶき。背後にあるドアの向こうを大勢の足音が通り過ぎ、悲鳴が上がり、誰かがボートを出せと怒鳴っている。ふいに眩暈に襲われ、部屋が左右に揺れていることに気づく。
「どうして」
「座礁したのよ」
 半ば影に沈んだ女の横顔が、海藻の絡まった岩の塊に見えた。次の瞬間、床が大きく傾き、割れた窓から大量の水が押し寄せて俺を飲み込んだ。

 暗い水の中で女が笑う。足の先で大きな尾びれがひらひらと揺れていた。部屋は跡形もない。換気扇の巨大な羽だけが残って近づいてきていた。俺は女に掴みかかったが、女はしなやかに身をかわし、ふわりと水面へ浮かび上がった。
 歌声を聞いた。入り江に打ち寄せる波のように青く澄んでいて、穏やかで、どこか寂しさを孕んだ声だった。それもすぐに、断末魔のような汽笛にかき消された。


#18

『さらば、愛しき火星床の軍隊よ』

 蒸し暑く、寝苦しい夜ばかり続く。窓を数ミリ開ければ降りしきる氷晶の粉が乱反射して、目には愉しい丑三つ時の夜景だが、外気の冷たさは輪をかけて鋭く、夜風に十秒と当たってはいられない。
 頭上からごとりと音がして、何となく天井裏のボイラーを散策する小人の姿が思い浮かぶ。扉は閉めているはずだが、忘れた頃にこうして抜け出てくるのだった。
 台所に入るや否や、物陰に逃げ込む影があったり、紛れもなく足跡であろう僅かな染みの連なりも確認できたりする。額から噴き出る汗を拭いながら温蔵庫の取っ手に指をかけると、ぼふん、と扉の隙間から蜂蜜色の粉塵が放たれて、危うく吸い込むところだった。火星床の赤鉄鉱は肺胞に巣食って棘を伸ばす。と言いつつも、いま目の前にあるのは模造の赤土だからどうってことはないのだが、知ってか知らずか小人たちはいたずらに粉塵を巻き上げるのだった。
 その行進は稠密で、覗いて観察すればするほどに気が狂いそうになる。小指の爪の半分きりない背丈の小人である。アルバ・パテラという山稜に棲む痩身の部族で、個人的には平原やクレーター海系に多く見られるずんぐりむっくりよりも気に入っている体型だ。
 先頭の小人が吼えた。一斉に数百の隊列が床を離れて、温蔵庫から溢れ出して来る。スポイトで応戦する。奴らは水に弱い。溶けもかぶれもしないのだが硫黄臭い煙を上げる。痛そうな素振りを見せるがそのときだけ動作が鈍くなるので、単に滑稽だ。

 何はともあれ作業の邪魔をした私が悪かったのだ。
 小人は深夜に領土拡大を図る。火星床本来の赤鉄鉱を体内で生成し、行進は吐き出したその粉末を踏み固めるための作業なのだ。そんな特性もあってか今年の四月から奴らを飼う事が法的に禁止されることとなった。火星に還すか、穴を開けた袋にしまい水没させるのが飼い主の義務。怠れば有害物所持で処罰される。火星の気候に合わせるためのボイラーも不要になるだろう。蒸し暑いだけならまだいいのだ、寝つけない理由は。

 行進する小人を見据え、温蔵庫の扉にもたれ溜め息をつく。諦め悪く隊列を目で追う。
 すると一体、頭頂部の朱い小人が踵を返した。今さら何を訴えるかと思えば、黒々とした瞳でこちらをはっきりと見、小さな右腕で、しっかりと敬礼をしたのだった。目頭が痺れた。だがなに……汗がしみたか、眠気のせいだろうよ。
 凍気が窓を叩く。怯えて乱れた隊列に、いまは目をつむる。


#19

さばくの鯨

 死んだラクダを500円で買った。店の主人は僕に、死んだラクダには水も餌も必要ないから砂漠のお供には最高の動物だと言った。
「じゃあなぜこんなに安いのか? ずいぶん役に立つ動物なのに」
「そりゃあ旦那、今生きてるラクダの数に比べたら、すでに死んでしまったラクダの方が圧倒的に多いからですよ」
 なるほど。つまりラクダの価値とは役に立つかどうかではなく、生きているか死んでいるか、あるいは数の多いか少ないかで決まるということか。
「ええ。旦那の選んだ奴はもう千年以上も昔に死んだ、ありふれたラクダですよ」
 僕は店主に500円を支払うと、死んだラクダの手綱を引いて砂漠を歩き始めた。後ろを振り返る度に街が小さくなって、その代わりに空が大きく膨らんでいった。
「ちなみに生きているラクダはいくらか?」
「一番安い奴で2万円ですね」

 あれから三ヶ月も砂漠の中を歩いていると、自分で自分の頭の中をさ迷っているような錯覚に襲われた。でもだとしたら夢のように記憶を手繰り寄せ、行きたい場所や会いたい人を自由に呼べるかもしれないな、などと空想を膨らませていたら、砂漠の真ん中に真っ赤な自動販売機が立っているのを発見した。
 コカ・コーラが1万5千円で水が1万3千円だったので、僕はコカ・コーラを買い死んだラクダには水を買ってやった。ラクダの口にペットボトルを突っ込んでやると、死んでいるくせに水を美味そうに飲み干しやがった。
 僕は砂に腰を下ろし、コカ・コーラを飲みながら世界の果てを眺めていた。もうここでゴールしてもいいような気分にもなっていたが、もう視界に入り切れないほど大きく膨らんだ青い空にぽつんと、針の穴ほどの黒い点が見えた。
「じゃあ死んだ人間はいくらするのか?」
 僕は砂に寝そべり目を閉じた。すると頭の中で黒い点が大きく膨らんで、脳味噌が破裂するかしないかくらいまで我慢したところで僕は目を開けた。
「ハロー!」と目の前の黒い塊が言ったので、僕は反射的にグッバイと返した。
「馬鹿ね」
 よくよく目を凝らすと真っ黒な鯨の上に女の子が立っている。君は誰だ?
「わざわざ砂漠まで呼び出しといて」
 女の子は鯨の背中を飛び降りると、鯨の脇腹にある自動扉をクーと開いた。
「あなたはもう死んでるのよ」
「馬鹿な」
 僕はもう二千年前に死んだのだとその女の子は僕に説明した。
「じゃあ君は誰なんだと僕は質問してる」
「私は単なる時間の粒。あなたもね」


編集: 短編