# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 紅と白の間には灰色の世界 | 雪篠女 | 939 |
2 | イン・ザ・パーク | りんね | 710 |
3 | ニコチン虫 | チャッキー | 880 |
4 | 感謝を…… | わがまま娘 | 831 |
5 | 鳩の墓 | 高橋信也 | 736 |
6 | 鼻歌 | かみつれ | 734 |
7 | 忘却 | こるく | 1000 |
8 | 回復する傷 | なゆら | 1000 |
9 | はじめまして | 霧野楢人 | 1000 |
10 | 一番綺麗なひまわり | STAYFREE | 946 |
11 | 酔いどれ | 三浦 | 1000 |
12 | 進まない鉛筆 | しろくま | 739 |
13 | 蛹化式(ようかしき) | 呑 | 999 |
14 | はらぴた | 金武宗基 | 466 |
15 | とんかつ | 伊吹羊迷 | 997 |
16 | 古い思い出 | euReka | 996 |
17 | ひとひら | 五十音 順 | 993 |
空は気分を重たく、胸を苦しくさせるような灰色に染まっていた。天気予報では雨が降るということだし、私の上でグテーッと伸びている猫も顔を洗っている。
そんな事を考えていると、額に冷たい雫がポツっと落ちてきた。ただ、一滴だからなのか、猫は私の上でぐでーっと寝転がったままだった。
そして、私は、猫の事など考えている気分でもなかった。そもそも、この猫は私とは何のかかわりもないただの野良なのだ。なんで、私の上に寝転がっているのか不思議でしかたがない。
いや、それは、どうでもいい事で、今私にとって重要なのは、友人の事だった。友人の事で頭を一杯にすると、空がそれを見透かしたようにぽつぽつと、冷たい雫を零し続けてくる。雫は、やがて雨となり、私の少し火照った体と頭を冷やしてくれる。心地のいい冷たさだった。
ここは、何時もの堤防ではない。ちょっと離れたところにある、友人にも内緒の雨に打たれるスポットだった。緑は季節柄まばらに地面を染めて、木陰には葉の影もない。
つまりどういう事かといえば、雨は私の体を何に防がれることもなく打ちつけ続けるという事だった。
私は夏が好きで、秋が少し苦手で、冬はまだ自分にも秘密にしておきたいと、独りごちる。
夏というのは清涼感が溢れて、この町の白い砂浜は、とても穢れのないものに見えて本当は胸が痛くなる。
私は汚れている。体ではなく、心が汚れている。何か悪いことをしたわけじゃない、この心の想いも悪いものじゃないと信じたい。
それでも、私は自分のことを汚れていると思っているのだ。だから、汚れた大気で作られたこの汚れた雨で、それよりも濃い私の汚れを流して貰おうと願っている。
友人がきけば“バカみたいなことをやっているんじゃないの”
きっと優しくいってくれる。彼女はそういう人だから・・・そういう人だからこそ、私の心は汚れて、穢れて、心の中で彼女を汚してしまう。
夜、眠れぬ夜に一人、心に彼女を思い浮かべて穢して汚して自己嫌悪したところで、その穢れも汚れも消える事はなくて。
私が雨に望んでいるのは、汚れや穢れを薄めてもらうことじゃなくて、流し方のわからぬ、膿んだ心からあふれ出る涙なのかもしれないと想った時・・・
猫がまるで返事をするように一声鳴いた。
ここはT市近郊の自然豊かな総合公園。
今は初冬で、寒風が肌を撫でるが、いつものように近辺の企業に勤務するOLやサラリーマンが昼食後の散策を楽しんでいる。
四季を通じてこの公園の情景を見ていると、気になる人物も何人かいる。
例えば、彼女――今、向かい側のベンチに一人で腰掛けて缶コーヒーを飲んでいる二十代後半ぐらいの女性。名前はカナエで、近くの食品会社に勤務するOLだ。
なにやら深くため息をついている。
「ユキヒロは、もう私のことなんてどうでもいいんだわ。連絡もしてくれない」
カナエはきつく唇を結び、俯いた。
ユキヒロとは、隣町の地方銀行の支店に勤務する青年で、カナエの勤務先とも取引きがあり、それが縁で二人は交際しているらしい。
二人は昼休みになると、よくこの公園の中で会っていたが、最近ユキヒロの姿を目にしていない。
「恋人とうまくいっていないのかしら?」
私が思わず呟くと、噂好きの仲間たちが話に乗ってきた。
「そういえば、ここ最近一緒にいないわね」
「他に女ができたんじゃないの」
「えーっ、可哀そうー」
「まだ決まったわけじゃないでしょ」
そのうちに、カナエは腕時計で時間を確認し、俯いたまま勤務先に戻って行った。
やがて、冬も本格的に入り、この公園も一面の銀世界となり、閑散としだした。
そして、長い冬が終わり、ようやく待ちに待った春がやって来ると、人々が笑顔と共にこの公園に戻って来た。
その中にはカナエとユキヒロの姿もあった。
「見て、桜がすごく綺麗よ、ユキヒロ」
「ああ、そうだね。でも、カナエの方がもっと綺麗だよ」
「本当に?」
以前のように仲睦まじい二人にほっとしながら、私たち――桜は一層花びらの雨を降らせた。
俺の体の中にはニコチン虫という悪魔が住んでいる。
この悪魔は十五年前に俺が好奇心で住まわせた。このニコチン虫は幻想と洗脳が得意。
ある聖書でニコチン虫は、俺の身体とお金を食いつくすだけの悪魔だと書いてあった。
俺は一瞬の隙をついて、幻想と洗脳を解き、ニコチン虫を追い払おうと決心をした。
儀式は簡単だ。今から三日間、何があっても絶対に餌を与えない。
別に普段とたいして変わらない。ただ十五年間、ニコチン虫と一緒に過ごしてきたから何か寂しい。
口とか心が……。
よく考えてみると餌を与えた所で、何も解決しないし、落ち着いたかの様に思わせるけれども実際何も変わっていない。
まだ一時間しか経っていないが、頭の中はそれしか考えていない。さすがに失恋でもここまでは考えない……。
まる一日が過ぎ、自分を誉めた。何度か諦めそうになったが、なんとか過ごせた。
「餌をくれれば楽になれるぜ」
ニコチン虫が話し掛けてきた。
数時間置きにニコチン虫は話し掛けてきたが、俺は完全無視をした。
だんだんと口調は荒くなり、ニコチン虫はなにがなんでも俺に餌を貰おうと必死になってくるのが分かった。
「どうせ、またくれるのだろ? それなら、今くれよ! 美味いだろうな、まる一日後は……」
俺は一瞬揺らいだ。こいつもこいつで苦しんでいるな。後三日間の命だからな。
「おいっ! 無視するなっ! 早く餌を出せっ!」
ニコチン虫はイライラしている。
「俺は本気だ。もう二度と与えない」
俺とニコチン虫の死闘が始まった。
二日目になると、ニコチン虫は食後と退屈な時以外は話し掛けてこなくなった。
食後の時は、やたらとうるさい。
「よく頑張った! もう十分だ。 今くれたら最高の気分にお互いなれるぜ!」
「せめて、一口だけでもくれよ」
「意地張るなよ、誰にも言わないから、おくれよ……」
俺は深く深呼吸をして、やり過ごした。
「こいつは本気だ」
ニコチン虫はそう言って、急に静かになった。
三日目の朝、ニコチン虫は何か作戦を考えているのか、諦めたのか、二度と話し掛けてこなくなった。
初めてその行為に挑んだときのことは、今でも鮮明に覚えている。
振り下ろしたナイフ。それが肉に食い込む感触。骨を切る音。骨を切る感触。吹き出す血。その血の生臭く、生暖かく、ねっとりとした感じ。恐怖に驚いたかのように口と目を見開いた顔。
首と胴体が切り離されたあとに、口が動き、手足が動く。切り口から血がドクドクと流れ、まだ生きているかのような行動をとった。
一瞬ののち、恐怖が僕を襲った。命を奪ってしまったことが耐えられなかった。
叫び狂った。そのあと、出もしないのに嘔吐を繰り返し、喉が焼けた。
毎晩毎晩目を閉じればそれが鮮明に呼び出されては、叫び、嘔吐を繰り返した。
初めのうちは耐えられないものだ、と先輩は言っていたが、こんな恐ろしいことにいつか慣れてしまうかもしれない自分自身がもっと怖かった。
ただ、ひとつわかってきたことがある。自分が生きるためにはそうするしかないのだ。
目を瞑り、現実から逃れるようにナイフを振り下ろしていたこともあった。見なければ、それほど衝撃も大きくないだろうと。
しかし、中途半端なことをすれば、一瞬の痛みで済むところが、苦痛を与え続け余計にもがき苦しめることになるのだと、気がついた。
命を奪うものとして、自分の罪の重さから目を背けてはならないと思った。
だから、ナイフを振り下ろすときは、絶対に目は閉じない。消え行くその命、最後まで自分で見届けるのだと決めた。
「こーら、なにしよっとかね」
遠くの方で、先輩おばさんが僕に言う。
「はやくせんと、コッコのほうが可哀想だろがえ」
鶏の首を持ち、立ち尽くす僕におばさんが言った。確かにいつまでもこのままでは鶏が可哀想だ。首を落とす前に、鶏が窒息死してしまう。
僕は、鶏を固定して、その細い首にナイフを振り下ろした。
ナイフが肉に食い込む感触。骨を切る音。骨を切る感触。吹き出す生臭く、生暖かい血が、僕にかかる。
生きている命を奪って、僕らは生きている。
僕らがいま生きていることに
僕らのために失われた命に
感謝を……。
一軒おいて左角の半間米穀店の同い年のミツコとは仲良であった。
その日、二人は大森浜に遊びに行った。新川河口に架かる大森橋右手の土手の切れ目から砂浜に下りた。
土用波が高く人影はなかった。私は暫く、砂地から偏平な小石を拾い、波打際で水切りに興じた。時には5回も石が跳ね返ることもあった。
ミツコは土手下に咲くハマギクの白い花を摘んでいた。ハマナスが群生していたが、既に花期は終っていた。
振り向くと土手の縁に海に向かい一列に鳩が10羽程止まっている。私の内部に縄文人の原始心性が蘇った。私は手に馴染む固い小石を探り、黒曜石の礫を握った。
警戒心の強い鳩に気付かれないように匍匐前進していた。
鳩の飛散と私の礫の投擲は同時であった。礫は空気を切り裂き、飛翔する鳩の群を襲った。
予期せぬことが起きていた。礫が鳩に命中し堕ちたのだ。それまで幾度もこの種の狩を試みたが成功したことは一度もなかった。全くの偶然であった。砂地に墜ちた鳩を両手で抱き上げた。まだ躯は温かく白い胸毛に鮮血が滲んでいた。瞼は閉じていた。無益な殺生であった。それまで感じたことのない悔恨の情で、私の躯が小刻みに震えた。自分の軽挙を嫌悪し、呆然と立ち尽くす私に、
【お墓をつくれば?】
ミツコの提案である。彼女は私の掌の魂のぬけた鳩の遺骸を撫でた。土手の砂地に二人で墓穴を掘った。穴の底にハマギクの茎を敷き、鳩の躯を横たえた。乾燥した砂で穴を塞ぎ野菊の白い花を手向けた。
浜風が強く地を這う砂の音が悲しく聞こえた。白波の立つ海峡の海は私の悪行を苛むように荒れていた。
その日の夜、台風が函館を掠めた。次の日、二人で墓参りに大森浜に行っが、大浪で土手下の砂が浚われ鳩の墓は消えていた。6歳の夏の終りであった。
病院嫌いのあたしの脳みそにサイレンが絶えないので、仕方がない、診察券を財布に詰め込んだ。先程便器にキスしたばかりなので、なにやら自分がまだ胃液臭い気がして仕様が無かったが、隣の猫がしきりににゃあにゃあと急かすので、猫缶を買うついでにと、早速騙って出掛けることにしました。
「行ってきます」
誰にとも言えない、強いて言えば隣の猫に外出を知らせた。
坂道をてくてくと三十度のぼる。すぐ隣を隣人の猫が付いて来るので、まだ、まだ、と言ってしっしと追い払ってやった。
胃が痛いから、胃腸科にも行かなきゃな。頭の片隅に、猫缶と一緒にメモを取る。そんな馬鹿なあたしですから、医者がおめでとうございます、なんて言うので、今日はなんの日だったかしらんと思いました。
「お大事に」
受付のお兄さんがぺらぺらと笑います、なにがそれほど愉快でしょうか。
白衣も手帳も領収書も、そう、今だに自分の体にもう一匹、生き物が入っているだなんて悪い冗談としか思えないのです。
ぼんやりとそんな哲学をしているうちに、あたしは坂道まで帰宅します。殺生が嫌いなあたしでも、生き物を育てることは恐いなあと思うのですから、父親(てておや)からお金を毟らなければいけません。
そんな未来を思うと、案外憂鬱になってしまって、自然顔をぐいと仰向けました。
夕空が大層綺麗でした。桃色と紅紫の千切れ雲の向こうに、夕日が沈んでゆきます。あたしは、涙をぽたぽた零して目が焼けるのも気にならないくらいに、彼女をずうっと見ていました。ぐすぐすと詰まった鼻はまるで不細工な鼻歌で、それだけで今日はラッキーな日でした。なるほど、おめでたいかもしれません。
その時、頭の中のサイレンは止んでいました。けれど胃腸科と猫缶を忘れていました。
とある忘れられた街に忘れられた小さなコンサートホールがあった。そのホールでは毎週末になると忘れられたオーケストラが忘れられた音楽たちを奏でた。そんな調子だったので、客なんか入るわけもなく、今日も客席には私とたった一人の老人しかいなかった。その老人は大柄で、よく日に焼けていて、麦わら帽子を被っていた。恐らく地元の農夫であろう。しかしながら、そのような場違いな存在にも誰も気など止めやしない。私たちもまた忘れられた聴衆であった。
前奏曲を終えると、奏者達はそそくさと舞台袖に下がって行く。私はいつものように交響曲が始まるまでの十五分の休憩で、用を足すため席を立った。私が席へ戻ると、私の隣席にいつの間にか老人が移動していた。私は軽く会釈し、席に着いた。
「先週も来ていたね」
「はい」
「どうだろう、この楽団の何がそんなに気に入ったのかね」
私は少し考えてから答えた。
「正直、この楽団の演奏技術は並以下です。酷いものだ。でも、今時こんな忘れられた楽曲を取り上げる楽団は世界中どこを探しても存在しないでしょう。私はそういう部分に親しみを覚えました」
老人は私の答えを聞くとほう、と小さく唸り、遠い目をして舞台を眺めた。そして、嗄れた声で語り始めるのだった。
「私はかつてこの楽団の棒振りだった。それこそ随分昔のことだ。その頃はまだこの街も活気に溢れていて、満員の観客を前に私たちは毎晩のように演奏をしたものだった。でも、今となっては私を覚えているものなどいやしない。全部忘れられてしまった」
「それは」
私は言う。
「とても悲しいことです」
「どうだろうね」
老人は言う。ジリリと鳴る襤褸チャイムが休憩の終了を告げる。
「忘れられるということも悪いことではないのかもしれない」
そう言い残し、老人は自分の席へと引き返していった。
奏者達が再び舞台上に戻ると、指揮者が閑散とした客席に向かって深く一礼をした。そして、顔を上げると私たちにウィンクをしてみせるのだった。老人は呵々と笑い、待っていたとばかりに大きな拍手を指揮者と楽団に送る。私もそれに従った。
そのオーケストラはそれから一年後に、自然の流れで解散となり、もはや存在すらなくなってしまった。しかし、私は記憶の中でいつでも彼らのことを思い出し、そこで奏でられた忘れられた音楽に耳を傾けることが出来た。そんな風に記憶に残る音楽は後にも先にも決してありはしなかった。
傷は回復しているが、同時に回転している。ぐるぐるぐるぐると回転しながら回復している。回転し、その遠心力で傷を吹き飛ばしているのだ。吹き飛ばされた傷は身体の別の場所にこびりついてしまう。どこだって傷つけられたくないから、逃げ出す。身体中のあらゆる部位が我先にと逃げ出すのだからたまらない。それについていく形で本体も逃げ出さないわけにはいかない。
「ねえ、なにから逃げているの?」必死で逃げているとふいに声をかけられた。
顔を上げると傷だ。あきらかに傷だ。傷は年の頃でいうと17、8の女の子だった。今先ほどまでわたしを追いかけていたはずの傷に声をかけられた。これはいったいどういうことだろうか。わからないことは専門家に聞くに限る。そのための専門家なのだから。専門家はいう。傷は急速に成長します。傷の寿命は短く、せいぜい1日です。人間でいえば80年が1日、だからさっきまで幼い子どもだったのに、10分後には乙女になっているのです。
なるほどそれなら、とわたしは傷とはなしをする。はなしは尽きない。やけに気があう。当然だろう、もともと同じものなのだから、運命によって分裂し、今は別の人生を歩んでいるだけで、出会うことは必然であったのだ。
わたしたちは意気投合し、食事に行くことにする。ダメだよ、いくら意気投合したって、乙女をいきなりホテルに誘うことはしてはいけない。わたしだってそれぐらいは心得ている。まずは食事だ。ガストで軽く食べればいい。もちろん食べ盛りの乙女は遠慮なく食べるがいい。わたしはその食べっぷりを見せてもらうよ。なんせこっちはダンディだ。紳士号も去年取得した。ドリンクバーでコーンスープを酌み終わる頃、乙女は腰の曲がった女性になっている。時の流れは残酷よ。あんなにドキドキしたのに、わたしは乙女、いや老婆に幻滅し、1万円札を置いてガストを出る。
外に冬が降りている。冬はわたしを非難する。あんたひどい男だ、なにが紳士号だ、ちゃんちゃらおかしいね、あの娘、泣いてたぜ、知ってるんだ、自分が老いてしまったということをだれよりも理解しているんだ。それでもあんたを信じたんだ。あんたそれを無視して、店を出た。その絶望感がわかるか。冬はわたしのコートをびゅうびゅうと吹き殴る。
わたしは自分の過ちに気づき、慌ててガストの店内に戻った。先ほど傷が座っていた場所にはなにもなく、ただ弱々しいキノコが一本生えていました。
流れ去っていく景色の中を電線は脈動する。できれば泣きたかったが、泣くには大人になりすぎていたから、仕方なく、佳代は敢えて少し気どったように、肘を窓際につき、外の様子を眺めながら、列車の中との温度差を想った。
この箱がこれから自らに見せるであろう街のことを、佳代はまだ、あまりよく知らなかった。それが不穏で、彼女は今も無意識のうちに、向かってくるものに背を向けて座っている。
と、線路の規則的な音に耳を傾けているうちに、動悸が奪われ、眠気が与えられたのであろう。老婆に話しかけられて、佳代は自分がいつのまにかまどろんでいたことを知った。背中を曲げ白髪を拵えたありふれた老婆であったが、こげ茶色のジャケットを着ていて、古風とは言い難い。
「おとなり、いいかしら」と言われ、佳代は突然のことに動揺し、それを隠すために「どうぞ」と即答した。しかし次にちょっとあやしくなり周りを見ると、車内は依然閑散としている。無論向かい合わせになっている目の前の席にも人は座っていない。なぜ自分の隣に座って来たのか、佳代には分からなかった。
目の前の席の上、空いているからと高を括って放ってある自分の荷物が目に入り、佳代はとりあえずそれを膝の上に移そうとする。だが老婆は佳代の意図を悟ったらしく、それを制して微笑みながら言った。
「私はね、単純に過去を見送るのが好きなのよ」
佳代は眉をひそめた。その言葉はそもそも不可解であったが、それ以上に、彼女は自分の不安を見透かされているような直感を覚えたのであった。揶揄されているわけではないのであろうが、少し居心地が悪くなる。
しかし佳代の様子に構わず、老婆は続けて言う。
「心配ないわ。私はあなたに、おまじないをかけに来たの」
そして佳代は、老婆に頭を擁かれた。
驚いた。だが、伝わってきた老婆の温もりと、香水の香りが柔らかく、それが拒絶の衝動をなだめこむ。
「夢だと思えばいいわ。でも、あなたはきっと大丈夫よ」
そのまま、老婆はいつまでも優しく佳代を包み込んでいた。
目が覚めると、ちょうど列車が経由駅から再び動き始めた時分であった。周りを見渡せば老婆は既におらず、車内は混み始めている。彼女は慌てて目の前に放ったままの荷物を取ろうとし、しかし、少し考え直して、腰を上げる。
外では、たくさんのシャボン玉のキラキラとした光が飛んでいた。
やってきたその眩しさに、佳代は目を細めた。
ある時、お金持ちの主人が下働きの2人の女性、メルバとナージャにこんな命令をしました。
”ここから少し離れたところにひまわり畑があるだろう。わたしはあのひまわり畑で一番綺麗なひまわりが見たい。それぞれ、一番綺麗だと思うひまわりをわたしに見せてくれ。良い方には褒美を与えるとしよう”
ひまわり畑にやってきたメルバとナージャ。
「あの奥に咲いているのが一番綺麗だわ!あれにしましょう!」
メルバは夢中になって、手前にあるひまわりを掻き分けて、目当てのひまわりを手にしました。確かにそのひまわりは黄色い花びらをたくさんつけて、内側の円形の部分とのバランスも良く色も鮮やかでした。
一方、ナージャはというと畑の手前で立ちすくんで一向に花を取りに行こうとしません。元気に生き生きと、そして優雅に咲いているひまわりたちをただ鑑賞しているようでした。
やったわ、ナージャはやる気がないみたい。これはわたしの勝ちね!意気揚々とメルバは自分がとったひまわりを手にして先にお邸に戻りました。
「ご主人様!わたくしがあの畑で一番、綺麗なひまわりを取ってきました」
「メルバよ、このひまわりが一番綺麗だと言うのか? わたしにはこのひまわりは悲しげに首をもたげているように見えるが」
確かにメルバが持ってきたひまわりは畑で咲いている時とは違い元気がなく、しおれてきている感じすらします。
そして、その後ナージャがお邸に戻ってきました。
「ご主人様、わたくしもあの畑で一番綺麗だと思うひまわりを持ってきました」
しかし、その手にはひまわりの花ではなくスケッチブックが握られています。
「これを見てください」
そこにはたくさんのひまわりの絵が書いてあり、そのどれもが太陽の光を浴びて輝き、とても美しく描かれていました。
「わたしも最初はメルバと同じように奥のほうに咲いているとても綺麗なひまわりを見つけました。でも、そのひまわりを取るには手前にある他のひまわりをなぎ倒していかないといけません。それにこの畑に咲いていればあのひまわりはもっともっと綺麗に咲いていられる。なので、花は摘み取らずに絵にすることにしました。」
主人はやさしく微笑んでナージャの絵を手に取り、この絵はわたしが買おう。と言って100万ドルをナージャにわたしました。
歩き出したその歩幅が気に入らない、と男は踏み出した足を元の位置に戻した。すると風に流されて来た紙幣を偶然踏んでしまい、男はその金で一杯ひっかけることにした。
酒場が開くまで入口のドアの前で立って待っていた。白く大きな犬が男の足元をしばらく嗅いでいった。夢遊病者の手つきで若者が店を開いた。男の長い影が看板を出す若者の体をなぞっていき薄暗がりに溶け込むと、男は着いたカウンター席から一番安い酒を有金いっぱいに注文した。南瓜のように硬く脹らんだ店主がようやく姿を現して、男は少し考えた末に一番高い酒を頼んだ。店主は靴跡のくっきりついた紙幣を胡散臭そうに受け取ると、小さな器に少量の酒を注いで男に差し出した。男は顔だけをちょこんと突き出して酒の輝きを見、音を鳴らしてくんくん嗅いだ。店主と若者は酒をじっと見つめたまま動かなくなった男を息を殺して眺めていた。男が親指と人差し指で静かに器を持ち上げたところで学生連中が靴音荒々しく入って来た。男は肩をびくつかせて驚き、咄嗟に盗んだ物を隠すような身振りで高価な酒を胃の中に流し込んだ。男は空になった器を不思議そうに眺め、虚空を見上げると、何かぶつぶつ言いながら背中を丸めて酒場から出て行った。その日、呑み過ぎた一人の学生が病院のベッドで息を引き取った。
風が走っていた。あちこちに目を配ったが、紙幣らしい影は見当たらなかった。男は騒がしい酒場の前で何度も、足を出しては引っ込める動作を繰り返した。しかし金は釣れなかった。橋に差し掛かり、盲の乞食に金を乞われ、男は反対に乞食の金を少量くすねたが、それに気がついた乞食はしかし何も言わず往来に声を張り続けた。橋の終わりに来て、男は別の乞食にその金をくれてやった。その乞食は声が出なかった。
小さな劇場がマッチの火のように灯り、男の影を地面に淡く繋ぎ止めた。丁度モリエールがかかっていたが薄い壁越しにくすりとも聞こえて来なかった。男は大欠伸をし倒れるように踏み出したその一歩で、今日二枚目の紙幣を捕まえた。
男は教会にやって来た。誰の姿もない。一度椅子の隅で丸くなったが、繭を破るように体を起こすと、祭壇までよろよろ歩いていき、右の靴の中に隠していた皺くちゃの紙幣をきれいに伸ばして二つに折ると、燭台の上にゆっくり翳した。炎が紙幣に移り、大きくなった。黒い粉を払うと、男は祈り、陰になった椅子の暗がりに帰っていった。
原稿の〆切が迫っているが、中々思うように進まない。真っ白な原稿用紙の前で、無駄に費やした時間だけが溜まっていく。しかし時間は一向に鉛筆を進ませない。〆切の日を私の前に近づけてくるばかりだ。
外で盛の雄猫が鳴いている。三日前からうちに住み着き始めた白猫は構わず私の横隣の畳の上で丸くなっている。時折目を覚ましたかと思えば頭で私の左肘を小突いてなでろと急かす。頭をなでてやる。アゴ下をなでれば喉を鳴らす。右手の鉛筆は進まない。諦めて両手で抱いてやろうと腹の下に手を回せば嫌がって場所を移してまた眠りにつく。逃げ場を逃した私の右手は渋々また鉛筆を握って原稿用紙のマス目を持て余す。イジメっ子のようだ。通せんぼされたように焦らされるマス目。通せんぼする鉛筆。しかし通せんぼをしている鉛筆の方が、そこから動けなくなっている。
困っているとまた猫が体を私の膝に寄せていた。健康的であるが細身のために背骨が当たる。着々と〆切が迫ってくる。腹を上にして伸びをしている。そして直ぐにまた、頭をなでろと肘を小突くのであろう。
机上の鉛筆立てに入れていた裁鋏を右手で手に取る。猫の頭の上に持っていく。猫は気付くとゆっくり起き上がり、畳に爪を引っ掛けまた伸びをする。そしてちょこんと座って私の目を見つめた。
「僕を切って小説にするのかい?」
「そういうつもりでもない。ただ書けないだけだ」
「切られるのは嫌だな」
「私もいつか首を切られる」
「僕を切っても何もならないよ」
「星の粉になって消えるかな」
「そんなこと言って」
その気は無く、只小さな衝動で刃先を猫の首筋に当ててみた。すると身震いした猫と鋏が星の粉となり、宙で消えた。あっけにとられたが、猫の言っていた通り私は束の間の時間と鋏を一丁失っただけだった。
気づけば集中治療室の中、私のベッドの前で、強制蛹化だ準備をしろ、と医師が叫んでいる。私は朦朧とする意識のなか、蚕人の蛹化について高校で習ったことを思い出していた。……身体が著しく損傷・老化・あるいは死亡した場合、蛹化する。蛹の中ではヒトでいう子宮のあたりでクローンされた原基が急速に成長し、古い身体はすべて食細胞に食べられてしまう。蚕人が染色体数、ゲノム構成ともにヒトとほぼ同じであるゆえに、医療技術に応用される……
父を心筋梗塞でなくしかけたときも、蛹化式で復元します、と言われた。
私は医師に、父の人格はどうなるのか、と訊いた。
……特殊な食細胞を使います。お父様の体を食べると共にすべてをスキャンするようようデザインされた。それに基づいて、お父様の原基を創ります。脳も再現されます。
それで父が、出来るんですか。
そのための蛹化式です……完全変態する昆虫が、蛹の中で何をしているか、ご存じですか。
いえ、と答える。
記憶の反芻ですよ、と頭を指さす。幼虫と成虫原基は異なるものなのに、ですよ。消えゆく幼虫と成長してゆく成虫は、同じ夢を見ている。
でも、完全には受け継がれないのでは……
そうですね……しかし、私たちは一瞬一瞬違う自分を生きている。記憶になることによって初めて、連続している<自分>を感じられる。完全なんてものは、ないんですよ。
……結局その言葉に納得して、私は蛹化を承諾した。新しい父は、それまでの父と変わらぬ様子で生き、老衰で死んだ。
目覚めたとき私は羽化していた。夫もなぜか一緒に羽化していた。わけを覚えているか、と私の病室にきた夫が問う。私が首を傾げると、彼はそれ以上なにも言わず、自分の病室へ戻った。引っかかりを覚えつつも、揃って退院した。家に入ると、玄関に飾っていた花瓶がない。わけを訊くと、夫は荷物を床に落とした。
それできみが僕を殺そうとしたからだよ、と彼は言った。私には何を言っているのかさっぱりわからなかった。リビングにあがると、口論がはじまる。言い合いの果てに彼は私に馬乗りになり、首を締める。私は本能的に側の棚を開け、包丁を取り出し彼の首を横に貫いた。彼は柄に手をかけて抜こうとするが出来ない、赤い泡を吹き、私を怒りとも悲しみともしれないまなざしで見ていたがやがて焦点があわなくなり、涙をこぼし、やがては血も涙もとまり、
私は、
気づけば集中治療室の中、
ここ、宝町三丁目商店街はいつもちょっとした事件が起こります。昨日だってさ、達夫君が、、あ、秘密秘密!
今日はどんな事件が起こるやら、、
トラブルメーカーの、むーさん、ムードメーカーの八吉、そしてなんといってもサンパチのハジメ君!
ってことで、、、
「興亡記、昨日の年金、年度末。」
‐‐‐‐‐‐‐‐‐キリトリセン‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
宝町三丁目商店街 抽選会 補助券
10枚集めてね!
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
これにて、宝町三丁目商店街のお話はおしまい。
期待させちゃったかな?
じゃ別の話。
魚がいたんですよ、ある湖にね。
、、、これもベタやなあ、やめよ。
最後は山師になるんだけどね。予想どうりだったね。
すんません。
あーもーいー
厦門ね、、あれは、
相模原六条、起死回生の雨。
聡子はいつもそうだった。
「ええのんや!うちは、。ほっといてんか!」
「せやけど、むこうハンも待ってはるさかい、、」
西陽に氷が溶ける。オレンジが部屋を幕っていた。
わかちこわかちこ。
人はなぜ生きるのか考えながら大きく腕を振って歩いていると、「ごはん 豚汁 キャベツ お新香 おかわり無料!」と書かれたノボリが目に入った。そういえばとんかつなど久しく食べていなかった。何年も前、センター試験の前日に母親が揚げてくれたのが最後ではなかったか。良い匂いが鼻をくすぐる。道路を挟んだ向かいのカラオケボックスから花束を持った学生達が出てきた。卒業おめでとう。お疲れさま私。
千百八十円のロースカツ定食(上)を頼むと、まずガラスボウルに山盛りになったキャベツと、二種類のドレッシングが運ばれてきた。梅ドレッシングと特製ドレッシングで一瞬迷った後、店の名前を冠する理由があるのだろう、と考え特製ドレッシングの瓶に手を伸ばす。ドレッシングを左手で振りながら右手で銀のトングを持ち、キャベツを小皿に取る。キャベツだけではなく三つ葉も盛られていた。萌黄色の草原の中に、燃えるような深緑。乳白色のドレッシング。うまい。ドレッシング特有の鼻に来るきつさがなく、キャベツと本当によく合っている。うまい!
今度は梅ドレをかけてみようかと考えているととんかつが届いた。揚げたての衣は黄金の輝きを放っている。六つに切り分けられたその姿、ちょっとオーストラリアに似てるかもしれない。塩とわさびと醤油が入った三連皿、白米、豚汁も届いた。私は右端の一切れ(衣多め)を塩にチョンとつけて口に放り込んだ。噛むと脳髄にまで響く音! 同時に油と肉汁がジュワリと染み出し、塩と溶け合って……私は言いようのない幸福感に包まれる。揚げたてのとんかつは人を幸せにする。鶏のから揚げでもポテトでもいい。揚げたてはいつだって卑怯だ。
わさびでいただく。うまい。醤油でいただく。うまい。すりごまと一緒にソースでいただく。うまい。お新香は白菜とゆずのあっさりしたやつだ。豚汁はやさしいお味で、がっつく私を宥める。梅ドレッシングの突き抜けるような酸味と爽やかさが、私を次の一切れへと突き動かす。
全てを食べ終え、大きく息を吐いた後、私は「なるほど」と無意識に呟いた。なにがなるほどなのかはさっぱり分からないが、このとんかつには私になるほどと言わしめる力があったのだきっと。
また、誘惑に負けた。が、なんだかすがすがしい気分だった。私は靴紐を結びなおし、ぬるい春の夜の空気を切り裂くように、胸を張り、大きく腕を振ってウォーキングを再開した。
鳥を追いかけていたら、ずいぶん遠くまで来てしまった。風景はどこまで行っても変わらないのに、遠くて、地名さえ知らない場所では全てが偽物に見えてしまう。という錯覚は、ほんとうに錯覚なのか。
「その鳥は何色だったの?」
「僕はただ追いかけているだけさ。色など知らない」
じゃあなぜ私なんかに尋ねるのとその女は、窓に差す暗い夕陽に手をかざしながら言った。
「なぜなら、君は偽物じゃない気がしたから」
じゃあ私が偽物だったらどうするの?
「だって、いま夕陽を掴もうとしている君の右手は義手だろ。嘘の手なんだろ?」
ええそうよ。むかし幼い頃に、神様が私の腕を奪ったの。でもあなたの言い方は酷すぎる。嘘の手なんて。
「すまない。でも君の失った右腕のことを、僕は古い手紙の中で読んだことがあるんだ。その女は右腕を捜して、夜をあてもなくさ迷うのだと……つまりあの鳥は君の右腕だったのさ。これで話の辻褄が合うよね」
あなた、病院に行ったほうがいいみたい。私はただの売春婦で、あなたはただの客でしょ。やることやったら、私の前から消えて。
(僕は女に金を投げつけると外へ出た。病院へ行けだと? なぜ人は傷つけ合うことしか出来ないのか。ほんとうの話をしようとすると、なぜ拒否されてしまうのか?)
「鳥にはね、もともと色なんてないのよ。だって鳥は空に見棄てられたのだから」
「君は誰だ? また女か?」
私はいい女よ。まだこの世には生まれてないけど、あなたのお母さんなのよ。
「すまないが、君の時間は狂っている。僕にはもう母がいるんだよ」
母が一人だけなんて誰が決めたの? あなたの母になりたがっている人は大勢いるわ。
「僕は鳥を捜しているんだ。母は関係ないだろ」
でも危険よ。あの売春婦や鳥のことはもう忘れなさい。
(僕は女の言葉を振り切ると、あの売春婦の部屋へ戻った)
もう一度、僕の話を聞いてくれないか? 君が病院へ行けというなら僕は行く。月まで歩けというなら歩く。なぜなら君が、僕の鳥だからさ。
「じゃあ月まで歩いて。今夜は店じまいしたの」
じゃあ教えてくれ。君は誰だ?
「私はあなたの敵。母じゃない」
じゃあ僕を殺すのか。
「あるいはね――でも古い写真の中で、あなたの鳥を殺したのはこの私」
ならば古い日記の中で、君の右腕を奪ったのはこの僕だった。
「そういうこと」
であるなら僕の腕を切れ。
「いいや殺す。子供の頃に交わした古い掟に従って」
「ねぇ、いっくん。あたし、夢があるんだ」
「ん?」
「あの最後の一枚が散っちゃうまでは、生きてたいなって」
その言葉に、思わずリンゴを剥く手を止めた。
一瞬タチの悪い冗談かと思ったが、それにしてはベッドの上に半身を起こしぼんやり窓の向こうを眺めるレイの眼はつまらなそうだった。空調と秒針がやけにうるさく感じる。俺もつられて外に目をやると、病室のちょうど向かいに、桂の木の赤茶けたハート形の葉が一枚、落ちるタイミングを逃して夕暮れの空に淋しげに揺れていた。
「バーカ。どこの小説だ、それ」
茶化したつもりだったが、上手く笑えていたかはわからない。気まずさに堪え兼ねて無理やり手の中のリンゴに意識を戻した。剥き終えたそいつを切り分けてウサギの彫刻を施し、皿に載せてレイのほうに押しやる。気の利いた言葉の一つでもかけてやりたかったが、口をついて出たのはただの悪態だった。
「ったく。お前がいつまでも良くならないせいで、リンゴを剥くのだけはこんなにうまくなっちまったよ」
「それならあたしだって、いっくんのせいでバトルマンガ、好きになっちゃったもん。お互い様だよ」
俺の軽口に真面目に頬をふくらませてにらんでくるあいつがおかしくて、緩みそうになる口元を俺は必死に引き締めた。
思えば、俺はずっとこうやって何かを恐る恐る確かめていたんだ。
想いをはっきり口に出したことは一度もなかったけど、俺は付かず離れずくらいでちょうどいいと思っていた。今さら気持ちを伝えるつもりはない。レイが入院してもう四年になるが、その考えはずっと変わらず、俺は四年前と同じように週一でここにやって来てはリンゴを剥いて話し相手になってやるだけの幼馴染みを演じている。穏やかな時間だった。
でも、最近はその見舞いが日課になりつつある。この関係がもう長くは続かないことは、お互いにわかっていた。
レイは余命二ヶ月の宣告を受けている。……もう、半年も前に。
本当は、今日ここに来れていることが奇跡なんだ。
ふと時計を確認する。面会時間の終わりが迫っていた。
「んじゃ、そろそろ帰るわ」
「うん。また明日もリンゴ、持って来てよ。待ってるからさ」
レイの笑顔は、どこかぎこちなかった。俺たちは不器用なところまで似た者同士なんだ。
去り際に窓に目をやると、ハートのシルエットだけがやけにはっきり浮かび上がっていた。
最後の一葉は、まだ散っていない。